遺書を書く前に…
ベランダでタバコを吹かすのはマナー違反らしい。
「じゃあ何処で吸えと?」
永子はベランダでタバコ片手にジッポをいじりながら毒づいた。
肩身の狭い思いをしてまで吸わなくてもって言葉は、自分が同じ立場じゃないから言えるのだ。何でもお見通しって顔で言われたくない。
むしゃくしゃモヤモヤする気持ちを持て余し、ベランダの柵に仰け反るように寄りかかったまま煙を吐き出した。
「ふうっ…う?」
吐き出した煙が隣のベランダに漂うのを何気に目で追っていた永子は……その先に展開している光景に、さっきまでの罵詈雑言は消え去り、頭の中がが真っ白になった。
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家族向けの3LDKに単身で住む 永子の隣家は同じく3LDKで、当然のようにそれに見合った家族世帯が住んでいる。羨ましいかと訊かれれば、そりゃあもちろん羨ましいに決まっている。「そんな分かりきった事を訊くんじゃねぇ」と、男らしくーー念の為言っておくが永子はアラサー女子ーー怒り出すに違いないくらいには。
そもそも、家族向け間取りに単身で住んでいるのは大声で触れ回りたくない理由があった。長々グチグチと語りたい、語り明かしたいが、それだと負け組の言い訳にしか聞こえないから言いたくない…自分からは。
自分でも可愛くないと分かっている、それでも、それが 永子という人間なのだ。それを否定する事は、例え自分自身でも違うと思う。思いたい。思っても許されるはず…許されるよね? ちょっと弱気になってきた、やばい。
誰かに認めて欲しかった。こんな自分を彼は分かってくれていると思っていた。付き合って何年? 入社時の同期、よく考えたら…今になってよくよく思い返してみると「付き合おう」の言葉があったかあやふやだけど、当然のように、その先には結婚が有ると思っていた。
「なんかアレなの? 私ってイタ女だったワケ?」
いやいや、彼だって 永子が結婚を視野に入れていた事は分かっていた筈だ。何度か繰り返された会話「いずれ(私たち)結婚したら…」「そうだないつか(他に都合の良いのがいなきゃお前と)結婚したら…」
「思い返してやっと副音声が再現されるってどうなの」
簡潔に言えば捨てられたのだ。可愛いと噂の若い派遣女子が現れた途端、まるで使い古した洗濯機を、もっと自分に都合のいい最新モデルが出たからと買い換えるように、あっさりすげ替えられた。
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聞くところによると ーーご近所の井戸端会議を盗み聞いたところによると、隣は何処ぞの御曹司一族の三男坊一家らしい。ぽやぽやした両親、売れっ子の画家の父親と「コンビニって話には聞いた事有りますけど」と発言したと言う 箱入りな母親。自ずとしっかり者に育った兄弟は、T大学に現役合格した長男。同じくT大合格確実視されている次男。紅一点の末っ子長女は文武両道で、某有名校から推薦の話が来ているとか?
なんかムカつく…理不尽なのは分かってる、八つ当たりってやつだというのも分かっている。けれどもそんなこんなで、行き場のない不満や怒りが、見ず知らずの ーーー 噂でしか知らない隣人に、見ず知らずだからこそ遠慮なく、行き場なく溢れ出した悪意をまるっと、その隣人に向けるのは当然の成り行きだと思う。
実際何をする訳でもないのだから、悪意を向けるくらいオッケーでしょ。オッケーだよねと… 永子は思っていた。さっきまでは。
「う? ぅえ…いや、え、ちょっと、なにそれ?」
隣家のベランダで、手摺に足を掛けている青年を見るまでは。
「ちょっと、ちょっと待って、まて、待って待ってよ、待って待って待て待て待て待って待て…落ち着けわたし!」
隣との仕切り間際にあった腕を咄嗟に掴んだは良いものの、ここからどうすれば良いのか分からない。どう考えても、このまま飛び降りられたら支え切る自信なんか全く無い!
既に片足が柵の外、もう片足が室外機に乗っている青年は、体を傾げただけで落ちそうな状態で停止している。
「どうしてこうなった!」
永子がこの日この時間に家に居て、更にベランダに出て隣りに目を向けるなんて、それも手が届いてしまったなんて…ある種の奇跡?
