3.1 楡慶樹
デモ行列のシュプレヒコールの合間、親密な愛想笑いが続いている。背中を目で追いながら、わたしはその左右で同じくこぶしをゆらゆらしている二人の女を確かめる。二人とも楡の知り合い。大学時代の後輩だ。楡は出来は悪かったけれど、過去問を山ほど集める機敏さがあった。後輩にくばって歩く手間も惜しまなかった。二人はその恩恵にあずかっていて、落第した楡と結果的に同級で卒業している。
「街全体の”物語”の雰囲気はおかしいけど。個人のはそんなにやばくは感じない」
加奈子はそう言っていた。
プラカードを振り上げるのに疲れたわたしは、左側の女を押しのけて楡のとなりに陣取る。楡が惹かれている女に偽装している。
「新館工事、反対!」
一斉に集団が声を合わせる。雑草が震えるような野太い音になる。地元のホテルの新館工事。この月はその工事に目がつけられた。
「騒音がよ、眠れたもんじゃねぇぜ」
楡がわたしの肩をたたいて続ける。わたしはそう、と応えてわたしは楡の腕をさりげなく払う。
月の頭に工事が始まった。それだけのこと。現実は大した工事ではない。老朽化した旧館と入れ替えだ。たかが3階の小さなホテルの建築だ。そのはずが”書き換えられて”いる。今、町の敵はこの工事だ。
月に一つ、この町には敵が作られる。先月は、便座を作る工場。その前は、幼稚園。荒らされ、壊されて、落書きで真っ黒になる。職員が夜なべで掃除をし、疲れて呆然とした謝罪が続く。
そうして月が過ぎると、敵の存在は忘れ去られる。新しい”敵”が生まれる。住民は新に団結し、週末に町を練り歩き、終わったあとに居酒屋で総括がある。
わたしは楡と少し離れた席で、男たちのテーブルを確かめる。居酒屋の照明が見せかけの願い事のようにぼんやり光っている。楡は生ビールの注文数をまとめながら顔を赤くしている。そこには真実の怒りが混ざっている。
「ホテルなんてよ。この時期の都会に泊りかよ。よそ者がよ、いらねえのを許してる」
楡の向いのオットセイのように太った男が騒ぐ。楡はマヨネーズで濡れたレタスを箸でつついている。
彼の”物語”に目をむける。文体、筆運び、句読点。描写にも説明にも違和感はない。本人のまま、修正された”筋書き”は見つからない。
「取りましょうか?並根さん、あの、残ってしまうから」
向いの女、伊勢川が曖昧にほほ笑む。いいえ、とわたしは首を振ってから肩を小さくする。隣のフリルの半袖を着た若い女はあからさまにうろたえ、え、と聞き返してくる。わたしはうつむいて、膝の上で拳を合わせる。
「いいえ、あのホテルのこと。考えてしまって。環境負荷のある地盤シートを敷くからって。子供たちの脳にも溜まってしまうんでしょ?」
仕入れた知識を反芻する。理屈は飲み込んでいない。ええ、と伊勢川が勢いよくうなずく。
まわりも同調してうなずく。
「強引ですよ、毎日工事もうるさくて」
声が高くなる。わたしは伊勢川の猪口に日本酒を注ぐ。その声にも嘘はない。いじられていない”物語”。けれど、誘導されている。誰に?
自分の杯に橙光が反射している。居酒屋の奥のカレンダーに赤丸がついている。ペラペラの紙に標しはしがみついている。25日。この街の”敵”はこの日にリセットされる。