2_10.漆黒の森
アルス山脈は、モートリア大陸西端にある。
この山脈はエステリア王国をモートリア中央と分断していた。そして、アルス山脈のエステリア側には大きな森が広がっていた。山の麓から大きく広がるこの森は"漆黒の森"と呼ばれていた。森の入り口から100mも入ると方向感覚が狂う。自分がどこに居るのか分からなくなる。その為、この森に入る地元民は居らず、この森に入る事は即ち自殺行為と思われていた。
ブルーロ達特殊作戦団は当然漆黒の森の噂は知っている。初めてその話を聞いた時、エステリア人は腰抜けだ、と思った。たかだか森に入るのが自殺行為?なんともひ弱な事だ。ガルディシアはそもそも峻嶮な山岳地帯が多く、その山岳手前には必ず森林が生い茂り、森に入る行為を全く躊躇しない。むしろ森に入る事は飯の種なのだ。鍛冶に薪に狩猟に。だからガルディシア人は森に入る事は、全く怖く無かったのだ。
ブルーロ達の一団は、アルスランの騒乱から南に張り付く騎兵達を犬で攪乱して散らし、その隙をついて一息に森に駆け抜けた。森の奥にまで分け入り、行ける所まで一団は進んだ。その日の夜に追っ手の姿は見えず、交代で周辺を警戒しつつ野営した。異変は翌日の朝に起こった。
早朝フランツは見張りをしていたヘルムートの所に行った。
「?おーい、ヘルムート!!」
「どうしたフランツ?あんまり声を立てるな。どこかに追っ手が潜んでいるとも限らんのだぞ。」
「すいません大尉。…ヘルムートが居ないんです。なんか…なんだこれ…奴が居た場所にドロドロとしたものが…??」
「おい、迂闊に触るな!」
ヘルムートが潜んで周辺警戒していた穴。その中には、何か嫌な色の粘膜があり、朝の陽光に乾ききらずにテラテラと光っていた。なんだこれは…?なんかビリビリと本能の警報が鳴る。これは何かやばい。
「周辺警戒!!戦闘準備!!何かが居るぞ!」
途端に偽装して固まって寝ていた集団が一斉に跳ね起き、銃を構えた。
「大尉!何です?敵はどこですか?」
「分からん…分からんが、ヘルムートが消えた。」
「ちっ、ヘルムートが消えたとか無いぜ。俺ぁまだ奴から金返してもらってねえ。」
「冗談言ってる場合じゃない。何かわからん正体不明の物がヘルムートを攫った。奴が居た後には、変な粘膜が残っていた。貴様等の中で、この森の噂や生物に関して聞いた物は?」
「マジかよ…化け物って事か?…俺、人間相手専門なんだけど。」
「軽口を叩くなオイゲン。お前はカールと組め。周辺に人間を引き摺るような跡が無いかどうか探れ。ヨーゼフ、お前はテオドールと組んで、どこから来たか探れ。痕跡か何かでも見つかったらここに戻って来い。残りは周辺警戒だ。急げ。」
「了解!」
「大尉、周辺ですが…気配無いですね…」
「うむ…既に去った後か。ギュンター、エバーハルト、ハンス、レオは引き続き警戒。他は飯を食って撤収準備だ。」
結局、探りに行った4名は何も見つけられなかった。引き摺った後も、何かが接近した後も、ヘルムートも。この時点でヘルムートの捜索も、敵の正体も放棄し、留まり続けるのは危険、という判断で一行は南に足を進めた。
アルスランから真っすぐ南に進めば海にあたる。だが、その途中に立ちふさがるのが漆黒の森だ。おおよそ森全体を真っすぐ抜けようとする場合、150km程が森の中だ。森を抜けてから400km程で南の港町に当たる。だが、この400kmも街道での計算なので、街道と並行して山脈の麓を移動する想定だった。
しかし深い森がブルーロ達の移動速度を妨げ、1日たっても大した距離を稼げずに、たったの20km進んだ地点で警戒陣地を構築した。ブルーロは監視を2名1組にして、警戒陣地の中で夜を迎えた。
「大尉、昨晩の奴…今日は来ますかね?」
「問題は、その何かの習性だ。縄張りを荒らした為、だったのか…それとも追う奴か…縄張りだったならもう問題は無いが、追って来る奴なら問題だ。今夜か遅くても明日の夜には分かるだろう。何れ、俺達の目的はエステリアの脱出だ。それに障害となる物は排除する。力づくでな。」
「…大尉!ブルーロ大尉!」
「なんだ、オットー上等兵。」
「何かが居ます。多分この1km程先です。」
オットー上等兵は、警戒陣地の中から一方を指さした。怪訝な顔でブルーロは聞く。自分には気配を感じない。
「何かとは何だ。何で分かる?…そういえば猟師出身か。来るのは人間か?それとも動物か?分かるか?」
「それが分からないんです。こんな事初めてです。でもこちらを意識しているのは分かります。多分、今すぐはこっちに来ないです。遠巻きに覗ってます。」
「そういえばヘルムートが消えたのも朝だったな…。待つのは別に構わんが、敵に主導権を取られたままが気に入らん。総員戦闘準備、攻撃方向はオットーに従え。火を絶やすな。敵方向に向けて松明を投げつけて目視可能にせよ。何者か知らんが、この場で追跡は諦めてもらおう。」