04 物語の始まり
阿呆なの?
傭兵にとって、雇い主に対するその評価は、後々重大な事案を引き起こす看過できない情報である。
エリスにとってもそれは同様だ。
特に傭兵団を率いている身分としては、決断しなければならない身分としては。
しかし、その感想の割に、ここが戦場である割に、今はまだエリス達の出番ではなく、待機状態であったためか、その表情は男たちの卑猥な馬鹿話を聞いたときのような、その程度の険しさしかなかった。
眉の張った気の強そうな顔立ちが本気で怒ればこの程度ではないし、まだ二十代後半であるとみられる女でありながら、百名近い傭兵団の団長である彼女が殺気をまとえばこの程度の穏やかさでは済まない。
波打った、癖のある赤い長髪は、戦場ではまるで赤い稲妻のように敵陣を切り裂くのだ。
女性の平均身長よりも頭一つは高く、すらりとしてはいるが鍛えられた撥条の塊のような体つきは炎狼のようでもある。団員の肩や頭に身につけたスカーフに描かれた陽炎を伴った狼はまさにそれを表したものだった。
その傭兵団を率いているエリスは今、悩んでいた。
いや、後悔していた。
いや、悩んでいた。
この選択は間違っていたのではないか、と悩んでいたし。
この賭けに乗るべきではなかった、と後悔していたし。
じゃあ、どんな選択肢があったのか、と悩んでいた。
「他に選べる雇用主はないのよね」
それは彼女の性格による表現で、より正確に言うなら、『選んでもらえる』雇用主は他にない、だ。
東方における傭兵稼業は一般的な職業ではあるが、傭兵団の結成とその解散も同様の一般的な事象である。結成三年以上の傭兵団の存在数は結成数に対して三分の一ほど。十年を超える『老舗』となるとほんの一握りだ。
だから、エリス率いる群狼傭兵団が結成一年足らずで解散の危機に陥っているとしても、なんの不思議もないのだ。
そしてその理由も有り触れた経済的な原因である。
有り触れていようがなかろうが、団員たちにとっては飯の種を失うというそれなりに危機感のある状況だが、彼らはまた新しい職場を探せばいいという選択肢がある限りそれほど大した問題ではない。
だが、団長という権利と債務を持った(債権など無いのは当然だ)立場ではそうはいかない。
「なんでこんなことになっちゃったんだろう……」
エリスは深い溜め息を吐くと、鼻根を人差し指と親指で押さえた。そろそろしかめっ面はお肌に厳しい年齢に差し掛かっているが、現実は何の配慮もしてくれない。
傭兵団が解散になれば、債務者であるエリスには個人の借金としては莫大な額が残ることになる。
そうなると、残るは奴隷落ちなんていう、考えたくもない選択肢が目の前まで来る。
妙齢の女性である限り、どんな奴隷になるかは自明の理だ。
しかし、そうはいってもエリスは自分ならそうならないだろうということも、予想はできた。
それなりに激動の青春時代を送って、世知も世渡りもできる自分なら貴族のオヤジでもたらしこめば後援者にでもなってくれるかもしれない。オヤジをパパにするわけだが、それが奴隷とどう違うのか、エリスの価値観では微妙なところだった。
ああ、こんなことなら大商人の奥さんにでもなっていればよかったかも。
なんて嘆きが浮かんだが、その選択肢がエリスの幸福な未来としてあったわけではないだろう。そうだからこそ『物語の結末』を迎えるということより、東方で今も傭兵団長なんてやっているのだ。
すべてエリスの納得ずくめの選択の結果だ。
納得した上での選択の結果だからといって、結果に納得できるかどうかは別問題。
とはいえ、
先の悪い未来を考えてもしょうがないと、エリスはそこで嘆き悩むのを止めて指先を鼻根から離すと、替わりにその長い足を後ろに振り上げた。
足が長いとその分遠心力が働く。鞭のようにしなった足の爪先は、その先にあった椅子の脚を打ち払った。
椅子の上には人が座っていたので、当然その人物もひっくり返る。
いや、座っていたというより寝ていた。とにかく『それ』ごとひっくり返る。
「ドっう!?」
頭から落ち、奇妙な声を上げたその人物が何事が起こったのかと慌てて後頭部を押さえながらからだを起こした。
二十代後半から三十路ほどの男だ。
白い麻のシャツに、茶色い綿パンにブーツ。筋肉質な体つきの男だが、どこかのんびりとしたモノを感じさせる。
男は目の前に立つエリスとその形相から何が合ったのかわかったのだろう。
「ひっどいなぁーエリス。起こすなら優しく起こしてくれよ」
気安い口調で男が笑いかけてきたが、エリスは相反して厳しいというより、冷たい視線を返す。
「その前にお気楽に寝てんじゃないわよ」
エリスの言葉に、男は頬を掻く。
エリスの言葉に、妥当性はない。なぜならこれから任務に赴くのはエリス達、群狼傭兵団であって、雇い主である男はまさに寝ながら結果を待っていても何の問題もないのであるから。
では先ほどの乱暴な起こし方をエリスがなぜ行ったか。これから命がけの特攻を行うエリスとしては、我慢がならなかっただけだ。
雇い主に対する不信感というものもある。あとは大貴族中の大貴族でありながら、気安い雰囲気があることも原因だ。
現に男の護衛であるはずの騎士がこのテントの中に数名残っているが、彼らもエリスの取った行動に何の反応も見せていない。どちらかといえば、「ほら怒られた」という風である。
本来の男の身分を考えればありえないことだ。手討ちにされてもおかしくない。
本当に『あの』大英雄の息子なのかしら?
と、彼自身の緩い雰囲気や、部下からのぞんざい扱いを見てまさか、自分が詐欺にあっているのではないかと不安になった。
エリスは男と出会った時の事を思い出した。
数日前のことだからまだはっきりと覚えている。
だがしかし、その時正常な判断ができていたか、というと自信がない。
団の経営のことで精神的に不安定だったし、なにせあの時は少しだけ酔っていた。
悪い男に騙されるには、十分な条件が揃っていた。
男の名はクィントス・S・ビスマルク。
かの『四天のビスマルク』の嫡子。つまり東方軍総司令官征夷大将軍を二百年間拝命してきたビスマルク公爵本家の長男として生を受けた男。
これは、ある名も無き子どもの父親と母親になる、そんな夫婦についての始まりの物語。
……かもしれない。