2話 テレサの想い人
――パリンッ!!
緊張感と静寂に支配されている会場内に、ふいに現実に引き戻すかのような、グラスの砕け散る音が響き渡った。
どうやらテレサの父が、驚きのあまり空気になりきれずにグラスを落としてしまったようだ。
あら、父さまってばあんなところにいたのね。ごめん、かぶってた猫脱げちゃった。家には迷惑かけないように頑張るから許して!
こっそり心の中で謝ると、テレサは困惑ぎみに眉を寄せた王太子を正面から見つめた。
◆◆◆
突飛な行動に出てしまったテレサだったが、彼女には忘れられない初恋の男性がいる。
名前はシリウス。伯爵家の後継ぎだった。
初めてシリウスと出会ったのは、まだテレサが五歳の時のこと。
父のマートンが、伯爵であるエドモンと昔馴染みだったことから、たまたま王都を訪れていたテレサもエドモンの屋敷へ一緒についていったのだ。そこでエドモンの一人息子のシリウスと、運命の出会いを果たしてしまったのである。
テレサより七つ年上のシリウスは当時十二歳で、少年らしさはあるものの、スラリと伸びた手足と穏やかに微笑む姿は年齢より大人っぽく見えた。綺麗なインディゴブルーの髪とアメジストのような瞳を持つ美しい容貌の彼に、テレサは一目で恋に落ちてしまった。
きゃーっ、まるで絵本の王子様みたい!本物の王子様はまだ見たことないけど、絶対本物よりもかっこいいと思うの。王子様に抱っこしてもらったら、わたしもお姫様になれるかしら?
舞い上がったテレサは、初対面のシリウスに駆け寄ると開口一番に叫んだ。
「抱っこ!」
自分より背の高いシリウスに向かって両腕を上げて抱っこをせがむテレサに、マートンが慌てて止めに入る。
「こらっ、テレサ!失礼だろう。きちんとご挨拶をしなさい。――申し訳ない、躾けが行き届かない娘で……」
しかし、シリウスも最初こそ驚いた顔をしていたが、嫌なそぶりを見せるどころかクスクス笑うと、テレサを軽々と縦に抱き上げて言った。
「はじめまして。テレサっていうの?可愛いね。僕はシリウスだよ。よろしくね」
「うんっ!」
念願の抱っこをされて、『もう離さない』とばかりに足までシリウスの胴体に巻き付けるテレサに、エドモンも大笑いをしている。
「はははっ!随分好かれたもんだな。シリウスには兄弟がいないから、テレサちゃんがシリウスの妹になってあげてくれるかい?」
「まかせてっ!」
テレサがエドモンに向かって元気良く返事をするが、マートンだけが娘の粗野な振る舞いに頭を抱えていた。
シリウスお兄ちゃん、あったかくていい匂いがする……。わたし、シリウスお兄ちゃんがだーいすき!
それからというもの、テレサは主に領地で暮らしていたのだが、シリウスに宛てて手紙を欠かさずに送り、王都を訪れる際は必ず会いに行った。
シリウスの文字は流れるように美しく、手紙の内容も子供のテレサでも分かりやすく楽しいもので、テレサは会えない間もひたすらシリウスを想った。その分会えたときは嬉しさを爆発させ、毎回抱っこをねだり、少しもシリウスの傍を離れようとはしなかった。
そのうちに妹という立ち位置に満足出来なくなったテレサは、シリウスにお願いしてみることにした。
「ねえ、シリウスお兄ちゃん。テレサが大きくなったらお嫁さんにしてくれる?」
「あはは!テレサが大人になっても僕のことを好きでいてくれたらね」
「大丈夫!絶対大好きだもん!!」
腕に抱きつくテレサの頭を、シリウスが優しく目を細めながら撫でてくれた。テレサは温かな未来を信じ、その手の温もりに浸っていた。いつまでもこの穏やかな日々が続くことを疑わずに……。
しかし、そんな幸せな時間は突然終わりを迎えたのである。
テレサが十歳になった頃。
相変わらずシリウス大好き少女のテレサは、マメマメしく伯爵家と交流をはかり、シリウスだけでなく、シリウスの父のエドモンと、母のアディーナにも懐いていた。お転婆で子供らしいテレサに二人も甘く、いつだってテレサの訪問を歓迎してくれる。もはや彼らはテレサの第二の両親であり、将来は嫁ぐ気に勝手になっていた。
そんなある日、国王が病に倒れたというニュースが国中に流れ、激震が走った。国王の容態はもちろん心配だったが、それより皆の懸念は国王の息子のバカ王太子であった。
え、まさかあいつが国王代理に?ヤバくね!?
