18 麦酒
制圧が完了し、設営が終わった。
東方の名もない林にも夜が訪れた。
男たちが酒を酌み交わす、それに伴う笑い声が聞こえてくる。
87名の群狼傭兵団も、明日にはここにいるのは60名。
おまけに明日からは酒宴はおろか物音も物陰も明かりさえも制限しなければならない。
そんな生活に入る前にエリスは部下たちに最後の酒宴を開かせた。
部下たちの下品な笑い声を遠くに聞きながら、エリスは正方形に建てられた中型天幕で机と椅子をリクライニングチェア代わりに一人読み古した書物を読んでいた。
宴会に上司がいては部下たちも楽しめまいと配慮したものだ。あとは男所帯にいる女性として一線を引く意味もある。
軍隊にかぎらず、男性集団における女性はトラブルの元になりやすいという自身の教訓からエリスは普段も部下たちと酒を酌み交わしたりはしない。
それでもエリスがこれだけの男たちを率いているのは、それだけ彼女が優秀だからだ。
東方では女性の戦士も、女性の指揮官も珍しくはない。
使える者は親でも使うし、仕える者は優秀であるか否かでしかない。
そういう意味では東方は帝国の中でも進歩的だと言える。戦場で古黴びた価値観など何の意味もないと分かっているからか、元からそういう気質が東方人にあるのかはわからない。
そういう東方人に比べると、帝都育ちのエリスの方が凝り固まった価値観がある。
群狼傭兵団に現在エリス以外の女性の傭兵はいない。
後方支援や例外的な場合を除き極力入団を許可しないのが原因で、それは殺気立った場所に、女はいるべきではないとエリスが考えているからだ。
そういう場所は、女を不幸にしかしない。
「邪魔するよ」
風を入れるために開かれていた天幕の入り口から声がかかった。
エリスは本から顔を上げなかったがそれがクィントスだと分かった。
女性の天幕に用もないのに訪れることを禁じていることを知らない者も、守れない者も今の群狼傭兵団にはいないだろうし、何より、その軽い口調は既にエリスの記憶に刻まれていた。
出資者に群狼傭兵団の日常生活部分の掟が適用される訳はないので、エリスとしては文句も言えない。
差し入れを持ってきてくれた余所者に目くじら立てるのも大人気がなかったし。
クィントスは細長い陶器の瓶をエリスの脚を置いている机の上に置いた。
そこでようやくエリスは顔をあげると、脚を下ろして、本も置き、礼を言った。
クィントスは天幕に置いてあった椅子を持ってくると机を挟んでエリスの対面に座る。
用が済んだら出て行け、と言ってもいいけれど、言わなくてもいいので言わなかった。
蓋の開いていた細長い陶器の瓶を取り上げ、匂いを嗅いでみると甘い香りがした。
麦酒のようだが、随分と上品で上等なもののようだ。瓶も含め見覚えがないのでクィントスの持ち込んだものなのだろう。
クィントスが机に身を乗り出して自分の瓶を差し出してきたので、エリスも軽く瓶を差し出して乾杯する。
二人は麦酒を口に含んだ。
クィントスはぐいっと、エリスは一口。
がぶ飲みするにはぬるい温度だが、それは状況を考えれば致し方ない。それにぬるくても十分に旨い。
「……」
「……」
「……あー、それで?」
クィントスが先に口を開いた。エリスとしては別に黙ったままでも、用事が終わったのなら出ていってもらっても良かったのでクィントスが先に口を開いた。
だが、エリスとしても答えようのない質問には答えない。
「調子はどう?」
下手くそだな。
エリスは再び麦酒を口に含む。目線で特に変わりはないと答える。
「そりゃ結構だ……」
クィントスは右手で麦酒の瓶を掴んだまま、左手で鼻と顎髭を触りながら話題を探すようにそわそわと身じろいでいた。
エリスは話題を提供するのは男の役割だとばかりに答えない。じっとクィントスの白い顎髭を見ながらそれを摘んで抜きたい衝動にかられていた。
「そうだ。エリスはどうして傭兵に? しかも傭兵団の団長なんて地位に、その歳で」
そうだ。なんて無理矢理話題を絞り出した感が満載だが、逆にエリスとしては答えやすかった。
「そうね」
とようやく口を開く。
「成り行きとしか言えないけど」
エリスは帝都周辺で仲間と冒険者をしていた。
その仲間たちとパーティを解散してからは東方に流れてきてからは、傭兵になった。
冒険者と傭兵に本質的な違いはない。
どちらもハグレモノだし、ハグレモノゆえ、自由だった。
パーティを解散した理由もその辺にある。その辺の事情をクィントスに言う気はないが、有り体に言えば他の仲間達は目的があって冒険者をしていたが、エリスは自由に生きるために冒険者をしていた。
「成り行き任せに生きてたら、こうなったってだけ」
その言葉に嘘はない。傭兵団の団長なんて地位も、望んでなったわけでも、望んで団を創ったわけでもない。
「その割には、莫大な借金を作ってまで団を存続させてるんだな?」
「自由に生きることと、気ままに生きることは同じじゃないもの」
エリスは自由に生きたかっただけだ。行きたいところがあったわけではないが、生きたい様に生き、行きたいところに行くこともできない始まりがあって、それ対する行動の結果が今あるだけだ。
あの日、仲間たちの輪に加わって、帝都の裏社会を抜け出したのはエリスの意思で、そこを抜けて一人、東方にやってきたのも別に仲間たちとの和が乱れことが原因でもない。
今でも、あの日々は懐かしく大切な思い出だ。
「冒険者時代の仲間とは今でも連絡を?」
「さあ? みんなそれなりの人物だから噂に聞くくらいね」
まるで心を見たようなクィントスの言葉に、エリスは素直に答える。
クィントスはエリスの過去を調べ、帝都の盗賊だったことまで調べ上げた男だ。
おそらく、エリスの冒険者時代の仲間の名前も、素性も知っているだろう。元A級冒険者で東方にいるエリスの耳にも風のうわさは届くくらいだ。調べたというほどの苦労もいらないだろう。