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4.中間試験突破せよ

 小中野との勉強会初日の夜……時の頃は八時少し前。


「伯斗っ!」

「う、うう……っ、」

「もうあんたって子はっ! こんな時間までどこほっつき歩いてたのっ!」

「え、あ……そ、その……、」

「クラスメイトと勉強会するってのは知ってたけど! こんな遅くまでお邪魔してたら相手の子にもご迷惑でしょうがっ!」

 帰宅した俺は案の定、玄関で待ち構えていた母親から怒鳴られている……てか、ある意味迷惑を被っていたのはどう考えても俺の方なんだが?

 しかも焼肉行くのに何で俺をハブるんだよ? せめて店行く前に連絡くらいしてくれよ。

「それと! 遅くなるなら途中で連絡くらいしなさい! こっちから電話しても全然出ないしもー何のためにあんたみたいなゴクツブシに携帯持たせてると思ってんのっ!」

 ご、ゴクツブシて……そりゃまあ確かに俺みたいなデキの悪いヘタレ息子、母親から見りゃそう言われても反論できんけどさぁ。

 ただ、表現的にはちっとばかしヒドイんじゃないかと思うのだが?

「まーまーおかーさんおかーさん」

 そこに今、俺が叱られている原因の大半を作り上げた妹が割って入ってきた。

「はー兄ぃにだってなーんか事情あったんだろうからー。ココはときわに免じて許してもらえないかなぁー?」

 とか言いながら、なぜか顔つきがニヤついている妹に俺は訝しげにしながらも、心の中で一応は感謝していた。

「まぁ……ときわがそう言うんなら仕方ないわね。いい伯斗、今度からこんな遅くなるなら必ず連絡するのよ。わかった?」

「あ、ああ……わかったよ」

 てなわけで……とりあえずはこれ以上の叱責を受けずに済んだ俺だった。

 ただ、どうしても腑に落ちないのは、俺が珍しくテス勉してる間に二人でこっそり焼肉行っていたってのと、間接的に帰りが遅くなった原因を作りやがった妹になぜ、免じられなきゃならんのかってことなんだが? しかも何かお母ん、妹の説得に納得しちゃってるし。

 大いなる不条理な感を抱きながらも、俺はすごすごと自分の部屋に入る。


「ふううううぅー……っ、」


 ベッドにどかと腰をかけ、深くため息をつくと同時に、


「やっほほぅー! はー兄いぃー!」


 ところ構わずムダにエネルギーを放出しているんじゃないかってくらい、けたたましい声をあげながら妹がノックもせずになだれ込んできたかと思うと、いきなり俺の左隣に座り込む。

「いっかがでしたかぁ~? クラスのジョシさんと二人っきりのお勉強はぁ~? うりうりぃ~」

 たく……「いっかがでしたかぁ~?」じゃねーよ。お前と小中野のファーストコンタクト話を延々聞いていたおかげでこんな時間なっちまったってのに。それと、いい加減ヒジ打ちやめろ。お前のエルボーってムダにいてーんだってばよ。

「そういや……お前、」

「んー? なーにー?」

「小中野と……会ってたのか?」

「うん、そだよー?」

「そだよー」て……ホント返事軽いなーこいつ。どうしてそんなあっけらかんとできんだよ? おかげでこっちはいいだけ驚かされたりひやひやさせられっぱなしだってのに。

「あ、あのな……夕方お前が送ってきたメールなんだけど……、」

「あー……ゴメンねー! はー兄ぃにナイショで焼肉じゅーじゅーしちゃってぇー! てへっ♡」

 そっちかよ。だいたいちげーから。それもういいから。でもちょっとうらやま悔しいから。

「い、いや……小中野と会ったこと口止めされてたってのに、何でわざわざあんなネタばらしみたいなメールなんか送ってきたんだよ?」

 俺の疑問に妹は、なぜか呆れたっぽい顔を向けてくる。

「いやいやぁー、はー兄ぃって超つくくらいニブチンだからぁー。こーでもしないとわっかんないかなぁーってねー」

「何だそりゃ?」

 まぁ……今さら言われるまでもなく自分がニブいってのはもうイヤってほどわかってっけど、いくらカワイイ妹とはいえ改まって言われれば不思議と腹立つな。あとシスコンじゃないぞ俺。

 ただ俺が疑問に思っているのは後半の言葉だ。

 いったい、何をわかっていないというのだろう……?

 それがどうしてもわからず言葉に詰まっている俺を見て、妹は心の底から残念な人を見ているような目でこういった。

「まーときわの言ってるイミがわかんないんだったらねー、自分の胸に手当ててよーく考えてみましょーねー」

「えっ……………?」

 この言葉……以前、藤崎から言われたのと同じだ。

 ってことは……こいつも藤崎と同じ何かを俺から感じ取っているのだろうか?

 どうにも自分の心理状態が整理どころか、理解すらもできずにいたが……、

「まぁでもさ、」

「なーにー?」

「おかげで久々に旨いコーヒー飲めたし、焼肉なんかよりもずっとずっと旨いカレーも食えたしさ。ホント、感謝してるよ」

 とりあえず俺は、今の自分が抱いている思いを素直に吐露していた。

 こんな言い方をすると、いつものこいつなら「ふっふーん」とか「でしょでしょー?」とかのたまいながら、ウザったらしくて小憎らしいドヤ顔を返していたものだが……、

「うん……よかったねはー兄ぃ。小中野さんってとってもいい人そうだし」

 普段はあまりお目にかかれない優しい笑顔で、俺の左肩にそっと頭を添えていた。

「ああ、心根は本当にこれ以上ないってくらい優しいからな……ただ、」

「ただ?」

 俺は妹に、小中野との出会いからこれまでの出来事をほぼ全てに渡って話してやった。

 なぜ、自分からこんな黒歴史級に恥ずかしい話を切り出してしまったのか、それはわからない。

 ただ、今の俺は無性に話したくて仕方がないという思いしかなかった。

 対して妹は話している間じゅう、きゃっきゃげらげらと絶賛大爆笑だったが……、

「あーもーオモシロかったぁー!」

 なぜか、何かに納得したような表情を浮かべている。

「おいおい……話聞いてる分にはそうかもしれないけどな、実際被害に遭った俺からすりゃ耐えらんねーぞ」

「そりゃまーそーかもだけどさぁー、でもぉー、」

「でも?」

「優しいってトコはねー、はー兄ぃだって小中野さんには負けてないって思うなぁー」

「そ、そうか……?」

 そうなのか……? 自分じゃまるでそうと思えんが。

 ―――――って優しい以外は全部小中野以下ってことなのか? ま、否定はできんけど。

「たーだねぇー……、」

「んっ? 何だ?」

「ちーっとばかし残念なのはー、二人ともぶきっちょ過ぎだってトコかなぁー」

 んー……小中野はどうか知らんが、俺に関しちゃ確かに否定できん。

 俺だって藤崎ほどとは言わずとも、もう少し器用さがあったらと常々思っているところではあるのだが……。


「あー、もーこんな時間かぁー……」


「えっ?」

 妹の声にやおら時計を見ると、時刻は既に九時を回っていた。

「じゃあじゃあー、ガンバってねーはー兄ぃー」

「……何をだよ?」

「さーてねぇー、何でしょーかねぇー?」

「んだよそりゃ?」

「まーまーそれはねー、自分でよおーっく考えてみましょーねー。あとー、小中野さんのコトは焼肉じゅーじゅー中におかーさんに話しといたからねー。ご心配なくー」

「はぁ……は、はあああああっ!」

 ぐむむ……何てことしてくれやがんだよこいつ! せっかくお母んのメールで一緒の相手は匿名にしておいたってのに。

 妹のネタばらしに、疲労感が全身にどっと押し寄せてきた俺。

 すると、更に追い打ちをかけるかの如くこんなことをのたまってきた。

「そしたらおかーさんねー、お相手がジョシって聞いた時は『へえー』ってカンジだったんだけどー、そのあとスグー『あーんなデキの悪いヘタレ男のお相手するのも大変ねぇ。お気の毒に……』だってー」