多分、国民の大多数がそう思ったことだろう。
公務での偉そうな態度、普段の我儘な言動、浪費癖などから、王太子はなかなかにヤバイやつだと専らの評判だったのである。
テレサが暮らす領地にも、国王の病とバカ王子の話は届いたが、田舎暮らしの子供のテレサには、まだ話の深刻さはわからなかった。そんなことより、近々また王都へ行けることだけを楽しみにしていた。王都で弟が生まれた為、ちょうど王都行きが決まっていたのだ。
ふんふふーん、シリウスお兄ちゃんへのお土産、良いのが用意出来たわ。喜んでくれるといいな。弟って可愛いのかな?わたしもお姉ちゃんになったって、シリウスお兄ちゃんにも教えてあげないと。
何かにつけてシリウス第一のテレサは、ルンルンで荷物をまとめ、ルンルンで馬車に乗り、ルンルンで王都までやって来た。
さすがに到着した足でシリウスに会いに行くのは憚られ、テレサが屋敷で「早く明日にならないかなー」と、まだ生まれたばかりの弟の頬をつつきながらソワソワしている時にそれは起きた。
バタバタと大きな足音が聞こえ、父のマートンが何やら玄関で騒いでいる。テレサも嫌な胸騒ぎと共に玄関へと駆け付けると――。
「ああテレサ、大変なことになった!落ち着いて聞くんだよ?エドモン殿が爵位を取り上げられた。シリウス君も王都を追放される」
初めは意味がわからず、『落ち着いた方がいいのは父さまのほうじゃ?』などとぼんやり思っていたテレサだったが、次第に事の重大性に気付き、焦り始めた。
「え?え?シリウスお兄ちゃんはどうなるの?明日会いに行く約束は?」
「私も朝一で屋敷を訪ねるつもりだ。テレサも一緒に行こう」
訳がわからないテレサは、城で何が起きたのかを父に問い詰めた。マートンは子供相手に詳しいことを話したくない様子だったが、かつてない娘の必死な形相に、腹を括ると渋々説明してくれた。
国王は、王妃を失った悲しみを仕事で紛らわせていたのが悪かったのか、不調に気付いた時には病はかなり進行していたらしい。国王代理として、まだ年若い王太子が政務を行いだしたが、すぐにその身勝手なやり方は周囲の貴族の反発を買った。特に人望が厚く、曲がったことが許せないエドモンは、代表して王太子に苦言を呈することが多かったそうだ。それに腹を立てた王太子は、見せしめのようにエドモンから伯爵の地位を奪い、エドモンが粛清の第一号になってしまった――。
以上の経緯を聞いたテレサは憤慨した。
「はぁぁあ!?なんでエドモンおじさまが罰を受けなきゃいけないの!?元々バカ王子が好き勝手やるからいけないんじゃない!ヤバイヤバイとは言われてたけど、ほんっと最悪!!」
「しーーーーっ!いくら屋敷内だからって、口を慎みなさい。誰かに聞かれたら大変なことになるんだぞ?今までの常識は通用しないんだ。テレサも行動には気を付けなさい」
父に怒られ、口を尖らせながら部屋に戻ったテレサだったが、一人になった途端に言い様のない不安に襲われてしまう。
お兄ちゃん、大丈夫だよね? どうか神様、お兄ちゃんとおじさま、おばさまをお守り下さい……。
テレサは窓辺で手を組むと、窓の外に広がる夜空に祈った。