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 サキが失踪したのはそれから10日も経たないうちだった。

 夜中に突然産気づいたサキを、病院へ連れて行こうとしたときだったという。

 普通なら動くのだって大変なはずなのに。彼女の夫が車庫に行って、車を出すだけの、たったその間に、サキは忽然と消えてしまったのだ。



 そしてサキのいなくなったあとには、いくつもの小さな足跡が付いていたそうだ。



 けれども私は、彼女の失踪とその

「足音」の話に、いくらかの不気味さを覚えつつもすっかり忘れ去ってしまっていたのだ。サキがあまりに足跡足跡というから、彼女の夫も絨毯の染みか何かを見間違えてしまったのだろう。

 幽霊もオカルトも超常現象も、私は一切信じてなかったし、それに、自分に関係のある話だとも思っていなかった。




 そして多分、彼女がいなくなってから2ヶ月ほどたった頃のことだ。


「……ん?」

 いつものようにアパートを出て、いつものように会社に向かった私は、二件先の曲がり角で、奇妙な跡を発見した。

 黒い跡が、道一面にぺたぺたと広がっている。

「なんだろ、これ?」

 畑仕事を終えたばかりのトラクターが運行した跡のようだが、土くれで茶色いわけではなさそうだ。どちらかと言うと水の跡に似ている。コンバインだろうか?

「んー……」

 頭のどこかで何か引っかかるような気がしたが、特に深く考えもせず私は会社へと向かった。きっとどこかの家が洗車でもした跡なのだろう。



 次の日も私は同じ道を、いつものように通った。いつものように角を曲がると、昨日と同じように、だが昨日より少しこちら寄りに、また同じようにタイヤの跡のようなものが沢山付いていた。

「今日もか」

 そう私は呟いて、しかしもう今日はなぜそのようなことが起こるのか考えもせずに先へと進む。アスファルトの表面にあった小石が靴に当たって跳ね、私は何気なくその方向を目で追う。

 小石は前のおじいさんの家のリュウノヒゲの上を跳び越し、その向こうにあった物体にぶつかって落ちた。はて、と私はまた首を傾げた。昨日まであんなところにあんなのは生えていただろうか?そもそも通勤中に人の庭など見たことが無いから分からないが……

 少しだけ興味がわいて、無作法だと思いつつもおじいさんの家の生垣の下に首を突っ込む。

 はたしてあれは、






サキと目が合った。







「え、ぁ………?」


 あとずさろうとして、数歩も進めずにへたり込んだ。

 まさしくサキが、首から上だけになったサキが、こちらを見つめていた。

 死の瞬間に何があったのか、激しく顔が歪んで、苦悶の表情を浮かべてこちらを睨み付けている。


 あれだけ綺麗だった髪がヤマアラシのようになっていて、

 あれだけよくしゃべっていた口からは血が垂れていて、

 あれだけ輝いていた目はもう濁っていて、



 どこかで誰かが叫んでいる。



 自分だ、ということに気づくのに随分とかかった。




◇◆◇




 私は警察で、さまざまなことを聞かれた……ような、記憶がある。

 正直言ってよく覚えていない。

 それまではほとんど心配なんてしていなかったのに、サキがあんな形で見つかったことがショックで、ただ泣いていた。

 彼女が帰ってくると自分は信じていたのだと、今更ながら思い知らされた。

 まさか死んでしまうなんて思ってなかったのだ。いつか笑いながらひょっこりと帰ってくると信じていたから、そうしたら怒ってやろうと思っていたから、だから心配なんてしていなかった。

 婦警さんに忍耐強く慰められて、犯人を捕まえるために全力を尽くすと言われて、そして結局、ほとんど何も手がかりになるようなことは言えずに私は家に帰ってきた。

 もちろん仕事は休みだ。



 結局その付近から、ばらばらになったサキの体はすべて発見されたそうだ。

 しかしいなくなったときにお腹の中にいたはずの赤ちゃんは、どこにもいなかったという。




 その夜ベッドに入った私は、電気をつけたまま寝返りを繰り返してばかりいた。目を閉じるとサキの顔が頭にちらついて寝るどころではない。

 こんな時、誰かがいてくれたらいいのに。

 そう思うと、はたと警察署ですれ違ったサキの夫のことが思い出された。

 彼はもちろん、私以上にショックだったようで、半狂乱で叫ぶ姿はそのときの私にすら怖かった。

 新聞がポストに配達される音と、その新聞を運ぶバイクの音が断続的に聞こえる。朝になったな、と寝返りを打って、


 ひた、と。


「………!」

 不意に聞こえた音に、体中の毛が逆立った。

 私は一人暮らしだ、自分以外の誰かが夜中に家の中など歩くはずが無い。しかし聞き間違えようもなく何かがひたひたと部屋の周りを歩き回っている。いや水滴の落ちる音だろう、確かめに行かねばと思ったが、恐怖で体が動かない。



 そうだ………これだ。


 どうして忘れていたんだろう。

 サキが言ってたじゃないか。

「足音がした」って。


 あんなの、単なる聞き間違えじゃないの?


