391.ある騎士の記憶(破壊)
ふわふわと漂うように、ゼルオーンの意識はあった。
もう長いこと忘れていた平穏がそこにはあった。
俺は死んだのか、と、ふと思う。
まるで、暖かな布団にくるまり、夢を見ているかのような。
そんなぬくもりと安心があった。
忘れていたのだ。
十年前、世界が変わったその日から。
光も闇もない、そのぬくもりの中にゼルオーンはうずくまる影を見つけた。
俺だ。
あれは俺だ、と直感する。
幼いころ、道に迷って路地裏でうずくまって泣いていた俺だ。
イメージは過去の記憶と交わり、鮮明にその日の映像を呼び起こす。
「ゼル!ようやく見つけた」
泣きながら、地面を見つめていたゼルオーンは地に差した影に気づく。
顔を上げると、青い空と、同じ年頃の少女の顔があった。
心配そうな、そして嬉しそうな微笑みを浮かべていた。
「ミシア……」
「もう、おばさまが大変だったのよ?拐われたのかしら、それとも事故?事件!?ああ、どうすればいいのかしら……ってね」
ゼルオーンの母親は心配性な人だった。
あれこれと些末なことで悩んでは父親から呆れられていた。
「でも、僕……」
「でもぼく、じゃないの。帰るわよ」
「おつかい、まだ……」
そういえばその日は、母親から頼まれた何かを買いにいって迷ったのだ。
家を出発する時は道順が頭に入っていて、店での受け答えも完璧に覚えて、すぐに家に帰れる、と思っていた。
けど、思っていたより道は遠く、分かれ道は多く、彼はすっかり迷ってしまったのだった。
「ダンフ商会の隣の道具屋さんで夜の灯り用の油を買うんでしょ?けど、もう遅いし、私の家から分けておいたわ。だからもう帰るだけなの」
「ほんと?」
「君にウソ言ってもしょうがないでしょ」
呆れた顔はそのままに、しかし優しくミシアは笑う。
さあ、いきましょ、と手をつかみ立たせる。
彼女の腕には大きな金色の腕輪が輝いている。
彼女が父親から譲り受けたのだと聞いたことがある。
ミシアのトレードマークだ。
それから二人で帰ったことを、よく覚えている。
情景はゆらりとぼやけ、次の景色を浮かび上がらせる。
それは、春の暖かな風が吹く日の記憶だ。
「ゼル、兵士になるってほんと?」
ミシアは成長している。
おそらく、ゼルオーンもそうだった。
背は伸び、手は大きくなり、歩くのが早くなった。
もう、泣かなくなった。
「ああ」
「そっか……あの泣き虫ゼルがねえ」
「もう、泣かねえよ」
「ホントに?」
「当たり前だ。俺は大人だ。大人は泣かない」
「まだ十五じゃない。子供よ」
早く大人になりたかった。
父親が怪我をして、満足に働けなくなった。
母親は気を病んで倒れてしまった。
家に蓄えはまだある。
けれど、このままじゃ、いずれ食い潰すのは間違いない。
だから、俺は働かなきゃならない。
ミシアの言うこともわかる。
けど、俺はやらなきゃならない。
「子供のままじゃ、いられないさ」
「そっか。無理すんなよ」
その仕方ないなあ、という笑顔を俺は忘れない。
かきあげた髪、その白い指、そして腕には金の腕輪。
それが柔らかな陽光に煌めいている。
ぼやける景色に重なる次の記憶は、夏の夜だ。
「こんな夜に呼び出して、どうしたの?」
ミシアの髪が伸びているのに気付く。
戸惑った顔。
そういえば、俺から呼び出したことは無かったかもしれない。
「今日は、その非番でさ」
そんなこと聞いてるんじゃないんだよなあ、と言いたげな顔。
あの日の俺は気付けなかった。
「だからなに?……用がないなら帰るよ」
振り返りかけたミシアを、引き留めたくて声をかける。
考えていた言おうと思っていたことが、頭の中でぐちゃぐちゃになって、弾けた。
「二人でなら暮らせるくらいの給料がある!」
こちらを向いたミシアはポカンとした。
「え?は?なに?」
「あ、その、あのな」
「え?もしかして、今のプロポーズ?」
「いや、違う……いやいや、違わないけど」
「もっと、こうなんかあれだよ?こんな夜にふさわしい言葉とかあるよね?」