 む、むう……それは自分でも反論の余地が微塵もない。しかもこいつ、お母んの口調と声色マネてやがるし、それがまたムダに似てっから余計腹立つし。

「てなワケでぇー、そんじゃおーやっすみぃー」

「お、おい……ときわ、」

 言いたいことを一方的に言い放題してから就寝の挨拶を切り出し、やおらすっくと立ち上がった妹は、きょとん顔を隠せずにいる俺に、にぱっと謎の笑顔を見せつつ部屋を出て行ったのだった。


 ◆   ◆


 翌日以降も俺と小中野の勉強会はつつがなく平穏に続いていた。

 ただ、勉強会初日に帰りが遅くなった件で母親に叱られていたってのもあり、今後は遅くとも七時までには帰宅するという門限が設定され、もし一分一秒でも遅れるようなら必ず連絡を入れるようクギを刺されていた。

 夕食については、これも変わらず小中野が作ってくれる食事をいただいていた。

 そのメニューはと言うと初日のカレーを皮切りに、手捏ねハンバーグやドリアにソテーといった洋食、揚げ出し豆腐や肉じゃが、切り干し大根やヒジキのような毎日食べても飽きがこないような和食に加え、手作り餃子やチャーハンのような中華系などバリエーションは多彩で、そのどれもが見た目も味も絶品だったのだから、改めて彼女の女子力に心底恐れ入るしかない。


「ねえ伯斗」

「ん、何だよ?」

「あんた……ここのところ毎日小中野さんトコで夕食、いただいてるんでしょ?」

「そ、そうだけど……?」

「一人暮らしで家計のやりくり大変でしょうし、ましてあんたみたいなヘタレ息子に勉強教えたり夕食作ってくれたりいろいろ申し訳ないから、週末くらいウチで勉強して夕食ご一緒したらどうなのよ?」

 とある日の朝、突然のように母親がこんなことをのたまってくる……その事実にヘタレ息子って科白、関係ないんじゃねーの? いったいどこまで俺を蔑めば気が済むんだよあんたは?

「あ、あー……、」

「あーそれいーねー! ゼッタイ呼ぼーよはー兄ぃー!」

 母親の提案に、隣の席で朝食中の妹が異常なまでに喰いついてくる。

 まぁ……これまでの経緯からいけば、やっぱそういう話になっちゃうんだろうなと薄々感じてはいたので、俺の心中は意外と冷静だった。

 夕飯の件に関してはいくら強制的な面があったにせよ、確かにテスト前の数日間とはいえども俺が小中野メシを毎日いただいていれば、本来なら一人分で済む食費に俺の分が加わっているから、いたずらに家計を圧迫しているのは間違いないはずだし、何より勉強会の初日、俺のために無駄遣いすんなとエラそうに説教した話にも矛盾する。

 それに以前、初めて小中野を我が家の前まで連れて来た時、家に入れるか入れまいか迷ったことがあった。

 あの時は結局、時期尚早という判断のもとに上げず終いだったのだが……あれからもう一か月が経ったうえに、ウチの女性陣にも存在が知れているのだから別にそれもいいかなとは思う。ま、小中野のタッパ見て腰抜かさなきゃいいけどな。

「んー……まぁ一応話はしてみっけど……、」

 まだ若干の照れ臭さもあったのか、俺はこんな含みを持たせた発言でお茶を濁すが……、

 この話、小中野にしようものなら信じられないと思う反面、心の中ではむちゃくちゃ嬉しがるんだろうなってのは容易に想像がつくというものだろう。

 そんなことを考えているうちに、家を出る時間がきてしまう。

「んじゃ行ってくる」

「行ってきまぁーっす!」

「いい伯斗、絶対来てもらうようにお誘いしておくのよ。わかった?」

「あ、ああ……わかってるよ……」


 ピンポーン、


「お、おはよう……」

 今日も今日とて小中野は、こんなたどたどしい口調で挨拶をくれる。

「お、おっす……」

 対して俺も彼女と同様の口調で、どこかやきもきとした思いを抱えながら挨拶を返している。

 いつもなら、元気よくとまではいかないまでも普段の会話程度の声量でいたはずなのだが……。

「ど、どうした……?」

 俺の様子がいつもと違うのを察したのだろう。やや不安げな表情を向けてくる小中野。

「い、いや……大丈夫だ。何でもないよ」

 こんな殊勝な言葉が口をついてはいたが……俺がこんなにも気が重くなっている理由は自分でもよくわかっている。

「さ、さあ行くぞ。学校遅れちまう」

 とは言うものの、彼女の送り迎えをするようになってから、つまり高校生活二日目の朝からは心持ち早めに家を出るようにしていたので何ら時間的な問題はない。

「う、うん……」

 よほどのアクシデントがない限り遅刻することなどないのは彼女もわかっているはずなので、幾ばくか戸惑った感を含ませた表情で返事をする。

 ちなみに最近は、お互い同伴通学の雰囲気にも幾分慣れてきたのだろうか、それなりに会話も多くなっていて、稀に彼女から話題を振ってくることもあるくらいだった。

 しかし、今の俺たちにはアパートを離れてからも全く会話はない。

「あ、あの……、」

 昨日までと違う息苦しい雰囲気に耐えかねたのか、か細い声で不安げに声をかける\小中野。

「……んっ? どうした?」

 微かに耳をついた声に、俺の身体はぴくと反応する。

「何か……あったのか……?」

「い、いや……別に……」

 彼女の問いかけに、思わず俺は言葉に詰まっている。

 俺がこんな状態になっているのは、やはり出がけに母親から喰らった一言に他ならない。

 おかげで朝から微妙な空気が漂っている感を覚えてしまうが……、

 でも、勉強は元より今まで食べたことがないと言っても過言ではないほどに旨いカレーを始めとした夕食や、高価なマシンを買ってまで淹れてくれたコーヒーをいただいたりしているのだから、それを考えればささやかながらもお返ししたいという思いはやはり捨てきれない。


『………うむ、』


 やっと心中で決意を固めた俺は、

「な、なあ……小中野……、」

「な、何……?」

「週末……なんだけどさ……、」

「う、うん……、」

「お、俺の家で勉強……しないかって……、」

 まるで彼女が動揺している時のような口調で誘いの言葉を話し始めていた。


「………えっ?」

「だ、だから週末……俺の家来ないかって……言ってんだよ……」


 はあああああぁぁぁぁぁーーーーー……………っ、

 ようやっと言えたよこの一言が。

 とりあえずこれでひと安心と思った俺は、おそるおそる小中野の表情を窺う。

 すると彼女は、元々大きな瞳を更に大きく見開きながら俺の顔面を凝視していたが、やはりその表情からは「シンジラレナーイ」感がだだ漏れている。

「お、おい、せっかく誘ってんのに何でそんな顔すんだお前は?」

「ほ、本当か……それは……?」

「本当だよ。おふくろにもしつこく言われてるし、妹もめっちゃ喜んでたからきっと楽しみにしてると思うけどな」

「そ、そうか……、」

 そう言いながら彼女は、俺から顔をそむけてしまうが……、

 ま、こいつのことだ。心の中じゃむちゃくちゃ嬉しがってるんだろうし、こうして誘われるのをきっと心待ちにしていたんだろうとも思う……いや、

 もしかしたら妹と初対面した時にわざわざ自分の部屋に連れて行ったり、俺に毎晩夕食を振舞ってくれたという件からして、こうなることを想定した意図的な撒き餌かもと思えるフシもないではない。

 というか、そもそも自分の唯一且つ最大最強の弱点を克服しようとして、我が家に一人で来ようなどという無謀で命知らずな行動に走ったのも、最初(はな)っから妹とエンカウントするのが目的だったのではないかと考えられなくもない。

 いわゆる「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」ってトコか。ま、これはいくら何でも考え過ぎの感は否めないが。

