32 確率論
女傭兵。群狼傭兵団団長エリスは三百名の兵士を眼下に見た。
隊列を組んだ兵士が一様に自分を見上げる様はさすがのエリスでも経験がない。
見たこともない光景を見ていた。
だが、その中から、目標である異民族の王を見つけるのに苦労はない。
自分と目標の位置を把握し、空中で薄赤瑠璃色の刀身を持つ魔法剣を振りかぶった。
そして、選択した発動詞を呟く。
「……縄墨自在・散」
正当なる主人の正しい詞に反応し、魔力を吸い上げ、薄赤瑠璃色の魔法剣はその力を発現する。
ボッと刀身全体が盛大に炎を吹き出した。
それを眼下、自分が着地する地点にいる兵士に目掛けて撃ち振るう。
主人の動作に正しく反応した魔法剣は竜の咆哮のように、横薙ぎに十メートル近い巨大な炎を放った。
エリスの持つ魔法剣の付加能力は『発火』。
その名の通り、炎を生み出す力だ。
魔術師の素養のないエリスのために作られたその魔法剣(この言葉は誤用で実際は魔導剣もしくは魔道具というのが正しいが、一般的には魔法剣と呼ばれるのが通例)には、三段階での能力が付与されている。
一つは零距離発火。エリスの腕が合わされば鉄をも切断する高温を発現する能力。
二つ目は魔術師並の火球を発生させる能力。
三つ目が今しがた使った、広範囲に炎を撒き散らす能力だ。
エリス専用の武器として鍛造されたこの剣は、全てが一定規格に、つまりエリスに合わせて造ることで魔術師としての才能がないエリスでも使えるようになっていた。
魔術師とは魔術を扱う技術を持つ専門家という意味だ。
しかしこの世の全ての存在は魔力を保持している。
つまり、エリスが魔術を使えないからと言って、エリスの魔力量が魔術師に劣っているとはならない。魔術師でないということは誰でも持っている魔力を上手く利用できないという意味なのだ。
この魔法剣はそれを『自動的』に引き出すエリス専用武器だ。
専用といっても、実は所有者が魔導契約によって定められているわけではない。そういう機能をつけることはできるが、エリス自身が意味が無いからと断った。複雑な能力を付加すれば付加するほど脆く弱くなるからだ。
しかし、エリスより魔力量が優れている者が使ったからと言って、エリスより大きな又は高温の炎を発現できるわけではなく、逆に魔力量が少ない者が使えば、強制的に魔力を吸い上げられエリスと同じ炎を発現はできるが、最悪の場合には『魔力切れ』に追い込まれる。
全てを、刀身の長さ、太さ、重さ、バランス、魔力消費量までをエリスに合わせているという意味でのエリス専用武器だ。
その中でエリスが選んだのは最も広範囲に炎を撒き散らす能力。
炎の持続時間や温度を考えれば、松明を近づけられた程度の効果しかない。
だが、見た目は派手で相手を驚かせるには十分だ。
エリスが三つの発火能力の中でこの能力を選んだ理由。
それは着地地点と族長の下までたどり着くための経路の確保が目的だ。
エリスの背中に羽がない以上、地上に降りなければならず、一面に広がる敵方兵士達の中にその場所確保しなければならない。そして、着地してからも数メートルとはいえ敵方兵士の間を縫って、移動しなければ相手の王のもとまではたどり着けないからだ。
見た目上は竜の咆哮のようなそれは、相手の兵士たちをその場から遠ざけるのに成功した。これがエリスが相手の頭上を飛び越えるという荒業によって相手が理解不能に陥っていなければ、もしくは部族同盟の兵士たちが東方軍人程度に訓練されていれば、その場から反射的に逃げ出そうとはしなかっただろう。
エリスはその空いた場所に、飛び越えてきた勢いに反して、勢いを推進力に変換しながら着地すると直ぐに前面に駆け出した。魔導制御から開放された炎が、物理法則に従い消える。その炎が消えきっていない内に駆け出す、それほど素早い行動だった。
複数の要因によって作り出された好機を逃さないために。
そして、軍としては正しい行動は取れないとしても、軍人として正しい行動を取れる者はきっと必ずこの中にいると予測していたからだ。
エリスの卓越した敏捷性を支える優れた動体視力が周りの状況を時間が停滞したかのようにエリスにとってゆっくりと正確に描写する。
正しい行動を取れた敵兵は一人だった。
自分たちの大将を護ろうとしたのは三百名いる中でたった一人だった。
予測していた中では最上と言っていい結果だった。ただの一人も正しい行動を取れないことが最上と言えるかもしれないが、流石にそれを期待するほどお気楽ではない。
エリスが広範囲に炎を撒き散らす能力を選択した理由。敵を驚かし、着地地点と移動経路を確保した以外にもう一つあった。
それはこのように正しい行動を選択した警戒すべき人物から視界と時間を奪うことだ。
いくら松明程度の温度と光度しかないといっても、『普通の人間』はその炎を近づけられて平気な訳がない。歴戦の兵士であろうと、歴戦の経験により咄嗟に動くしか無い。
