02 思導者
「それじゃあ、引いてちょうだい」
気軽な声色が、殺伐な戦場で、意外なほどすんなりと聞こえた。
「よろしいのですか?」
副官は一応様式美としてその言葉を選んだ。
「よろしいですよぉ」
惚けたような返事が返ってきたが、副官は儀式が終わったとばかりに疑問には、不信には、捕らえずに、後ろを振り向いて部下たちに指示を出す。
山間部での戦場を主とする東方軍には珍しく、騎馬に乗った騎士たちが控えていた。
その部下たちが、さらに部下たちに命令を下す。
「え? え? え?」
客人だけが、客人としての敬意が払われているかは疑問だが、貴族だけが、わけが分からずに、狼狽えていたが、当然誰もそれに答えないし待ちはしない。
声によって、旗によって、銅鑼によって、狼煙によって、魔術によって、血液が体を廻るように、変化が伝わる。
方陣を組んでいた防戦一方ながら、強固で矛を一切通さなかった守りの陣形が、パカリと底をあけるように後方が『開いた』。
保守的な人間が、改革者を蔑むような言葉で言うならば、
構造改革原理主義者の馬鹿の一つ覚えとでも言われるように、それは悪手である。
「マクゲンティ将軍!!」
貴族が堪らないとばかりにまた叫んだ。今度はより必死に、だ。
奇をてらうとかそういう事以前に、自殺行為のような、ようなというよりもそのままの行いだったからだ。軍事の知識がなくても分かる。軍事の知識があっても同じ評価を下すだろう。
方陣によって強固な守りを成していたはずなのに、それを自ら解いてみせたのだから。
事実、方陣の開いた蓋はあっという間に蟻の大群に飲まれそうになっていた。
その自殺行為のような行いの結果に、自身の命が含まれているのだから当然の叫びかもしれない。
だから彼は気が付かなかった。
「左を滑らしてちょうだいな」
気軽な声色は変わらず、マクゲンティ将軍と呼ばれた老人は命令を伝える。
副官は今度は何の疑問の言葉もなく配下にそれを伝える。
あっという間に細い糸のようになった『蓋』に沿うようにして、左軍がまさに滑るように、『蓋』に続く。
まるで節目があるかのように、一度食い込んだ楔に、左軍はスルリと刺さった。
「次は僕達、打ち合わせ通り、君は右を率いて最後方をお願いね」
畏まりましたと、副官はまた命令を発する。
「せ、説明しろ! マクゲンティ将軍!?」
だが、誰もやはり答えない。しかし、
「それではティミソン公爵様。車にお乗りください。死にたくなければ」
とだけ告げて、副官は自分の率いる部隊の方へと馬を走らせていってしまった。
不敬な物言いの叱責を受ける前に逃げたようにも見えるが、そうではない。
ここからはもう、時間とも戦わなければならず、貴族の男にかまけている時はなかったのだ。
それに貴族の男は、ティミソン公爵は気が付かなかった。
副官の男の不敬な物言い。そして嫌味に。
自分のファーストネームに公爵と続けたことも、それが決して彼の家名をその男のものだと副官が認めてはいなかったなどということにも。
ティミソン・ビスマルク公爵は気が付かなかった。
だから、副官は悪戯が成功したように、馬を走らせながらほくそ笑んだ。
それから少しして、方陣の中央部分が左軍と蓋の細い隙間にまた打ち込まれる。
まるでリーマーのようにその圧力がさらに小さな隙間を広げてみせた。
最後に残った右軍がその隙間に、さらに突撃する。その隙間、空白地を加速路として、蟻の大群がつくっていた黒い人だかりの、薄『かった』場所に作ったさらに薄く『した』場所を突き破る。
突き破った右軍に続いて、中央部分だった部隊が続き、蓋が続き、左軍が続く。
まるで魔術のように、手品のように、まるで鰻のように、スルリスルリと蛮族達の包囲網から逃れてしまった。
蛮族達は押していた壁が突然なくなったかのように『つんのめり』、統制が乱れる。
東方軍はそのまま後方へと逃れてしまった。逃れたマクゲンティ将軍率いる千の部隊は暫く走って距離を取った後に反転した。
あっという間に陣形を整える。
残念だな。
と、副官は思った。
貴族の男はもう、「説明しろ」と慌てふためかせることはできないだろうから。
惜しいことだ。この光景を見れば、小便の一つでも漏らしてくれるかもしれないのに。
そんな余裕はないだろう。きっと今頃、あの帝都からお越しになった『模造品』は戦車の席に頭を埋めて、もう外を見てはくれないだろう。
いや、そもそも気が付かないかもしれない。
事実あの貴族様は気がついていなかった。
マクゲンティ将軍が『打ち合わせ通り』と言った言葉を。組んだ方陣陣形内での伝令に狼煙や魔術による手段までを用いた理由を、気がついてはいないだろう。
まぁ、仕方がない。
嫌味を解するにも知性は必要だ。あの愚かな『偽物』にはそんな期待は持っていない。
いや、あの貴族様を責めるのは酷というものだと、副官は思い直していた。
自分だって、きっと事前に説明されていなければ、気が付かなかったからだ。
彼の主君である大将軍であっても同様だろう。大将軍はそんな策など物ともしないという規格外の存在であることも原因だが。
こんなことに気がつくのは、マクゲンティ将軍を除くなら、副官は一人しか思い浮かばなかった。
そう言えば、あの二人。マクゲンティ将軍と『若殿』はどこか雰囲気が似ていた。師匠と弟子だからかもしれない。
この『策』を読んでいたかもしれないと、副官が思ったのもそういう理由だ。
それは良いとしてやはり残念でならない。
あの中央の狸共の度肝をこれ以上抜けないというのは。
しかし、仕方がない。仕方がないから今回は蛮族共の族長の首一つで満足するしか無いだろう。
それだけで周りの者たち、特に『若殿』を若殿とは認めない連中には、これ以上無い英雄としての証となるだろう。この東方では誰の血を引いているかなど問題にしない。何を成したかで判断するのだ。
近年東方軍にとって最大の脅威となった部族同盟の盟主である族長の首は誰もが納得するしか無い武功である。
そして貴族様同様愚か極まりない蛮族共は気がついていないだろう。
なぜこの場に中央政界で権勢を振るって『いた』貴族がいるのか。大将軍の右腕、というよりも頭脳である『思導者』マクゲンティ将軍が、少数兵力のみでいるのか。
この場に東方軍最強の『矛』であるカール・ビスマルク。『四天』のビスマルクがいないのか。
それをなぜ蛮族たち自身が知っていたのか、『本当の原因』も。『目の前のご馳走が美味しそうに見えた』理由も。
再び組んだ陣形が、またも方陣であったことも。
また角砂糖に群がる蟻の大群のように見えたことも、それが先ほどまでとは少し位置が『ズレ』てしまっていることも。方陣が実は『方』陣ではなく、文字通りの背水の陣。いや現実に即して言うなら『側山背水の陣』つまり逃げ場のない袋小路に防御の陣を敷いた理由を。
頭に血の昇った奴等は気がつかないに違いない。
自分たちの首が胴体から離れるその瞬間まで、気が付きはしないだろう。