 もし仮にそうだったとしても、彼女をこのような思考と行動に走らせたのは、ずっともたもたぐずぐずしていたヘタレ野郎の俺にも原因があると言えなくもない。

 ただ、それ以前に彼女がなぜ、こんな思考と行動に走った根本的な理由がはっきりしないことの方が、もしかしたら重要なのかもしれないが。

「じゃあ決まりだな。どうせなら土日とも来ればいいよ。お前だって部屋にずっと一人でいるより、ウチ来れば口うるさいのとかムダに騒がしいのとか一応は話し相手いるから、少しは楽しめるんじゃないかって思うし」

「そ、それは……君のご家族が……ご迷惑でなければ……、」

「ははっ、迷惑どころか逆に大歓迎って思うぞ。だいたいにしておふくろが絶対誘えって念押ししていたくらいだからさ」

「そ、そうか……では遠慮なく……お邪魔させてもらう……」

「わかった。帰ったらおふくろにそう伝えておくよ」

 てなわけで今週の土日、小中野が初めて我が家を訪れることと相成った。

 ただ、ここまで話が進んでいながら今さらとは思うのだが、いくら家族公認でも高校生ともなれば別に付き合っているわけでも恋人同士でもなんでもない間柄とはいえ、クラスメイト女子を家に招くというのはやはりまだ気恥ずかしさの方が勝ってしまう。

 しかし、理由はどうあれ実家から遠く離れて一人暮らししている彼女の不安や淋しさが、とりあえず二日間でも我が家に来ることで少しでも紛れてくれるのなら、そんなくだらない羞恥心なんてのは捨て去っても構わないとさえ思えた。

 などと、そんなことを考えていた……その時、


「―――――はっ!」


 突如、彼女の顔つきが俺ですらこれまで見たことのない、厳しくも険しいものに変化している。

 首を殆ど回さず、鋭い目線だけで辺りを見渡すその姿は、まるで何らかの異変や危機を察知、警戒しているかのようだ。

「ど……どうしたんだよ……?」

 俺の問いかけにも彼女はその表情を解こうとはしない……いや、もしかしたらできないのかもしれない。

「お、おい……何かあったのか?」

 とりあえずは俺も申し訳程度にきょろきょろと辺りを見回してはいるものの、見た限り特に何も変わった様子はない。

「い、いや……何でもない……」

 この一言を発したと同時に、いつしかその表情は元に戻っている。

「し、心配させて……悪かった……」

「そ、それは別に……何でもなければそれでいいんだけど……」

 全く状況が飲み込めていないまま、戸惑いがちな返答をする俺だったが……、

 それにしてもいったい、何があったというのだろう?

 初めて出会った時から基本あまり表情を変えず、露骨に感情を表に出さない彼女が、高校入学後から一番長く一緒の時間を過ごしているだろうこの俺ですら、今まで目にしたことがないような険しい表情をして、まるで獲物を狙う猛禽類さながらの鋭い視線で周囲を警戒するなんて……。

 しかも俺は、そんな彼女の姿にこれまで味わってきたものとはまた別な意味での恐怖というものを感じると同時に、暫く疑問を抱くことのなかった彼女の過去と生い立ちについて、またも意識せざるを得なくなってしまっている。

 同伴登校を始めてまだ間もない頃は本人に訊くに訊けず、自分で無駄にあれやこれやと考え込んでいたものだが、俺の役目は彼女のナビ役をちゃんと果たすとともに、一人暮らしの不安や淋しさを紛れさせてやると割り切ってからはあまり考え込むこともなくなっていた。

 というか、おそらく無理に訊いたところで結局はだんまりを決め込んだままだろうという理由もあった。

 ただ、もし仮にさっきの彼女の行動と自身の生い立ちに関連性があったとして、それが原因で何らかの悩みや問題めいたものを抱えているのだとしたら、必要最小限でも構わないから打ち明けてほしい思いは多少、あったりもするのだけれど……、

 まぁいろんな意味で無双極まりない彼女をこうまで惑わせる何かがあったにしても、俺みたいな軟弱ヘタレ男子がどうこうできるってもんでもないけどさ。

 こうしてあれこれと思考を巡らせていると、

「と、ところで……、」

 どうやらすっかり落ち着きを取り戻している様子の小中野が声をかけてくる。

「ど、どした……?」

「時間は……一時半頃で……いいだろうか……?」

 さっきの豹変ぶりなど何処吹く風といったように、いつも通りの口調で問いかけてくる小中野。

「あ、ああ……じゃあ十五分前くらいには迎えに行くよ」

 俺はできるだけ平静を装いながら返事をするが……、

 あれほどまでに不穏そうな彼女の姿を目にして不穏さと違和感を覚えずにはいられない。

 しかしそれが、今まで彼女が口にしてこなかった家庭事情やプライベートに絡む事柄なのであれば、やはりそれに踏み込んでしまうのはデリカシーに欠けている以外の何物でもないのだろう……。

 とか何とか考え込んでいるうちに、俺たち二人はいつの間にか校門の前に立っていた。


 ◆   ◆


「ほら、遠慮しないで入れよ」

「お……お邪魔……します……」

「うきゃうきゃきゃあー! いーらっしゃいませぇー!」

 小中野が家に入るや否や、我が妹新城ときわが意味不明な喚き声を発しながら出迎える……ってお前は動物園から逃げ出した発情期のメスザルか? それともフラン◯ェスカ・◯ッキーニ少尉なのか? 頼むからフツーの声量でフツーな挨拶して出迎えろよ。お兄ちゃんとっても恥ずいから。

「どもどもぉー! おひさでぇーっすぅー! こないだはありがとござしたぁー!」

「い、いえ……こちらこそ……わざわざ来ていただいて……ご迷惑を……おかけして……」

 あーそっか。こいつらって以前カオ合わせてんだっけな。ここんとこ勉強し過ぎてすっかり忘れてたよ(ウソ)。

「おかーさんおかーさん! 小中野さんきたよー!」

 小中野との再会がよっぽど嬉しかったのか、すっかり気分が高揚しちまって声量を全く下げてくれそうにない妹は、台所でお茶の準備をしている母親を呼びに行く。

「はいはい、今行くわよ」

 遠慮という言葉を知らないかのような妹の絶叫に、さしもの我が母親も若干辟易した返事をしながら玄関に姿を現した。

「あらあら小中野さん。お初にお目にかかります。伯斗の母です。本日はウチの愚息のためにわざわざいらっしゃいまして本当にありがとうございます」

 ……あれ?

 ウチのお母ん、絶対小中野のガタイ見た瞬間恐れおののくと思ったが……。

 そういや妹にしたって小中野の身長と体躯には特に言及してこなかったし、我が校の最前列クィーン(仮)長峰だって、登校途中ではち会った時も口では驚いたような言い方はしても、心の底から驚いた感じはなかったような……つーかあれ、絶対からかっているかおちょくっているかにしか見えなかったけどな。

 と、いうことは……ひょっとして、初めてこのガタイ見ていいだけ驚いたのは俺だけか?

 入学式の日だって、男子女子関係なく彼女を目にした殆どの生徒に大なり小なり驚きの反応を示され、加えてあの冷静沈着な藤崎ですら表面上は平然としながらも、内心では冷静さを失いかけていたというのに……。

 俺の周りにいる女性陣、なかなかに肝っ玉が据わっていると見える。これじゃ俺みたいな軟弱ヘタレ野郎が太刀打ちできるわけなんかありゃせんわなぁ。

「い、いえ……こちらこそ……伯斗君には……いろいろとお世話に……なっておりまして……」

「いえいえ、こんなヘタレ息子で構わないなら、いくらでもこき使ってくださってもいいんですよ」

 ぐむう……相変わらず誰それ構わずに減らず口を叩きやがる母親だ。それに全く反論できない俺もどうなんだろうかとは思うけどさ。

「さあさ、狭い家ですけど、どうぞお上がりくださいな。今お茶をお出ししますから」

 ま、確かに狭い家って言っちまえば違いないが……もしそれが北海道に単身赴任中の父親の耳に入ろうものなら完全にイジケちゃうんだろうなぁ……。

 でも、小中野が一人入っただけで狭いながらも楽しい(のか?)我が家がますます狭く感じるのは、とりあえず気のせいってことにしとこうか。

「あ、小中野連れてっから、お茶は部屋に持って来てくれよ」

「あら? 何言ってるの? せっかくいらしたんだから、まずはごゆっくりしていただくに決まっているじゃないの」

「は?」

 なーに真っ昼間から寝言ほざいてんだよあんた?