正しい行動をした人物から、行動の選択肢を奪う。それがエリスが炎を撒き散らした目的だった。
正しい行動を選択できた兵士は、年嵩の小柄な男だった。
その覆われた筋肉。眼の上に走った刀傷を見ても、只者ではないことを物語り、エリスと蛮族の王の間に割って入ろうとしている行動が彼の性質を物語っていた。
エリスはその男に向かって投擲した。
炎の温度と光度が残っている内に、それほど素早く、それに隠れるように一本のナイフを、空いた手にまるで無から現れたほど素早く、滑らかに腰元から引き抜く動作と同時に投擲していた。
一瞬の行動の中で、選択可能な選択数が一の中で、とにかく王の命を護ることを選択した、たった一人の戦士にそれを避ける術はなかった。
正しい選択をしていたその兵士の行動は、エリスから見れば正しく邪魔な行動だ。やってもらっては困るのだ。
だからそれを邪魔するために、異民族の王までの道を確保するために、小さなナイフを投擲した。
小さなナイフは刀傷の男に命中した。
最大限の速力を持って投擲したそれは急所を狙ったわけではない。男の腕に突き刺さった。
小さなナイフが突き刺さったが、通常それは正しい行動を止められるほどの威力はない。
だが、エリスは上手くナイフが男の肉体に刺さったことにほくそ笑んだ。
元帝都の盗賊。
そのエリスの経歴を知っていたならば、この刀傷の男、戦士アンガスは対応できていたのだろうか。いや、そういった時間を奪うための、情報を奪うための、エリスの放った炎だったから、結果は同じだったろう。
ナイフには麻痺毒が塗られていた。
帝国北東部に生息する大蛇の魔獣から抽出した毒。
一瞬で獲物の行動を不能にしてしまう。
獣の毒のようにいくら強力な麻痺毒でも致死性はないがその分魔獣の毒の即効性はまさしく魔術効果と同様の結果をもたらす。
一瞬で殺せる毒よりも、一瞬で行動不能に陥らせる毒を選択したのも、まさに元盗賊としての性分だったのだろう。
そしてその結果を見届ける時間もなかったから、炎狼の二つ名にふさわしく、異民族の王に向かって剣を振りかぶり獲物に向かって飛びかかった。
牙のように鋭く上段に振りかぶった剣を振り下ろす。
99%上手くいっていた。
エリスの反骨心が、自身の命をまったく考えずに取らせた行動が、全ての智慧者の思惑を破壊していたのは99%までだった。
99%。
それが正しい数字なのかはおいておいて。それは直前まで上手く。自分の命をその中に含めないという意味で上手くいって、それが最後の最後で思い通りにはいかなかったということだ。
当たり前のことだ。
エリスの行動は正しい情報と、準備と、判断に基づくものではなく、破れかぶれの特攻だったのだから。それが一から十まで、100%上手くいくはずがない。
たった一人正しい行動を起こした戦士アンガス。
彼が最後の最後にエリスの1%を奪った。
即効性の麻痺毒を受けた筈の戦士アンガスによって奪われた。
正しい行動故に正しい結果を得られたのか、戦士としての矜持がそうさせたのか。
単なる惰性が活きたのか。
戦士アンガスは間に合ったのだ。その場に割って入ると左手で以て盟主アラールを突き飛ばすと、右手に持った剣で自身の頭上を庇った。
エリスの剣は盟主アラールの代わりにその場に入れ替わった戦士アンガスの右腕を切断した。
戦士アンガスの刀身に当たらなかったのは単なるエリスの幸運で、戦士アンガスにとっては単なる不幸だった。それほど、歴戦の戦士両名が微調整など反応などできないほど一瞬の出来事だった。
右腕を切断したエリスの剣はそのまま右の眼球を切り裂き、そのまま腹の下まで振り下ろした。
しかし、戦士アンガスは右腕と右目を切断されてなお、両の脚を踏ん張りその場に居座った。
それがエリスの1%を奪ったのだ。
これがエリスの持つ魔法剣の、その最大攻撃力を誇る零距離射程の発火能力であったなら、戦士アンガスの体は真っ二つになって、紙の衝立ほどの障害にもならず、エリスはもう一歩踏み込んで今度こそ盟主アラールの命を奪っていただろう。
しかし、その発火能力はすでに一度使われており、連続で発現することはできなかった。
だから、戦士アンガスは右腕と右目を切断されてなおその場に立っていた。
そのことが、エリスの一瞬の特攻を終わらせた。
エリスは後ろに飛び退った。
判断というより反応だった。
戦士アンガスの反撃を恐れたわけではない。
正真正銘、敵兵三百名の真っ只中にいながら、作戦は失敗し、特攻は妨害され、万策が尽きたとエリス自身が認めてしまったからだ。
それを見届けるかのように戦士アンガスはゆっくりと背を下に空を見上げるように倒れた。
こうして、
三百名の兵士が呆然と見守り、
その中で女傭兵団長エリスが剣を突きつけ威嚇し、
倒れた戦士アンガスに、彼の腹心の部下たちが駆け寄り、
盟主アラールがたった独り突き飛ばされへたり込んでいる。
そんな状況が生まれたのである。