 でも……確かに、今、足音がしている。

 まさか。



 どうしよう。



 どうしよう。


 ただそれだけが頭の中をぐるぐると回る。

 声が出せない。電気をつけて見てみればきっと大した事はないのだろう、そう思ってもどうにも出来ない。






 私が息を潜めて体を固くしていると、足音はしばらく部屋の周りを歩き回った後、どこかへと消えて行った。





 それでもうとうとと眠ったようで、ちちちと鳴く鳥の声と、爽やかな朝の光で目が覚めた。

「あれ…」

 昨晩の事は夢だったのだろうか。サキの事を考えていたから、夢にまで出てきてしまったに違いなかった。気味の悪い夢だ。

 ゆっくりと、布団の中で、安全であることを確かめるように伸びをする。

 会社に行く気には、なれなかった。しかしだからといって、この部屋でいつまでも布団に包まっているわけには行かない。気持ちを奮い立たせて起き上がり、パジャマをのろのろと脱いでゆく。

 それでも行かなくちゃいけない。

 ただ休むわけには行かないという義務感から、服を着替えてゆく。

 いつもの倍以上時間をかけて着替えた後、大きく息を吐いて私は寝室の扉に手をかけた。


 ゆっくりと、開ける。



 すると、




壁といわず床といわず、一面に赤黒い小さな足跡が付いていたのだった。






 その日の夜、私は電気をつけたままリビングで布団に包まっていた。

 夜が来るのが怖かった。仕事は何一つ手につかず、それでも昨日の出来事は社内に知れているのか、誰も彼もが私を遠巻きに見て囁きあうだけで、叱ろうとも励まそうともしなかった。

 昨日の足音が、決して単なる聞き間違いや空耳の類ではない事が、廊下の足跡が示していた。脳裏にサキの顔がちらつく。サキはあれを土の足跡といっていたが、よくよく見ると土でも何でもなく、血がべたりと足形についているのだった。


 彼女はどんな風に笑っていただろうか。

 彼女はどんな風に喋っていただろうか。

 思い出せない。


 すべてのサキの記憶があの首だけに塗り替えられてしまっていた。出来事として思い出せても、実感も伴わなかったしその時の映像も思い出せない。全てがサキ以外の人のことのように薄ぼんやりとして結びつかない。


 私も、彼女のようになってしまうのだろうか?



 こんなに怖いんだったら、他人の家に泊まらせてもらえばよかったと思うが、そんな事を頼めるような人はいなかった。

 ただ、私は布団を頭まで被って、昨日と同じ明るい光の中で丸まっていた。自分でも何をそんなに怯えているのか分からない。理由なんて分からない。ただ怖かった。



 サキを信じなくて済まなかったと思った。

 あの時は本当にそう思ったのだ。幽霊なんてないし、足跡なんて単なる見間違いだろうと。それに他人事だった。




 どれくらい経った頃だろうか。

 昨日と同じ時刻だとすると新聞の配達された頃だと思うのだが、そのような音は聞いた覚えが無い。



 不意に、廊下で、小さな足音がした。




 ぱたり、ぱたり、と近寄ってくる。


 お願い、来ないで……


 布団を掴んで必死に念じるが、昨日と違ってこちらに一直線に向かってくるようだった。


 お願い、お願い……


 ぱた、ぱた……


 どうして私に寄って来るの?何がしたいの?

 足音の主に言ってやりたい事は沢山あったが、口が動かない。ガタガタと震える体が抑えられない。

 足音がリビングに入ってきた。出ていけと思っても、自分のほうへと近づいてくる。ゆっくりと、だが確実に私の横に立った。じわり、と股間から漏れた液体が、私の体と下の絨毯を濡らす。



 あたりはしん、としている。



 足音の主はいなくなったのだろうか?しかしもし布団の外を見て、まだそれがいた場合にはどうすればいいのだろうか。それとも本当に足跡の主なんて私たちに見えるようなものなのだろうか。濡れた部分が、徐々に熱を失って冷たくなってゆく。



 あたりはしん、としている。



 あとどれくらい待てば朝になるのだろう?明日の夜は、絶対に誰か別の人の家に泊まろう。もうこんな家になんて帰らない。何でわたしがこんな思いをしなきゃいけないの?全部サキのせいじゃない。あの子はいったい何をしたって言うの?私があの子を信じなかったのがいけないの?だって仕方ないじゃない、幽霊も心霊現象も無いと思ってたんだから。



 あたりはしん、としている。



 ……ねえ、音がしないって事は…消えたの?何で私にまとわりつくの?この足音を立てるのは何なの?

 もう来ないでよ!何でなの!?



 あたりはしん、としている。



 ……消え、た………?

 今晩はこれで終わりだろうか。だとしたら私は明日からどこか、ここでなければどこでもいい、とにかく出来るだけ遠くに行こう。もうこんな目にあわなくて済むように。




 そう思って、布団から出ようとした瞬間、



ぴた、と音がした。



「……!」


 私の足に、何かが触れた。足先を撫で、徐々に太ももへと上がってくる。酷く冷たく、小さな手だ。

 ざわりと体中の毛が逆立って、冷や汗が噴出した。

 服を着ているというのに、布団を被っているというのに、体に直接触れられる感触がする。視線を下に向けられず、ただ目の前の布団の裏地を見つめる。


 何?何が私を――


 手が触れるたびに体の熱が奪われ、凍えそうに寒い。

 まるで愛撫でもするかのように、その小さな手は私の体を撫で回した。

 太ももの付け根を撫で、尻を、胸を……体中を。

 冷や汗が凍りつくようだ。



 そして、下腹部を撫でた手が、私の秘部に触れた。



 やめて……!


 口を開けたが、声は出なかった。

 誰にも触られたことが無かったのに。

 何で、私が、こんな目にあわなきゃいけないの………?



 私もサキみたいになるの?



 秘部を押し広げられ、つぷり、と、体内に何かが入ってきた。


 刺すような冷たさに、私はただ息を呑んで目を閉じて、涙を浮かべることしか出来ない。

 早くこれが終わって、足跡の主がいなくなってしまうこと、それだけを祈る。




 これは……指、じゃない。


 ただ、直感的に思った。




 そうじゃなくて――

























 私の意識は、そこで途切れる。






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