 今日小中野がここに来たのは、俺と勉強するためってのが本来の目的だと思ってたんだけどなぁ。

「そーだよはー兄ぃー! 勉強の前にまずはリラックスリラックスぅー!」

 今度は妹が俺の背中をばんばんスラッシュビンタかましながら追随するが……って痛い痛い痛い! スキンシップすんのはお兄ちゃん的に大大大歓迎だけど、どうせならちったぁ手加減してくれよてめえはよ! あとシスコンちゃうぞ俺。

「ん、んー……、」

 でもま、それはそれでいいかなとは思う。

 初めての来訪でもあるし、同じ女性の母親と妹がいるのだから、場馴れと緊張感をほぐしてもらうって意味合いも込めてまずは二人に相手してもらった方がいいだろう。

 それに、いくら俺が我が家の女性陣に抗ってもあー言えばこー言う状態なっちまって、勝ち目が全く見当たらないのが実情だ。

 ただ一つの懸念といえば、俺についてある事ない事しゃべくらないかって部分だが。

「んじゃ俺、先に部屋いるからな」

 女同士のおしゃべりを聞くのが苦手なこともあって、どうにも耐えられそうにないと思った俺は、家に居場所のない一家の主さながらに自分の部屋へと歩を進めたのだった。


 そんなこんなで部屋で待つこと一時間……、

「おっ、やっと解放されたか」

 ついに小中野が俺の部屋にやって来た。

「う、うん……」

「どうだ? 騒がしかっただろ?」

「い、いや……そんなことは……おかげで少し……気が楽になったから……」

 言う通り、彼女の表情は少なくとも迷惑そうに見えなかっただけじゃなく、どうやらそれなりにリラックスはできていたようで、家に入った時よりは全身の硬さも幾分取れているような感じだ。

「く、くすっ……」

「えっ?」

 あからさまにいきなり顔をうつむかせ、ほんの少し苦笑めいた面持ちの小中野。

 さっき懸念していた通り母親と妹に何かを吹き込まれたようだが……そんなのは別にどうだっていい。

 それよりも、今さらながらに気になったのは、これまで自分なりに気を遣い思いとどまってきた彼女の過去を、調子こいて根掘り葉掘り訊いちゃいないかってことだ。

 ま、でも基本的に寡黙なこいつのことだ。もし訊かれても憂い顔しながら返答に詰まってしまって、いかなあの二人でも終いには追及できなくなったりしていたのかもしれんが。

 いくら女同士の会話が苦手とはいえ、あの場に自分がいなかったことに幾ばくか後悔の念を禁じ得ない。

「ま、まぁ……いつまでもそんなトコつっ立ってないでそこ座れよ」

 俺は、事前に用意しておいた勉強用テーブル脇に置いた座布団に座るよう促す。

「う、うん……」

 小中野は幾分、緊張感を漂わせた表情でゆっくりと腰を下ろす。

「……………」

 するとその途端室内を隈なく、そしてじっくりと見回し始めた。

「おいおい、俺の部屋なんてそんなガン見してもどってことないだろ? お前んトコと違ってさ」

「そ、そんなことは……それに……、」

「それに?」


「だ、男子の部屋に……入るのは……初めてだから……」


『う、うっ……、』

 そ、そっか……そういや俺、クラスメイトになってまだ間もない女子を自分の部屋に入れてるんだった……。

 たぶん高校生なって、ここに来る奇特で物好きな女子がいるなら、いいとこ長峰くらいだろうと思っていたけれど……、

 しかもその幼なじみですら、中学生になってからは一度も入って入ってなかったってのに……ホント、人生ってのは何がきっかけで、どこにどう転んじまうのかわからんもんだ。

 ――てか逆に男子を女子が一人暮らしの部屋に、しかも拉致同然で連れ込むのに抵抗とか恥じらいなかったのかよお前?

「そ、それじゃ勉強……始めよう……」

 幾分深刻そうな顔で考え込んでいた俺に、彼女は勉強を促してくる。

「そ、そうだな。もう一時間もロスしちまってるし……それに、」

「それに……?」

「せっかくお前に来てもらってんだからさ。時間がもったいないって感じだよ」

「え………?」

 ……あれ? 何気に恥ずかしいコト言っちゃったか……? いやいや! 俺はただ勉強する時間がもったいないって意味で言ってるんだからねっ! 変なカン違いなんかしないでよねっ!

「さ、さあほら……始めっぞ」

「わ、わかった……じゃあ……、」

 俺が何気なく放った言葉に、小中野はまだ少し顔を赤くしたまま鞄から勉強道具を取り出す。

 その後はとりあえずもつつがなく、俺たちの勉強会は粛々と続いていた。

 今日の時点で六日目になるが、彼女の教え方は相変わらず上手で解りやすいという以外に言葉が見つからない。

 何たって、おそらく校内で右に出る者がいないほどに勉強嫌いの俺が、今日まで全くと言っていいくらい集中を切らさずにいられたのだから。

 このままの調子でいけば赤点クリアどころか、ひょっとしたら平均点くらいまでは行けるのではないかと何ら根拠も確証もない、限りなく過信に近い自信すら湧き上がってきそうだ。

 やがてどのくらいの時間が過ぎたのか認識できずにいたまま、ふと、そんなことを考えていた時、


「そろそろ……休憩にしよう……」


 不意に小中野が休憩を促してきた。

「あ、ああ、そうだな」

 そう言って何気に時計を見ると、勉強開始から既に二時間少々が経過していた。

「ふううううぅー……っ、」

 俺が一つ、大きくため息をつくと、

「ふう……っ、」

 いくら無双極まりない小中野とはいえ、初めて我が家を訪れたという緊張感があった中で、二時間超もテーブルと向き合った状態が続いた後での休憩に幾ばくかの気抜け感を覚えたのだろうか、間髪置かずに軽くため息を返してきた。

 それにしても……このところの俺は、自分が置かれている状況が信じられずにいる。

 なぜなら、学校の授業があまりにも退屈過ぎて異常なくらい時間が長くしか感じられない人間が、彼女と一緒に勉強していると「もう」などと思ってしまうくらい時の経つのが早く感じていたのだから。

 ま、言い換えればそれだけ集中しているということなのだろう。

 ただ、以前よりはマシになったとはいえ、学校の授業に関しては今だに長いなーって感じだけど。

「喉乾いたろ? 何か冷たい飲み物持ってくるよ」

 おもむろに立ち上がった俺は部屋を出ようとして、ドアノブを回した瞬間……、


「はいはぁーいっ! 飲み物とおやつ持って来ちゃいましたぁー!」

「おううっ!」


 待ってましたとばかりに三人分のジュースとおやつを持って、あろうことか俺の下腹部に前ゲリを入れてから部屋に入ってきた。

「げ、げほごほっ! な……何しやがんだよお前っ!」

「まーまーはー兄ぃー、気にしなーい気にしなーい。ひと休みひと休みぃー」

 んだよそれ? お前は室町時代のとんち小坊主か? ついでに言うと「◯休」を名乗ったのは晩年に近い頃だったらしいけどな。

「はいどーぞー」

 妹は俺たち二人と自分の飲み物をテーブルに置き、最後におやつのクッキーを真ん中に置く。

「おっふたっりさぁーん、調子はいかがっすかぁー?」

「ああ、小中野の教え方が絶品ものだからさ。おかげで調子いいよ」

 思わずこんな調子乗った返事をする俺。

 その一方で、小中野は頬をほんのり赤らめながら俺と妹を見つめている。

「へえぇー! そーなんだぁー! じゃあじゃあ次の期末からでいいからぁー! ときわにもおせーてほしーなぁー!」

「おいおい、俺たちだって同じ時期に試験あんだからムリ言うなって。それにお前、教えてもらうほど成績悪くないだろうが?」

「いやいやぁー、それにはちゃあーんとしたワケがあるんですよぉー」

「理由?」

「そーそー実はねー、これまでずーっとおかーさんと約束してたコトあってねー」

「約束? 何だよそりゃ?」

「それがねー、テスト順位が五位までなればー、新しいお洋服と水着買ってもらえるんだよねー。でもぉー、」

「でも?」

「なーにがどーなってんのかわっかんないんだけどー、一年の時なんかいくらがんばっても六位までしかなんなくてー、もー自分で自分に激おこぷんぷん丸なんだよねー」

「ほ、ほう……、」

 そうだったのか……ってかそれ、もしかして暗に自慢してやがんのか?