「おねぇさん? 手を離して下さい、危ないですから」
心底困った顔が 永子を、見つめ返してくる。その体が今にもグラッと…。
「ひっ」
想像しただけで 永子は硬直して動けなくなっていた。力なく青年の腕を掴んだまま、離すことも引っ張る事も出来ない。
「おねぇさん? 大丈夫ですか?」
困った顔が心配そうな顔に変わる。ガクブルで涙目になっていく 永子を尻目に、青年はベランダの向こうを名残惜しげに一瞥すると、ふわりと柵を乗り越え…。
「ひぃい! …いぃ?」
柵を乗り越えて隣のベランダ、つまり 永子の部屋側のベランダに降り立った。
「大丈夫ですか? おねぇさん」
「あ、あぅあ、な、い、いま、なにゅにょしょぉおとっ」
この馬鹿を罵倒したいのに、何故か体に力が入らず立ち上がれない上、酔っ払ってもいないのに呂律が回らない。
「大丈夫、じゃないですね…」
「おまぉだだりぇのしぇ」
罵倒しようとするも思うように喋れない 永子が一旦口をつぐんだ瞬間、ふわりと青年が彼女の体に覆いかぶさってきた。
「ぐ、ぐげぇ?」
まったく女性らしからぬ呻き声を漏らした 永子は突然青年に軽々と抱き上げられ、咄嗟に彼の体にしがみつく。
「こんな所で座り込んでいたら、風邪をひいてしまいますよ? 申し訳ありませんが非常事と言うことで、部屋に上がらせていただきますね」
「ぅおうがおるぅう?」
所謂、お姫様抱っこと言うものを生まれて初めて体験した 永子は、今はじめて真正面から青年の顔を見つめていた。整った顔立ちに浮かぶ、心配げで包容力ダダ漏れな微笑み。彼女のこの時の思いを一言で表すなら「イケメンってコレなのね」だろう。
混乱していた所に不意打ちを食らった 永子は、重大な事実をスッパリ忘れ去っており、然るのち、その事を思い出したときには最早手遅れだった。
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「ナニコノ急展開?」
数時間後の場所はリビング、ソファベッドの上。裸族でもないのに裸で横たわる 永子、傍らには半裸のイケメン年齢名前不ーーおい待てコラ的な。
「何が…ドウシテ…」
混乱したまま身を起こし、記憶を手繰り寄せた。
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何が何だか分からないまま姫抱きされダイニングのソファベッドに直行。
「ごめんなさい、おねぇさん…素足でベランダを歩いたので床が汚れてしまいました」
「いゃうぉえ? あ?」
お姫様抱っこからの、そっとソファベッド着地からの、癒しオーラ微笑全開からの、混乱錯乱からの、つまり、あの時の 永子はまな板の上の鯉状態。
「だ、だ大丈夫、だだ大丈夫、わたわたワタしはダイジョウブぶふだだから」ーーいや待て、私、全然まったく大丈夫じゃなかったって! 後で冷静に思い返せば…何故あんなにも慌てふためき、大人気ない対応しか出来なかったのか?
あまりにも混乱していたから、としか言い訳の仕様がない。だから。
「大丈夫だからキミは帰…あ…」
あ…ってナニあって! どうして忘れてた! どうやったら忘れられてた!
ごめん、それは多分ナカッタコトニしたかったなテキナ…脳が現実から逃走した結果だと推測…。
「カエ? …帰」
眼前の癒しイケメン顔が一瞬で表情を無くし、 永子は顔面蒼白になった。
「そうですね、おねぇさんもう大丈夫みたいですし」
表情のかき消えた顔は…そう、初めて彼に会った時のベランダから身を乗り出していた、 永子が腕に縋り付くまで浮かべていたあの顔、あの顔がベランダの方へ視線を向け…。
「ひっ」
「?」
悲鳴をあげた 永子を彼の瞳が捉える。表情に大きな変化は無いが突然の声に多少驚いている? ーー何か、何かコイツの気を晒さないと! じゃないと、コイツはコイツが!ーー 暑く無くても汗はかくんだね、と、後々思い返す事になるが、それは後日の事。
混乱した 永子を彼が再び心配するように見つめ返したから、だから永子は今度こそギュッとしがみついた。
「いかないで、ここにいて、おねが…」
「…おねぇさん?」
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ーー繰り返すが…ナニがドウシテこうなったのかなんて、それは今だから言えるのだ、誰か、誰でもいいから文句のある奴はあの瞬間に立ち会ってから言ってクレである。あの事態がもっと上手く収集出来るなら喜んでそのとうりにシテヤル! 今更だが。
永子は、あの時の混乱ぶりに頭を掻き毟りたく…いや実際に髪を掻きむしった。
「ん?」
広くもないソファベッドの上に2人…動転する 永子に向ける余裕な微笑ーー何このキラキラなイケメンは! ナニコノ余裕ある漢の顔は!ーー 脳内で繰り広げられる本能と理性の小競り合いを、根性とプライドでなんとか押さえつけた永子は状況を打開すべく口を開いた。
「エート、あの、その、今更だけども、君は、隣の…?」
如何せん大人の威厳とは程遠く、絞り出した声も態度も自ずと低姿勢になってしまう。
「隆史です、加賀隆史」
「加賀…君、隣の…」
「隆史でお願いします。ファミリーネームだと家族と混同しますので」
「たか、し君…ええと」
「いえ、隆史でお願いします。自分はおねぇさんより年下ですから、敬語も不要です」
その言葉にホッとする。ダンナじゃなかった取り敢えずセー…あれ?
