315.極光夜13
キャロラインの方を暗黒騎士が向いた時、ゆっくりと這いながらニコはシフォスに近付いた。
「まだ、生きてますよね?」
呼吸があるのは確認している。
シフォスはまだ生きている、はずだ。
「……ああ」
「キャロルちゃん、がんばってますよ」
「……そう、だな」
「守るって言ったんじゃないんですか?」
「俺は……怖い」
「私だって怖いですよ。まだ食べてない料理もあるし、店だって途中です。この世界でまだ何かを成したとはとても言えない。だから死にたくないって言うのはわかります」
でも、約束は約束じゃないですか、とニコは言った。
「約束、か」
そういえば、アグネリードとエファスとの約束を果たしていないことを思い出す。
俺は、約束しても守れない、か。
「今から守ればいいんです」
俺たちの子を頼む、と言ったアグネリードの顔がちらつく。
私はこの世界に来て良かった、と言ったエファスの顔もそれに重なる。
エファスの顔とキャロラインの顔が交互に浮かぶ。
約束を、そうか。
今から守れば。
「娘……料理人だそうだな?」
それは、さっきまでの弱々しい声とは違っていた。
「え?ええ、はい」
「これが終わったら何か旨いものが喰いたい」
「はい。美味しいもの作ります」
「それと、その刀を貸せ。俺の方がうまく使える」
「返してくださいね」
「無論だ」
ニコから“関の孫六”を受け取り、シフォスはゆっくりと立ち上がった。
そして、いまだ会話を続けるキャロラインと暗黒騎士の方へと歩き出す。
「滅ぼさせなんかしません」
「否、極光が朱に染まり、地に降りてきた今。もはや滅びは避け得ぬ」
「だって、だってリヴィエールちゃんが結婚するんですよ。幸せになるところなんです」
「全てが無に帰せば、幸せだとか不幸だとかは無くなる。全てが平等になる」
「全てが平等とか、公平だとか糞食らえだ」
シフォスはキャロラインと暗黒騎士の間に入り込みながらそう言った。
「恐怖に屈した剣魔よ。貴様の出番は終わった。下がれ」
「くくく。名も無き暗黒騎士よ。貴様に下がれと言われて下がる俺ではない」
「シフォスさん……大丈夫ですか?」
「娘。こやつは所詮は影。こやつ自身はこの世界を守り、そして全てを滅ぼすことしか考えておらぬ。説得など無駄だ」
「それは、でも、わかりません。言葉が通じるならわかりあえるかもしれないじゃないですか」
「甘い。……が、真っ当な意見だ。お前はそれを大事にしろ。こやつのような話の通じぬやからは、俺の相手だ」
「闇氷咲一刀流“血痕雹雨”」
早氷咲一刀流の神速抜刀術のうち、縦に斬りかかる技を“雹雨”と言う。
シフォスが魔力を用いることで改良された闇氷咲一刀流において、それは斬られる感触より先に血が吹き出るほどの速度として評された。
だが、この一刀は空を切った。
「やはりな」
「む?」
手応えが無いことに暗黒騎士が不審を感じる。
ゆえにさらに剣を振る。
「血露氷柱斬」
同じく抜刀術の横へ斬る技、氷柱斬。
その魔力強化である技も、空を斬った。
「ふう。無駄だ無駄だ。俺には当たらん。なぜなら、お前の抜刀術は未完成だからな」
「なんだと?」
神速の抜刀術がことごとく回避されていく。
暗黒騎士はついに、鞘を捨てた。
もう抜刀術は使わない、という宣言だ。
「お前があれの複製であるなら、仕方の無いことなのだがな」
「どういうことだ?」
抜き身の大太刀を中段に構え、暗黒騎士は問う。
「どのような攻撃にも移行でき、また守りにも素早く移れる構えか。良い子だ」
シフォスはタンとステップを踏み暗黒騎士の背後に回り、その背にトンと刃を突きつけた。
その感触に反射的に暗黒騎士が背後を斬りつける、がそのころにはシフォスは元の間合いに戻っている。
「貴様!」
「もともとギアにはな、早氷咲一刀流はちゃんと教えておらぬのよ」