 でもこんな約束って、普段から成績いいヤツだけができるのであって、例えば俺なんかが百位以内なったら何か買ってくれとかほざいたって何ら影響力も説得力もないから、お母んに皮肉交じりで軽くあしらわれちまうんだろうけどさ。

 きっと我が妹、社会人なって営業成績トップなんかなったら丸の内のOLよろしく自分にご褒美するか、それとこれはあまり考えたくもないが、もしもカレシなんかできちまってたらそいつにいいだけ褒美させるかもしれんな。大事だから何度でも言わせてもらうけど、俺は絶対シスコンじゃないからな!

「い、いや……私なんかで良ければ……時間がある時でいいなら……」

「うっわあああああーい! ありがと小中野さぁーんっ!」

 何をそんなオーバーに嬉しがるのかはわからんが、妹は大絶叫しながら小中野のボディめがけスピアーさながらに突進してからがっしと抱きつき、両足をばたばたさせている。

「いいのかよ小中野? そんな約束しちまっても」

「あ、ああ……私は別に……構わないけれど……」

「そっか。お前がそう言うんなら……こんな賑やか過ぎる妹で迷惑かもだけどまぁ、よろしく頼むよ」

「う、うん……わかった……」 

「そんじゃ交渉も無事成立したコトですしー! ときわはこのへんですんずれいいたしまぁーっすぅー! ではではーナカ睦まじくおべんきょーガンバってくださいねぇー!」

「わーったわーった、早く出てけ」

「あ、ありがとう……ときわさん……」

「いえいえお構いなくぅー、礼を言わなくちゃなのはこっちですからぁー」


 てなワケで……休憩中だってのに、妹の独り舞台か独壇場ってなくらいに騒がしくも賑やかだったひとときが過ぎ、再びこの部屋は俺と小中野の二人きりとなったのだが、


「私は……君が羨ましい……」

「えっ?」

「君が羨ましいと……言ったんだ……」


 どういうわけか彼女は、俺からしてみればこんな突拍子もない言葉を呟く。

「ど、どうしてだよ……てか突然どうしたんだよお前……?」

「さっきの君と……ときわさんを見ていて……きょうだいがいるというのは……こんなにも……楽しくなるのかと思って……私は……一人っ子だから……」

 そう言う彼女の表情は、俺が今まで見たことがないくらい切なげで、そして淋しげだった。

「で、でもさほら、いたらいたで何かとめんどくさいこともあるし、他の家はともかくウチみたいにデキの悪い兄と優秀な妹なんて取り合わせなったら、兄の立場からすりゃ肩身狭い思いしなきゃなんないしさ……」

 そんな彼女を見て俺は、思わずこんな言い訳めいた科白で重苦しくなりつつあった場を宥めようとする。

「それに……私の家は……仕事で両親が……毎日のように家を空けていて……傍にはいつも……専属の家政婦さんしかいなかった……けど……、」

 しかし彼女は、その意を遮ろうとするかのように言葉を付け加えてくる。

「けど……?」

「家政婦さんからは……小さい頃から……勉強の他にも……家事とか……いろいろなことを……教えてもらって……」

 実家で過ごしていた日々を思い浮かべているのだろうか、途中で言葉を止めた彼女はどこか遠い目をしている。

 そして俺も、これ以上の詮索はしなかった……いや、できなかった。


 そうか……おそらく、

 もし、その家政婦さんとやらが面倒を見てくれていなければ、一人暮らしに必要なノウハウなんて身につかなかったのだろうし、ひいては実家を離れて暮らすなんてこともできなかったのだろう。

 ただ、こうまで親身に接してくれた家政婦さんでも、もはや病的としか思えない彼女の方向オンチまではさすがに手の施しようがなかったのだろうが。

「そ、そうだったのか……でもさ、」

「でも……?」

「今ウチは親父が北海道に単身赴任してっから親はおふくろ一人だけど、普段は放置してっかと思えば俺を欲求不満とかストレスの捌け口にしてんのか知らんけど、どうでもいいことうだうだ五月蝿いから、心の中じゃいーっつも「鬼畜ババァ」なんて思ったりしてっからさ……はは、」

 こんな、親を親とも思わないような俺の言い分を耳にした瞬間、


「君は……本気で自分の家族を……そう思っていたというのか……?」


「う、うう……っ、」

 眼前に映し出されている、今まで目にしたことがない鬼の形相……それはまるで、対峙している相手を威嚇し、底知れない恐怖を与えながら心身ともに滅してやろうとでもしているようだ。

 あまりにも異様な形相を見て、その迫力に圧倒されている俺が身動き一つ取れずにいると……、

「あ、す、すまない……つい……、」

 突如として彼女は唇を噛みしめると同時に、申し訳なさそうな面持ちで謝罪してくる。

「……いや、いいんだ。俺も少し言い過ぎたみたいだ」

 さっきの形相が頭から離れないまま、返す刀で謝罪するが……、

 たぶんこれは、彼女から「羨ましい」と言われてつい照れ臭くなった俺が、思いがけずも家族に対する短所や不満点ばかりを(あげつら)ってしまったからだ。

 そして、きっと話したくなかったであろう自分の過去の一部を自ら口にした彼女の気持ちを、無意識のうちに踏みにじっていたのかもしれない。

 実の両親が存在しているにもかかわらず、物心ついた時から満足にふれあえない生活を余儀なくされてきた彼女……そんな人間に対して俺は、なぜあんなデリカシーの欠片もない反論をしてしまったのか……。

 思い返せば、彼女を初めて我が家の前に連れて来た時、ふっと呟いた一言。


「いいな……」


 あの時の俺は、これが彼女の過去や生い立ちに、何らかの関係性があるのではないかという考えを巡らせていたが……、


『………あ、っ』


 そうか……これは、

 両親の仕事の都合で、いくら自分が何をどうしようと望むべくもない家族の団欒に彼女は憧れていただけだった。

 そして、おはようからおやすみまで毎日傍に家政婦しかいなかった日々を過ごすうちに、彼女の心には淋しさが募り続けていただけだったのだ。

 だから、自分の家族や家庭を否定したり蔑んだりするような発言に、ある種の怒りにも似た感情が思わず表に現れてしまったのだ。

 それに、いくら面倒見が良く親身に接してくれた家政婦とはいえ所詮は他人だ。やはり本当の両親には代わるべくもない。

『それでか……』

 この時、俺は彼女の部屋の本棚に所狭しと並んでいた、昭和アットホーム系ドラマDVDの存在を思い出していた。

 あれはたぶん、どうせ一家団欒の日常生活が望めないのなら、せめてヴァーチャル世界で心の欲求を満たそうとした産物なのだろう。

 今の俺は、彼女が漏らした過去の一部を知ったことに、これ以上ないくらいの嬉しさと安堵感を覚えずにはいられなくなっていた。

 となれば後は……同じ本棚に並んでいる恋愛小説の謎ってことになるが……でも、

「さ、続きやろうか。少し休憩し過ぎたみたいだし、勉強時間がもったいないからさ」

「あ、ああ……そうだな……」

 そんなことはどうだっていい。いずれわかる話だ。

 今の俺がすべきことは、わざわざ家に来てもらっている彼女にしっかりと勉強を教わり納得のいく結果を出す、それだけだ。

 本来の目的を再度認識した俺は、彼女の知られざる過去と生い立ちをもっと知りたいという欲求を、コップに残ったジュースと一緒にぐいと飲み込むと、まだ少し複雑そうな表情が残る彼女に僅かばかりの笑顔を向けてから、再び教科書とにらめっこする時間を過ごしたのだった。


