323.極光夜のはじまり、そして俺はどこかへ
ギアの魔王としての一日の終わりは、執務室に貯まった書類のうち、余裕があるものだけが残った状態のことを言う。
具体的には吸血鬼であり、夜にその本分を発揮する“宵の丞相”ツェルゲートがそろそろ休んでいいぞ、と言うまでた。
丞相府、という魔王軍の実質的中枢は二人の丞相によって昼夜問わずに活動しているが、魔王は一人だ。
もう一人、魔王がいればなー、と埒もないことを考えながら俺は仕事場を後にする。
夜更けの魔王軍本営は静まり返っていて、人気はない……こともない。
魔界にはもともと夜行性の種族は多いから、夜に活動する者もかなりいる。
それに今は、人間界からの客人も多く、その護衛が夜を徹して見張りをしている、という事情もある。
要するに魔王軍は眠らない、のだ。
ただし、魔王軍の頂点。
魔王たるギアは生物なので、いくら我慢強くても限界はある。
目を閉じればいつでも眠れる状態になっており、魔王の居館である御座所をふらふらと移動していた。
「眠たい時の対処法は寝ることである」
とかいう、阿呆なことを口走りながら歩く。
こういう役に立たない言葉でも、なにか適当に喋っていれば眠らずにすむ。
ここ数年の目まぐるしい変転を思い起こしながら、俺は歩いている。
少年時代はさておき、魔王軍に入ってからは幾度かの戦はあれど、どれも小競り合い。
あとは長い訓練でそれほど変化が無かったように思える。
だいたい俺が入軍したあたりには獣人や巨人との大戦はすでに終わっており、巨人軍のいざこざとか妖鬼の反乱騒ぎくらいで大きな戦は起こらなかった。
そこに人間界侵攻である。
魔王トールズ様の号令のもと、八種族の魔王軍は人間界へ襲いかかった。
魔人主体の暗黒騎士団によるニブラス侵攻を皮切りに、七つの方面に同時侵攻したことで人間たちはうまく連携がとれずに苦戦を強いられていた。
ギリアなどいくつかの国は滅び、リオニアなどの大国でも防衛の限界に達しつつあった。
状況が変わったのは勇者の出現からである。
勇者の助力を得た複数の国で反撃が開始され、魔王軍の各軍団の司令官である魔将たちは魔王城ネガパレスへと撤退した。
なかには軍団を置いてきぼりに単身で逃げたものもいた。
そして、勇者一行は魔王の領地となった旧ニブラスへ潜入、防衛していた魔将たちを倒し、ついに魔王トールズを討ち取ったのだった。
俺も暗黒騎士として、防衛戦に参加した。
勇者一行とも遭遇し、戦ったが結局退けることはできなかった。
翌朝、魔王を討ち取られた魔王軍は魔界への撤退を決断。
敵討ち、という声もあったが魔将全員に、宰相、魔王まで倒されて徹底抗戦もなにもなかった。
魔王軍は逃げ帰ったのだ。
その後、魔王軍は権威も調停能力も失い、魔界での存在感を失くしてしまった。
そして、俺は魔王軍から離れた。
一人の旅人、冒険者として人間の世界を知りたくなったのだ。
それから、たくさんの出会いと別れがあった。
たくさんの戦いがあり、俺はなんとか生き残り、ここに戻ってきた。
暗黒騎士ではなく、魔王として。
冒険者は楽しかった。
良い仲間、尊敬できる友人、強敵、最愛の人。
人間界の大陸を北へ南へ動き回り、時には捕まり、時には命を賭けて戦った。
その日々も終わりだ。
魔王となった俺は、魔界を治め、発展させなければならない。
各種族との同盟を強固にし、新たな都を築き、人間たちと協調関係を紡いでいくのだ。
それは歴代のどの魔王も成し遂げることができなかったことだ。
リヴィエールも俺の側にいてくれる。
ほんの少しだけ、心残りがある。
戦い。
冒険。
旅。
そんなようなものだ。
「ギアさん」
「ただいま、リヴィ」