「ホントは!もっと、考えてたんだよ。もっとかっこよく言おうと思ってたんだ」
「わかるわかる。ゼルって、そういうとこ、あるよね」
「そういうとこって、どういうことだ?」
「色々考えて、結局本番でトチる」
「うぐ」
「私じゃなかったら、意味わかんなくなって帰るよ?」
「私じゃなかったら?」
「ほらほら、ちゃんと伝えてよ。言葉にしないと伝わらないこと、あるよ」
ミシアは待ってくれている。
俺はゆっくりと落ち着いて、言うべきことを口にする。
「俺はミシアが好きだ。一生、俺の側にいてくれ」
心臓が破裂しそうだ。
答えが返るまでの数秒が、永遠にも感じられる。
彼女の金の腕輪が月光を反射した。
「私は」
その答えの途中で。
バリバリと世界は砕けた。
夜は無数の黒い欠片へと割れ砕け散った。
月光は鋭い光の筋となって散乱し、大地は紙に描かれた絵を破るようにビリビリと裂かれていく。
手を伸ばす。
彼女が消えてしまわぬように。
けれど。
けれど、手は届かず。
彼女もまた“変貌”に呑まれた。
目の前の景色は全て消えて、俺は虚空に流されていく。
抗えぬ激流の真っ只中に放り込まれたように。
遠くから何かがやってくるような気配を感じて、俺の意識は消えた。
飛び起きた。
心臓がまだ破裂しそうな鼓動を打っている。
寝ていた、のか?
「ミシア……?」
見覚えのない部屋。
すすけた天井。
ボロキレのような布団。
硬い寝台に腰かけて、何が起きたか思い出す。
だが、何もわからない。
外へ出る。
そこにあったのは知らない景色だ。
荒廃した土地に、今にも消えそうな寒村。
ここにあったはずの大都市は無くなっていた。
「なんだ、なんなんだよ、これ」
遠くの山々の形だけが見覚えのあるものだ。
位置関係を考えれば、ここにあったはずだ。
よろよろ、と歩きだす。
さまようように歩き続け、俺は見つけた。
『ミシア・ガッジール、ここに眠る』
そう刻まれた墓石を。
刻まれた日付は、もう十何年も前のものだ。
ミシアは、もう十何年も前に死んでいる、ことになっていた。
同姓同名の別人のことかもしれない、とも思った。
けれど、墓石に備えられた錆び付いた金の腕輪は、見間違えることができない。
喉の痛み。
そして、自分が絶叫していることに気付いた。
俺は泣かないんだ。
大人だから。
流れる涙は、絶望から。
世界が“変貌”したと知ったのは、それから一年後だ。
オリエンヌは俺にそう教えてくれた。
だから、俺は必死になった。
世界を元に糺すために。
彼女を、ミシアを取り戻すために。
そのために、仲間を裏切って、たくさん人を殺した。
そして、俺自身が死んだ。
いつの間にか、記憶の再確認は終わっていた。
再び、俺の意識は夢のようなふわふわとしたところに漂っていた。
あるいは走馬灯のようなものだったのかもしれない。
漂いながら、俺は泣いていた。
何も成せなかったことに、信じてくれた人たちを傷つけたことに、勝てなかったことに。
彼女に再会できなかったことに。
涙を流す。
「また、泣いてる」
声。
幻聴かと思った。
「ゼル。ようやく見つけた」
「ミシア……?」
もやもやとした空間の、視線の先に彼女がいた。
あの夜のままに。
「ずっと一緒にいてほしいって、言ったのは君だよ」
「俺は、君を取り戻したくて」
「わかってる。一緒にいたから。ほら」
と彼女は俺の方に歩いてくる。
その気配を、俺は知っていた。
「“破壊”……の能力……?」
「そういうこと」
能力は、本人の記憶、経験、思い出から導きだされる。
だから、それは能力の持ち主の魂そのもの。
俺の能力、いや、俺が使っていたのは“破壊”の魂?
「ずっと一緒にいてくれたのか」
「言えなかった答えを、言うよ」
ミシアは笑った。
「私も君が大好き。ありがとう。ずっと一緒だよ」
俺は手を伸ばした。
その手は彼女の手に触れた。
俺は彼女をたぐり寄せて、強く抱き締めた。
「もう離さない」
「うん。今度こそ一緒。いこう」
幼いあの日の帰り道のように、俺たちは手を繋いで歩きだした。