 ◆   ◆


 本日の勉強会後半戦も、既に二時間あまりが経過していた。


「はいはぁーい! おっふたっりさぁーん! おっつかれでぇーっすぅー!」


 相変わらずムダに元気な妹の喚き声にふと時計を見ると、時刻は六時半を少し回っている。

「ふいぃー……っ、もうこんな時間かぁー……」

 珍しく休日に長時間勉強していたのもあってか、俺は床にダイノジ……いや大の字になる。

「お、お疲れさま……」

 テーブルの反対側に座っている小中野から労いの言葉が返る。

「ああ、お前もお疲れだったな」

「あ、うん……」

 一見、勉強を始める前と殆ど変わらない姿勢と表情の彼女ではあったが、俺の労いの言葉に両肩がほんの少し下がったように見えた。

「ねーねー小中野さぁーん!」

「は、はい……、」

「ゼヒゼヒ今日はーウチで夕飯食べてってくださいねぇー!」

「えっ、い、いや……、」

 妹からの夕飯の誘いに戸惑いながら、小中野はちらと俺に目線を向けてくる。

「別にいいだろ? もう時間も遅いし、今から帰って支度すんのも大変だろ?」

「で、でも……そこまでしてもらっては……、」

「いいっていいって。どうせ最初からご馳走するつもりだったんだし、俺だってお前が作った夕飯いただいてたんだからさ。今さら遠慮なんかすんなって」

「そーそー! エンリョは美徳なんてもーイマドキ死語ですよぉー!」

 ま、お前はそうだな。今まで身内や親戚縁者、他人問わず遠慮しているトコなんか見たことねーし、だいたいにして初対面のJKの後ほいほいついて行って家入っちまうくらいだしな。てかそれって「図々しい」って言うんじゃね?

「は、はい……それでは……」

 それでも俺と妹からの誘いに顔を赤らめ、少し嬉しそうな表情でオーケーの返事をしてくれた。

「そんじゃハラも減ったし、早く片付け済ませて下行くとすっか」

「う、うん……」

「じゃーときわは先行ってるからねー!」

「わかったよ」

 小中野が片付け終わるのを見計らい、気怠い身体にムチ打っておもむろに立ち上がろうとする俺だったが……、

「っ……とと、」

 どうやら長時間座っていたからか膝が笑っていたのに加え、足に若干の痺れもあった影響で歩幅が小刻みになっている。

「だ……大丈夫か……?」

 下半身を震わせ、直立できない俺を見た小中野が心配する。

「あ、ああ大丈夫だ。心配すんな」

 などと殊勝な科白を返した瞬間……、


「う……うわああああああああああっ!」


 みたび俺は、小中野の両腕の中にすっぽりと抱かれていた。

「お……おお俺ん家の中でなな何てことすんだお前はっ!」

 これまでもこのようないきなりの事態は何度も経験してはいたが、さすがに我が家の中でお姫様抱っこという事態にすっかり動揺してしまった俺は、怒鳴り声も覚束なくなっている。


「テスト前の……大事な時期に……君にケガは……させられないから……」


「え……っ?」

 あ、そうか……。

 きっと俺の足元が頼りなさげな状態を見て、階段で足を踏み外さないか心配してくれたのだろう。

 真意を察した俺はその後、何も言わずにお姫様抱っこを受け入れていたが……、

 でも、こいつだって同じくらい正座打っていたはずなんだけどなぁ。

 まさか膝とか足首とかがサイボーグ化されてるのか? いや、もしかしたら全身そうなのか?

 などとそんなワケわからん思考を巡らせているうちに、俺たちはリビングの入口に到着していた。

「わ、悪いな……」

「う、ううん……大丈夫……」

 過去二回の抱っことは違い、今日のそれは彼女の気遣いと優しさが恥ずかしさを上回っていたのだろうか、それとも三回目ということで耐性が備わってしまったのだろうか、俺はそれほど顔が火照ることも心臓が暴れ出すこともなく、彼女に至っては相も変わらず平然としている。

「さ、入るぞ」

「う、うん……」

 ドアノブに手をかけ、数センチほどドアを開けてみると……、

「んっ、これは……?」

 リビングからはやけに香ばしくもジューシィな匂いが鼻をついてきた。

「おおっ! やっぱ焼肉かぁー!」

「そだよー! さーさー早くこっち来て座って座ってー!」

 妹の声に促され、いつも通り自分の席に座ろうとする……と、

「あれっ?」

 どういうわけか俺の席にだけ、箸や取り皿の類が見当たらないのに気づく。

「何だよこれ? 皿とか置いてねーんだけど?」

「伯斗、ちょっといい?」

 眼前の不可解な状況に怪訝な顔をする俺を見た母親が突然声をかける。

「一つ訊いていいかしら?」

「んっ、何だよ?」


「『鬼畜ババァ』って……誰のことなのかしらねぇー……?」


「は……………?」

 え? 何で? いつの間に聞かれてたんだそれ?

 キッチンの奥から聞こえる、おどろおどろしくも迫力ありまくりの声音で呟く母親は、まるで般若や仁王もシッポ巻いて逃げ出さんばかりの形相だった。

「え、あー……いや……それは……、」

 ま、まずい……それでなくともこないだ母娘二人で焼肉食べに行かれてるってのに、これじゃ今日も食いっぱぐれちまうじゃねーか!

 俺はこの時、目の前で焼き上がるのを今か今かと待っている肉の姿と香りが徐々に遠ざかっていく感を抱かずにはいられなかった。

「あ、あのう~……、」

「どうしたの? 早く答えなさいよ」

「お母様母上様ごめんなさいもう二度と言いません心の底から反省してます!」

 同じ悲劇を再度繰り返すわけにはいかないと思った俺は恥も外聞もかなぐり捨て、咄嗟に母親のスリッパに額をぐりぐりと擦りつけんばかりの土下座をしてしまう。

「何なのよもう。キモチ悪いわねぇ……。はいはい、わかったわよ。ときわ、仕方ないから伯斗の食器出してやんなさい」

「はぁーいっ!」

「あ……ありがとうございます母上様っ!」

 てなワケで焼肉食いっぱぐれアゲインの悲劇は何とか回避できたのだが……、


『うっ……、』


 これ以上はないほどに情けなくも恥ずかしい親子の掛け合いを一部始終目にしていた彼女の羨ましげな表情に、俺の心中は途轍もない気まずさと心苦しさが広がっていくのを止められずにいたのだった。


 翌日の日曜日、小中野は我が女性陣二人の強い希望により、昨日に引き続き我が家で勉強会をやった後、これも昨日同様四人で食卓を囲んでいた。ちなみに今日のメニューは手巻き寿司だ。

 さすがに二日目、それも連日ともなると彼女も場馴れしてきたのだろうか、昨日よりは表情も含めて気分的にリラックスしている感が随所に見られるようになっていて、特に妹とのコミュニケーションがスムーズになっているようで、会話が弾む場面もちらほら見かけたりなんかする。

 まぁこれで少しでも不安や淋しさが紛れてくれるのなら、もどかしくも気恥ずかしい思いをして誘った甲斐があるというものだ。


 そして今は、その帰り道。


「あ、ありがとう……新城君……」


 突然のように小中野が俺に礼を述べてくる。

「どうしたんだよ? いきなり礼なんて」

「君のおかげで……楽しい時間を……過ごすことが……できたから……」

 その言葉を耳にした俺が、隣を歩く彼女の顔に目線を向けると……、


『――えっ?』


 そこには、この俺ですら今まで見たことのない、楽しさの余韻に浸っているかの表情をした小中野がいた。


『―――――あ、』


 喜怒哀楽


 中学の卒業式の帰りに初めて出会ってから、これまで彼女が見せた表情の中には今、俺の眼前にある「楽」という顔はなかった。

 昨日今日と我が家にいた時ですら、こんな顔を見せなかったというのに……これが、彼女が楽しいと思った時に見せる顔だったのか。何て朗らかで、温かい表情なのだろう。見ていて心がだんだんと洗われてくるようだ。