「なに?」
「あれに教えたのは対抜刀術。神速の、普通の防御では追い付かない攻撃に対抗するために、な」
「ゆえに、私の抜刀術が貴様には通じぬ、と?」
「そのとおりだ。だが、抜刀術も、剣の構え方も、攻撃、防御、受け流しも、皆俺が教えたのだ」
「だが、貴様は負けた。負けて恐怖を覚えた」
「それの何が悪い。まあ俺も怖い怖いと言って、ろくに戦えなかったのは悪いとは思っておる。しかしな、戦いに恐怖が無ければつまらん、ということにも気付いてな」
いつからだろう。
戦いの中で恐怖を感じなくなったのは。
剣術を極めたと慢心した時か。
相手の動きが見切れるようになった時か。
それとも、己の流派を作りはじめた時か。
わからない。
わからないが、シフォスは長い間、戦いの恐怖を忘れていた。
剣を習いはじめた時の、未知の恐怖を、死の恐怖を、忘れていた。
弟子に負けてようやく、それを思いだし、そして半月ほど咀嚼して、今ようやく己のものとしたのだ。
「そうか、ならば私も本気でやらねばならぬな」
暗黒騎士は面頬を外した。
本来顔があるべき場所は暗黒となっている。
まさに影の存在なのだ。
やがて、影がそこから溢れだし、暗黒騎士の鎧を侵食していく。
そして、そこには魔王がいた。
物語がイメージする魔の王、そのままの姿だ。
「奴は魔王ではあるが、魔王にはなっておらぬはず。なれば貴様のそれはなんだ?」
「私は、力の主のイメージする最強の暗黒騎士と、最強の魔王の影。我が真の姿は、この暗黒の霊帝なり」
「くくく」
「不憫だな。あまりの恐怖に心が砕けたか」
急に笑いだしたシフォスに暗黒騎士あらため暗黒の霊帝が言った。
「心が砕けた?ハッ!冗談は休み休み言え」
「何を?」
シフォスは落ちていたねじくれた杖を拾い上げた。
それは消え去ったラグレラのものだ。
「やはりこれは、眠りの世界への干渉装置」
本来呼ばれなかったラグレラが、この世界で活動するために深淵の夢の使者から力を与えられた触媒が、この杖だ。
「何を言って……?」
「わからんか?力ある者が使えば、この杖の持ち主はこの世界を支配できる」
「ここは破壊される世界だ。そんなところを支配しても意味はない」
「さて、それはどうかな。“緋雨の具足”」
この世界に微かに残るメリジェーヌの残滓が、その呼び掛けに応えた。
力がシフォスに寄り集まり、鎧の形を作り上げる。
彼女の鱗の色と同じ、深紅の甲冑だ。
「ハッタリだ」
「まあ、そうだな。お前ほどの実力者と相対するのにこの程度の硬さでは話にならん……だから、これだ」
シフォスは“関の孫六”を抜いた。
「武器一つで?」
「ただの武器ならなんともならんが、この刀は特別あつらえゆえにな」
関の孫六は、元勇者で、神になったハヤトが同じように地球からここにきたニコが死なないように、自身の力を分け与えたものだ。
つまり、この刀は勇者の力を持っている、と言える。
シフォスが笑ったのはそこだった。
この俺が勇者の力を手にして、相手は魔王だと?
笑わずにはいられないではないか。
「これ以上、戯れ言に付き合ってられない」
暗黒の霊帝は大太刀を構えた。
そして斬りかかる。
対するシフォスは、まるで電光のように反応した。
高速で、接近してきた霊帝をいなして、転ばせた。
派手に床に突っ込んだ霊帝は呻き声をあげつつ立ち上がった。
「勇者の力とは規格外のものよ」
「おのれ、おのれ!」
「それに一つ伝えるのを忘れていたのだが」
シフォスは口を三日月のように開いた。
「忘れていた……?」
「俺が恐怖したのはギアであって、その姿形を捨てたお前など、何も怖くない」
暗黒の霊帝は沈黙で応えた。
「……」
「返す言葉のパターンが少ないのか、なんとも思っていないのか。まあ、いい。そろそろケリをつけよう」
シフォスはそう言って笑った。




