72.居酒屋翡翠亭での密談
ル・シュテルはエウルレンの居酒屋『翡翠亭』を指定した。
そこはマルソーにほど近く、エウルレン西側の新歓楽街にある店だった。実の所、ここもエウグストチーム第三レイヤーの溜まり場なのだが、そんな事はゾルダーもクレメンスも知らない。ル・シュテルとしては、エウグストの独立を考え実行するにはガルディシア帝国の有力者がバックに居た方が可能性が高まる、と見ている。そこでガルディシア内部への協力者をどうにか得られないモノか?と考えていた。そもそも、ル・シュテルの立ち位置は実の所非常に不安定で、皇帝の不興を買った瞬間に消えて無くなる程度の物だった。しかも領地以外のエウグスト人からの評判も悪く、つまりは消えても領民以外は誰も不都合が無い。それでも今日まで維持してこれたのは、帝国に収める税金が他の地域と比べて軽減された税率にも拘らず圧倒的に良かったからだ。勿論それには元々豊穣な土地柄で食料の生産に適しているだけでは無く、戦場にならなかったが故に生産能力も人的資源の浪費も無い、戦前と変わらない状態を維持しているからだ。他の場所は戦場となり荒れ果て、働ける人員が戦争で減った事から、収入収益が大幅に減り、その足りない税収の穴埋めとして炭鉱に人を送り出さないとならなくなった。ガルディシアへの賠償金はそれほど重かった。ル・シュテル領は帝国に色々と便宜を図られ、戦前と何も変わらない状況を維持していたが、他の旧エウグスト領土は重税と人不足に喘いでいた。それもこれもル・シュテルの裏切りのせいだ、と負のスパイラルは続いていた。
そしてニッポンが現れた事で、このエウルレンは恐ろしいレベルで成長している。あと10年もしたら、このバラディア大陸では比類無い先端地域となるだろう。だが、そこに主権が無ければ、自ら依って立つ国家を持たねば、この成長も一瞬の灯同然だ。所詮、ガルディシアの手の平で仮初の繁栄なのだ。それが故に、ル・シュテルはエウグストの再興を考える。考え続けている。その為のガルディシア内部協力者の獲得なのだ。
「居酒屋『翡翠亭』…ここか。」
店にゾルダーが到着する。店の従業員にル・シュテルが居る場所を聞き、ル・シュテルが待つ小部屋へと向かった。ゾルダーは詳細を知らない。既に小部屋ではル・シュテルと緊張した面持ちのクレメンスが待っていた。
「やぁゾルダーさん、迷わずに来れましたか?
この店は電気が通電する事によって使用可能となったニッポンから貰った冷蔵庫を持つ店なんですよ。これは勿論製品サンプルなんですけどね。機能としては皆さんもマルソー見学でご覧になった食品貯蔵施設の小型版です。様々な食品を保存しておく事が可能となり、その結果として何時でも新鮮な食材を使用する事が可能となっています。まずは食べましょう。あ、そうだ。彼はクレメンス准将、皇太子ドラクスル殿下の作戦参謀の方です。クレメンスさん、こちらはゾルダ少将。彼は皇帝直属情報局の副局長ですよ。」
「どうぞ宜しく。お噂は兼ねがね。」
「こちらこそお噂を何時も伺ってますよ、よろしく。」
ゾルダーもクレメンスも両方微妙な緊張の元にぎこちない挨拶が交わされた。そして人数分の酒と食事が運ばれてきた。酒はビールだったが、とても冷えている。そしてマルソー近海で獲れた魚介類が豊富に出てきた。続いて肉料理が続く。
「これは良く冷えてますな…
このような呑み方をするのは初めてだが旨い。」
「ニッポンではビールをよく冷やして飲むそうで。
ゾルダーさんはニッポンに行った事があるから良くご存知でしょう。」
「そうですね、伯爵。ニッポンで食べた食事を思い出しましたよ。」
「ははは、先ずはここの食事を楽しみましょう。」
暫く他愛も無い話が続くが、クレメンスはこの会合の目的がどうにも理解出来なかった。もし、ゾルダーに全て話していたのなら、今頃この建物は情報局指揮下の憲兵が集合している筈だ。最悪反逆罪として裁かれる程の事を伯爵に語っている。だが、一向にその気配が無い。この店の中に居るのも、ここらあたりで良く見かけるエウグスト人しか居ない。何を目的としているのだろう…そこに伯爵が本題を話しかけた。
「さて、クレメンスさん。どうにも落ち着かない雰囲気ですね。今回の会合なんですが、ゾルダーさんに貴方を紹介したいと言った理由をお話しましょうかね。」
「伯爵、それは私も聞きたい。何故私なのか?クレメンスさんとは知己になる事に否も応も無いが、何分にも接点がない。」
ゾルダーも正直、何故ここに呼ばれたのかが分からない。
「そうですね。どこから話しましょうかね。
貴方方は、ニッポンについてどう思いますか?