「はははっ、お前がそう言ってくれるんならウチに呼んだ甲斐があるってもんだよ」

 そう言いながら、ひとときの安堵感に浸っている俺だったが……、


「う、うん……とても楽しい……思い出ができて……嬉しかった……」


「へっ?」

 な、何だ……この過去形。

 しかも、ついさっきまで見せていた「楽」の表情が、今はすっかりなりを潜めてしまっている。

「あ、いや……きっとあの二人もまた来てほしいって思ってるはずだし、テスト終わったら暫くゆっくりできんだからさ。だからそん時はぜひとも来てくれよな」

「………………」

 明らかに雰囲気ががらりと変わってしまった彼女は、俺の誘いにも憂い顔で口をつぐんでしまう。

 どうにも重苦しい空気に包まれた中、いつの間にか俺たちはアパートの前に到着していた。

 俺は登下校の時と同じく、部屋の前まで彼女に付き添う。

 鍵を開け、半分ほどドアを開けると、おもむろに彼女は俺の方を向き、こう言った。

「私が教えられることは……全部教えたから……明日からは……君一人で……復習しておいて……くれないか……」

「そ、そうか……、」

 俺は若干、不安感をのぞかせた口調で返事をする。

「教えたことを……しっかりやっておけば……君なら……大丈夫だから……」

 その不安を感じ取ったのだろう。彼女は俺を励ましてくれた。

「――わかった。俺は自分を……お前を信じるからさ。絶対頑張って結果出すよ」

「……うん」

 俺の決意表明を耳にして安心したのか、彼女は微かに笑みを浮かべている。

「本当にありがとうな。じゃおやすみ」

「お、おやすみなさい……頑張って……」

「ああ、心配すんな、任せとけ」

 こうして……彼女は自分の部屋に戻っていった。

 かちゃりと扉が閉まる音を確認した俺は部屋から離れ、足を踏み外さないよう踏面を一つ一つしっかりと踏みしめながら階段を降り、帰路につくが……、

 帰り道の途中まで見せていた楽し気な表情が、なぜ急にあんな憂いたものに変わってしまったのだろう……そして、

 我が家で過ごした時間をなぜ、遠い思い出のように言うのだろう。

 しかも……捉えようによっては二度と我が家を訪れることなどないとでも言いたげに。

 同じ高校に通い、同じクラスに在籍し、登下校や外出に付き添い、こんなにも近くに住んでいるというのに……なぜかその存在が、今は遠くに感じてしまう。

 帰路についている間じゅう、ずっとそんな思いが頭を離れない……すると、


『んっ……?』


 勉強会初日の帰宅途中に見た、ボディがビッカビカに磨かれた黒塗り高級車が、あの時と全く同じ場所に停まっている。


『確かさっきは……停まっていなかったはず……』


 あの時と同じに俺は戦慄を覚えるとともに、言葉では言い表せない不穏な感を抱かずにはいられない。

 しかもこの一週間、俺はこの道をこの時間帯に歩いていたにもかかわらず、さも神出鬼没感を煽り立てるかのように日を置いてくるというのも、何かしら言い知れない不気味さが増長されてくる。

 初めて見た時は単なる考えすぎだと表面上は平静を装っていたが、この辺の景色にそぐわないものを一週間に二度も、それも同じ時間帯に目にしてしまった俺は、さまざまな意味での不自然さと違和感、そして幾ばくかの恐怖を覚えつつも黒塗りの脇を通り過ぎようとする。

 ただ、これを目にする度にこんな思いをするというのもどうかと思い、失礼ながらもあわよくば少しでも車内を窺い知れたらと考えた俺は、敢えて今回は意図的に歩みを遅くする。

『えっ……?』

 後席とリヤウインドゥはスモークガラスなので殆ど見えなかったが、運転席と助手席には人がいる様子がない。


『本当に……ただこの辺に何か用事があって停めているだけなのか……?』


 念のため脇を通り過ぎた後、これも一週間前と同じく五~六メートル先で再び黒塗りに目線を向け、暫し様子を窺うが……特に変わった様子は見られない。

『やはり……思い過ごしか』

あまり同じ場所に立ち止まっていては逆にこっちが不自然がられると考えた俺は、どこか後ろ髪を引かれる思いにさいなまれながらも、少し足早に我が家へと歩を進めたのだった。


 ◆   ◆


 週が明け、中間テスト前日の朝。

 昨日の帰り道に感じていた不気味さと違和感を今だ若干引きずりながらも、いつも通り俺は小中野を迎えに行く。ちなみに途中、黒塗り高級車の姿はなかった。

「お、おはよう……」

 彼女はこれもいつも通り、小声でたどたどしい挨拶をする。

 普段と何一つ変わることのない朝のひとときに、ひとまず安堵している俺だったが、昨夜の光景が頭から離れずにいる影響か、心ならずも辺りをちらちらと窺い見てしまっている。

「ど、どうした……?」

 そんな俺の様子を不審に思ったのだろうか、小中野はやや怪訝な顔つきで尋ねてくる。

「あ、い、いや……何でもないよ。は、ははっ……、」

「そ、そうか……?」

 焦点が定まっていないような俺の返答に、きょとん顔を返している小中野。

 どうやらあの黒塗りと彼女との関連性はなさそうに思う。だがそれは「今のところ」という段階ではあるが。

 まぁ今はテスト直前でもあるし、いくら考えたってわからないものはわからないのだから、余計な思考は巡らせないでいるのが賢明だろう。

 それに、せっかくこれまで勉強を教えてもらってきたのに、テストに関係ないことばかり考えて集中できず、結果が振るわなかったなんてことになったら元も子もないし、何より彼女に申し訳が立たなくなると思い直した俺は、やや重めの雰囲気を振り払おうと軽く笑顔を返していた。



 そしていよいよ、中間テスト本番を迎える。

 初日の一時限目は数学。どんぐりの背比べではないが、勉強全てが苦手な中で最も苦手とする教科だ。


「答案用紙行き渡ったらチャイムが鳴るまで裏返しにして待ってろ」


 高校初の定期テスト、それも初日とあってか、担任の先生の声に俺を含めたクラス全員が緊張の面持ちを隠せない。


 キ~ンコ~ン、カ~ンコ~ン


「よーし始めっ!」


 先生のかけ声と同時に、「しゃらっ」と一斉に用紙をめくる音が耳をつく。

 まずは名前を記入してから答案にさっと目を通すと……そこには小中野が時間をかけて教えてくれた問題が用紙狭しと並んでいる。

 さっそく問題に取りかかってみると、悲惨な結果に終わった小テストとは打って変わり、自分でも不思議なくらいにペンが進んでいく。

 小中野……お前マジ天使? それとも神?

 一番苦手な数学でさえこう思わせるのだから、これは後に続く他の教科も期待が持てそうだ。

 ま、実際最終日の最後までこの思いは揺らぐことがなかったのだから心底恐れ入るしかない。

 ただ、これはあくまでも中学時代よりはマシという話であって、元々のデキに難ありすぎの人間が突然高得点を取れるってのは望むべくもないし、無論結果は答案が返却されるまで分かるはずもないが。


 こんな感じでテスト日程は終了し、今は放課後のひととき。


「よう新城、どうだった?」

「あ、ああ……まあまあってトコじゃないのか……たぶん、」

「何だ? その他人事みたいで自信なさげな返事は?」

「しょうがないだろ? 俺はお前と違っておつむのデキが全然なんだから」

「だってお前、小中野さんと一緒にずっと勉強してきたんだろう? ならもっと自信持ってもいいんじゃないのか?」

 確かに藤崎の言い分にも一理あるが……、

「ま、まぁはっきり言ってそれだけが頼みの綱だったんだけどさ……はは、」

 苦笑い交じりにこうは言ってみても、俺だって小中野がいない時はそれなりに勉強してきたつもりだし、それが功を奏した部分だって多少はあったりしたと思うんだけど……。


「ところで……、」

「どうした?」

「テストも終わったことだし、せっかくだから週末は久々にどこか出かけないか?」

 藤崎は自分が最初に振ってきた話題を方向転換する。

 そう言えば、高校生活が始まってから平日は元より、休日も小中野の外出に付き添った日も割とあって、中学時代とは打って変わり学校以外で藤崎とつるむ時間は激減、と言うか殆どなくなっていた。