御座所内の執務室から自室への移動だから、正式にはただいま、という挨拶はおかしいかもしれない。
ただまあ、プライベートな空間に戻ったという意味では、ただいま、であってるのだろう。
リヴィは結婚式を控えて一層美しくなったように見える。
俺が仕事で拘束されているが、人間界から訪問してきた友人たちや仲間たちと楽しく過ごしているらしい。
冬季休暇の宿題も目処がたったようだ。
「エリザベーシアさんが夜食を作ってくれましたよ」
吸血鬼の渇きの女王でありながら、魔王の後宮の管理人を兼任するエリザベーシア。
彼女の考えはいまいちわからない。
魔王軍に貢献することで吸血鬼の地位を上げたいのかもしれないし、反乱を起こした兄の無念を晴らそうとしているのかもしれない。
陶磁の人形のような顔からは、その表情は読み取り辛かった。
なぜか、リヴィとの関係は悪くないらしい。
「おう、夕飯は食べたんだけどな」
リオニア王グルマフカラとの晩餐である。
招待客であり、対外的には俺の縁戚である。
サラマンディア家にはロクな記録は残っていなかったが、俺の腹違いの兄弟たちから話を聞くことができた。
父親、アグネリード・サラマンディアには複数の妻妾がいて、それぞれに子があった。
当主である兄と俺の他はサラマンディア家から離れて独立しているか、旧サラマンディア軍、今の業火軍団に所属している。
彼らの中には、俺の母親を覚えている者もいて、その本名を知っている者もいた。
エファス・マークカリス・リオン。
その名前のパターンは知っていた。
名・マークなんとか・リオン姓。
リオニア王族の名前だ。
「正直に言うと百年以上前の、それも若くして失踪した女性の記録などなくてね」
とグルマフカラ王は言っていた。
「だが、君と縁がある、というのは正直なところ心強い」
「本家の名に泥を塗らないようにしたいものです」
「それなら問題ない。私自身がすでに泥まみれにした」
「確かに」
首都を捨て、国民を見捨てた王。
それがリオニアスの民がイメージするグルマフカラの姿だ。
それが払拭されるにはまだまだ長い時間が必要だろう。
ともあれ、いわば親戚の伯父さんとでもいう立場のグルマフカラ王と楽しい会話の弾む晩餐は終わった。
かなりの疲労を残して。
その後も執務室で仕事の残りである。
空腹がそろそろうごめき始める頃合いだった。
「キャロラインさんのお父様でしたっけ?」
「そうそう。まさかあの人と親戚だったなんてなあ」
「学校の友達と親戚になるとは思わなかったです」
「確かになあ」
ギアとグルマフカラが縁戚なら当然、ギアの妻であるリヴィとグルマフカラの娘であるキャロラインも親戚ではある。
「あ」
とリヴィは何かに反応した。
「どうした?」
「来た」
「何がだ?」
部屋の外に訪問者の気配はない。
侵入者も、暗殺者もだ。
どこかの国の暗部の諜報員などが忍び込んでいるのはわかるが、敵対はしていないため見逃していた。
それ以外の何か、か。
リヴィは窓際に歩みより、夜空を見上げた。
「ギアさん。必ずまた会いましょうね」
「どういう意味、だ」
リヴィのいる窓際がうにゃうにゃと歪んでいた。
そして青緑に輝く極光が彼女の周りを覆っていた。
リヴィはその中で、哀しげに微笑んでいる。
「リヴィ!」
「わたしにもどうすればいいか、わからなかったの」
「俺がなんとかする」
「うん」
「絶対に助ける」
「待ってる!」
極光がより集まり、俺の方へ向かってきた。
真っ青な閃光が弾け、俺はこの世界からも弾き出された。
リヴィの周囲の空間はゆっくりと変化していく。
空には青緑の極光がたなびき。
街路には小鬼の群れが闊歩し、鷲獅子や亜竜が宙を舞う。
そうして、極光の夜は始まった。
リヴィは哀しげな表情のまま、目を閉じた。