ああ、ゾルダーさんはニッポンを既に訪れてますから、どのような国家かは理解していますでしょう。まずはクレメンスさんにお伺いしましょうか。」
クレメンスは前回にル・シュテルにぶちまけた時よりも更に周辺を見て回った事によりあの思いを強くしている。だが、ゾルダーを目の前にして言ってしまって良いのだろうか。…いや、既に詰んでいる。あの件も既にゾルダーは知っているのだろう。ここは賭けだな。
「伯爵。私の思いは前回と同じだ。この発展が齎す事はガルディシアにとって良い物ばかりでは無いと思うが、私はそれを悪い事とは思ってはおらん。寧ろ、これを奇禍として歪んだ体制が正されるやもしれん事は民草にとって良い事になるかもしれん。ニッポンがそれを後押しする存在である事は否定出来ない。それを前提として聞いて頂きたい。私は、現在の体制は歪んでいると思う。国家とは民草あって初めて存在可能な物だ。領民が居らずして国としては成り立たない。では、その民草を苦しめる状態を国家が齎しているのは本末転倒だ。それが故に、どこかでそれを正さなければならない。」
「ふむ。前回も申し上げた通りですが、危険な発言ですよね。ですが実の所、私もそう思います。ニッポンが、このマルソーやエウルレンに持ち込んだ様々な物は、人々の生活を如何に幸せにするかを目的として作られているように見えます。今まで様々な苦労があった行為、行動を非常に簡略化し、便利になり、労力を最小限にしようとする製品の数々。それは、根底に民草の幸せを考える事が土台にある世界から発せられた物です。我々には、その世界と同様の世界を構築する事は不可能でしょうか?ゾルダーさんはどう思います?」
ゾルダーは突然話を振られてぎくりとする。
彼はそもそもそこまでの事は考えては居なかったが、ル・シュテルに問いを投げかけられ、今までの自分の人生を振り返り、そして話し始めた。
「我々がここエウグストに居る理由。それは偏に皇帝陛下の意思の結果なのだ。我々の意思ではない。そもそも我々がエウグストとの対等な付き合いが出来れば別に戦争をする理由も無かった事が歴史書に記されているのは皆もご存知の通りだ。だが、今やそんな事はどうでもいい。既に戦争が起き、敵味方に分かれ、そして今の世がある。だが、私はニッポンと付き合うようになり様々な事を学んだ。共に在り、共に栄えるという理念だ。恐らくそれはガルディシアの理念とは合わない。遠からず、ニッポンとの思想的な衝突は起こりうるものだと思う。だが、その時はガルディシアが滅び去る時だろう。」
「そうなんですよ、私もそう思うのですよ、クレメンスさん。多分貴方はニッポンの軍事力をご存知無いかもしれませんが、ガルディシアは陸軍も海軍もニッポンには敵いません。先ほどのゾルダーさんが言った"共存共栄"の精神は、お互いが定めたルールの中において適用されるのです。しかし一旦どちらかがそのルールを守らなかった場合、ニッポンの対応は恐らく限界まで交渉を続け、最後に切れるでしょう。切れたが最後、圧倒的な軍事力を持って、正に殲滅に近い状況となるでしょう。それ程までに戦力は隔絶しています。」
クレメンスは言葉が出なかった。
そうだ。俺は、ニッポンの軍事力を見た事が無いし、聞いただけでは判断が付かない。だからこそ、話半分程度で聞いていたのだ。だが、彼ら二人は実際にニッポンに行ったり、直接交渉をしている。しかもだ。民生技術がこれほど発達している国が軍事力が低い訳がない。当然、その技術に見合う武器を持っている筈だ。それがどれほどの物なのか…知りたい。
「参考までに聞くが、ニッポンの陸軍とはどのような能力を持っている?」
ゾルダーが口を開いた。
「私がニッポン陸軍の映像を見る限りにおいてだが…
巨大な砲を搭載した箱型の車両がある。それは我々の銃や砲が一切効かないだろう。最新最大の施条砲を以てしても効かぬ。それが馬と同等以上の突進力を以て突入する事が可能だ。しかも、その突進中にも砲撃を行う事が出来、その砲撃は百発百中だ。威力たるや見た事も無い。恐らく我々の駆逐艦クラスでも一撃で沈める程の威力を持つ。兵は連射可能な武器を持つ。彼らの兵1人に匹敵するのは我々の兵500人程であろうか。もしくはそれ以上かもしれん。そして彼らの砲は、超超遠距離からの砲撃が可能だ。その射程は30kmとも40kmとも言っていた。正直、私は陸軍に所属していたとして、この情報を得たら即座に亡命するよ。彼らと戦うのは、実に手の込んだ自殺に過ぎない。」
「と、いう事で…私が提案したいが為に、今回お二方にお集まり頂きました。私が思うのは、ニッポンを後ろ盾として、ガルディシアの帝国という体制をなんとかしませんか?という提案です。もちろんガルディシアを滅ぼすという意味ではありません。帝国という支配体制を何等かの別の政治形態に変更するという意味です。平たく言うと、共存共栄を目的とし、戦争を続けたがる体制よりも、平和と貿易と繁栄に根差した民が幸せに生きられる環境を目標にしたい。そこでお二方、ご協力頂けますか?」
「そ、それは…帝国を裏切れという提案か?」
「そう受け取って頂いても構いません。
どうせ帝国はニッポンと敵対したら、もっと酷い事になりますから。そしてその兆候は既に表れていますよ。何故、マルソーやエウルレンだけがニッポンの援助をこんなに受けられているか理由は御存じですか?」
「やはり、そういう事か…」
ゾルダーは秘かに心当たりがあったが、それもこれも皇帝と議会の無理解からと思っていた。だが、これはあえて帝都ザムセンに対し受け入れられない提案をした上で向こうから断らせ、その上で第二案として堂々とマルソーやエウルレンに投資を行う大義名分を手に入れ…そういう事なのだ。それに、あの旧駆逐艦マルモラの連中で構成されている、ニッポン軍所属のエウグスト部隊。あれも、恐らくはそういう事に手を貸しているのだろう。俺の立ち位置は既にこちら側か…
「もし、ここで断ったら?」
クレメンスは、一応尋ねてみた。
多分、この店はそういう店だろう。そして一歩も外に出られないだろう。店の中に居る客は全員ル・シュテルの手の者とは思っていたが…この街全体がそうだ。断れば、二度とここから出られないだろう。だが、まあこの話に乗るのは、そもそも俺から提案している事だしな、とクレメンスは断る気持ちは更々無かった。