 ま、こいつも小中野の事情と俺が置かれている状況を良く理解しているから、逆に気を遣って誘うのを遠慮してくれていたのだろうが。

 本当……普段は飄々とした口調で言いたいことを容赦なく言ってくる奴ではあるけれど、陰ながらこうしていろいろと配慮してくれるところはやはり、長年の親友なんだなぁと今さらながらに思わされる。

「オッケー、そうすっか」

 これまでの気遣いに応えようと、俺は藤崎の誘いに乗る。

「そんじゃ長峰も誘うか?」

「そうだな。じゃあいつには俺から話しておくとするよ……それと、」

 ここまで言いかけると、なぜか俺にほくそ笑みを見せる藤崎。

「ど、どうした?」

「せっかくの機会だ、小中野さんも誘ったらいいんじゃないか?」

「えっ?」

「お前のことだ、どうせ二人でいても彼女の案内役ばっかりで、一緒に遊ぶなんて気の利いたことなんかしてないんだろうしな」

『あ……………』

 真実を突かれ、俺は言葉に詰まりながら呆然としてしまう。

 むう……なかなかに鋭い親友だ。もしかしたら俺、普段からこいつに尾行(つけ)られているのか?

「ははっ! どうやらその顔だと図星らしいな」

「ま、まあな……、」

「彼女はお前から誘ってくれ。ぜひ来てくれってな」

「あ、ああ……わかった。でもさ……、」

「どうした? 何か問題でもあるのか?」

「もし……断わられたりなんかしたらどうする? あいつって何かそういうのあんま得意じゃなさそうだし……、」

 自分で言う通り、確かにこれまで感じてきた限りでは彼女、多人数できゃっきゃわいわいするような雰囲気があまり得意ではないという思いを抱いていた反面、先週末の我が家での様子を見ていると、まるっきり嫌いではないんじゃないかとも思える。

 つまり、飲み会で酒飲みながら周りと一緒に騒ぎ立てるのは好きじゃないが、その場の雰囲気に浸りながらちびちび飲んでいるのは嫌いじゃないってトコか?

 無論まだ未成年なんで酒の席なんか行ったことないけど、盆正月とかに親の田舎に里帰りすれば、あまり酒が強い方ではない父親が親戚連中に付き合わされるなんてのはよく目にしていたから、子供心にその感覚は理解できないでもない。

 それにこれからの高校生活において気軽にふれあえる人間が増えることは、実家を離れ一人で暮らす彼女にとってプラスになるかどうかはともかく、少なくともマイナスにはならないはずだ。

「それはそれでしょうがないだろう? 人には必ず好き嫌いや得手不得手があるんだからな。お前で言えば勉強とか、いろいろニブいところとかな」

「う、むうぅ……、」

 ったく……いつもいつも最後の最後で余計なことをほざくヤツだ。しかもそれがしっかりと的を得ているもんだから全く反論できないでいる俺も俺なんだけど。

 ま、あの無双を具現化したような存在の小中野でさえ一歩外に出れば、そこはまるで異世界空間に紛れ込んだかの如く単独行動できない極度の方向オンチという、誠に残念極まりない欠点弱点があるんだから、こいつの発言は全くの正論でしかないのだが。

「そ、それもそうだな……じゃあ廊下で待ってるみたいだからとりあえず送ってくよ」

「おう、なら後で連絡するからその時に返事教えてくれ。できれば色よい返事でな」

「わかったよ。善処しとく」

 藤崎との会話を終えた俺は、廊下で待っている小中野の元へと向かった。


「な、なあ小中野……、」

 校門を抜けてすぐ、俺は藤崎から誘われた件を伝えるため、微かに震える口を開く。

「ど、どうした……?」

「あ、あのさ……次の週末……なんだけど……、」

「し、週末……か……?」

「んっ……?」

 この反応……何となくだが、あまり色よい返事は期待できないような気が……。

 それでも俺はせっかくの親友の誘いを無下にするのもどうかと思い、話を続ける。

「さっき藤崎から週末、遊びに行かないかって誘われててさ……それで、」

「それで……?」

「お、お前も来ないかって思って……どうかなぁ? はは、」

 照れ臭さと、幾ばくかの不穏なものを抱いている俺は、思いがけず苦笑いが漏れてしまう。

 遊びの誘いに彼女はきょとん顔をしたかと思うと、今度は顔全体を深く憂いたものにしながら考え込んでしまう。

 これまで他のクラスメイトと積極的な交流が殆どなかった彼女にしてみれば、この誘いは突飛に過ぎるといえばそうなのだろうから、それは一緒にいる時間が一番長い俺がよくわかっている。だから、このようなリアクションになるのは至って自然なのだと思う……ただ、

 これは単に俺の考え過ぎなのだろうか?

 今の俺には、彼女が考え込んでいるのは他に何か支障となる理由があるのではないかという懸念が、ほんの僅かながらも脳裏をよぎっている。

「ま、まぁそんな難しく考えんなよ。それにあいつらは俺の幼なじみだし、決して悪いやつらじゃないから何の心配もいらないって」

 しかし、彼女の今後を(おもんぱか)ってみれば、やはり交友関係を拡充させておくメリットは大きいだろうと考えた俺は、その懸念を振りほどこうとするかのように彼女の説得を試みるが、それでも彼女は思慮の表情を崩しはしない。

「それと妹にも声かけとくから安心しろって。あいつなら、お前が一緒だって言えば絶対行くって返事するはずだからさ」


「わ、わかった……では……喜んで……ご一緒させてもらう……」


 まだ考え込んでいる表情を完全に崩し切ってはいなかったものの、先週末の二日間で一定程度の親密感を抱いたであろう我が妹を引き合いに出したのが功を奏したのか、とりあえずはオーケーの返事を寄越してくれた。

「そ……そうか。じゃあ詳しい話は後で藤崎から俺に連絡が来るはずだから、そのあとすぐお前に連絡するよ」

「う、うん……待ってる……」

 と言うわけで、一応は週末の約束を取りつけたが……、

 いくら幼なじみの藤崎と長峰とはいえ、彼女とこの二人は今まで直接的交流がなかったし、特に長峰とは一度、登校時に校門の近くで険悪なムードになったりしたから、多少なり場を和ませるという意味合いも含めて我が妹ときわも誘っておこうと思う。だって小中野が一緒ならあいつ絶対喜ぶだろうしな。それもうきゃうきゃサル声出しながら。

 なぜか俺にとってはどこか重苦しさが残る会話をしているうちに、いつの間にか彼女のアパートに到着していた。

「お前と遊ぶのって初めてだからさ……マジで楽しみにしてるよ」

 遊びの誘いを無理に承諾させた感がどうにも否めず、それなりに気まずさが先に立っていた俺は、一応気を遣う意味も込めて今の彼女が一番喜びそうな言葉を伝える。

「え、あっ……うん……私も……、」

 この言葉にすっかり照れてしまった様子の小中野。それは俺も同じだ。

「じゃあな。それと勉強教えてくれてホント、ありがとうな」

「う、うん……私も君と……君のご家族と一緒に……夕食をいただくことが……できて本当に……本当に……、」

 言葉に詰まる彼女はなぜか感極まっているようで、目をすっかり潤ませている。

「お、おい……何でそんなことで涙ぐんでるんだよ? また俺ん家に来てくれればいつでもおふくろや妹と話できるんだし、一緒にメシだって食えんだからさ」

「そ、それもそうか……じゃあ……、」

「お、おう……じゃな」

 この時……なぜか俺は後ろ髪を引かれているかのような感覚に強く襲われている。

 彼女の道案内を始めてから一か月半……このままここを離れたくないと思ったことは一度もなかった……しかし、


「ふう………っ、」


 いつまでもこんな思いを抱いたところで、今の俺には何をどうすることもできないと未練がましい感情を断ち切り、部屋の扉が閉まるのを見届け施錠を確認した後、軽くため息をつきつつ踵を返していたのだった……。

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