「…長男の?」
「いえ、自分は次男です」
「…因みに歳は」
「5月で16歳になりました」
じゅうろく(・◇・) ーー 永子活動停止…しばらくお待ちください。
「コレって幼児虐待? 児童虐待? え? 5月に16って高1? 児童福祉法ドウナッテルっけ? 強制わいせつ? え? え? ワタシ捕ま…ツカマ…ひぃ!」
「おねぇさん?」
「落ち、落ちつ、ラレられるれれる」
ーー16歳って少年枠!…:(;゛゜'ω゜'):ガクブル
永子未だ活動不能しばらくお待ち下さい。
ベランダでタバコ吸ってたら、飛び降りそうなヤツを身体を張って食い止める羽目に。はい、イマココですよ 永子さん頑張って下さいね。
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呆然としたまま、ベランダから見える空が闇色に陰って行くのを横目に…んんん? 今、何時?
「ちょ、マジ今何時!」
視界に入ったた時計に永子は黄昏ている場合じゃない事を思い出した。まあ最初から本来の違う理由で黄昏ていたのだが。
「服! 服どこ!」
「おねぇさん?」
「あなたも早く! 服!」
さっきまで胸元を隠すように掴んでいたシーツをポイってと投げ捨て、近場のダンボールを次々物色した中から適当な衣類を見つけると、吟味する事なく着込む。
「ああ! もぉ! 勝負服でガッツリの予定が!」
「予定…出かける予定だったんですね、ごめんなさい、おねぇさん」
隆史も 永子に習って足元に落ちていた服を掴んだ。
「違う、出かけるんじゃなくて…」
ガチャっガチャっーーキィー
唐突に 永子の声に被せるように、玄関ドアの開閉音の後、挨拶もなく侵入してくる話し声。
「あらっステキな絵ねぇ、貴方が選んだの?」
「え? あ、あぁそれは…」
バン! 響くのは玄関とリビングを隔てていた扉。
「ちょっと! なんであんたがココの鍵持ってんの! あと! その絵は私の!」
頭に血の登った 永子は、現状の事などすっかり忘れてドアを開け放った。目の前には元彼と、それにしなだれかかる女。
「あんたら何の権限があって勝手に私の家に上がり込んでる訳? 信じらんない! ここは私のお金で買った私名義の家よ! 鍵! 返しなさい! ほら! なに…え?」
文字通り目を丸くした侵入者の目線が、自分をすり抜けた後方に有るのに気づいた 永子は「……」そのまま無言で扉を閉めると、恐々と背後を振り返る。そこには、夕日に染まる室内のソファベッドで、辛うじて下半身をシーツに包んだ隆史が困り顔で座っていた。
「えーと、ごめんなさい、おねぇさん」
どう見ても事後です! な、色気増し増し妖艶な姿に頭を抱え、思わず声が漏れる「おうふ」。救いと言えば、自分だけでもキチンと着込んでいるところだろうか? ーーいやそれもどうよ? これじゃ若いツバメを弄ぶババァじゃないの?ーー
「……とにかく、とりあえず、服を」
盛大にため息ーーとりあえず…と 永子は精一杯にっこりと微笑んだ。彼を落ち着かせる為に、自分が冷静になる為に。
「服を着てくれるかな? 隆史く…えーと、隆史服を着て、出来るだけ早く」
戸惑いつつ口慣れない名称で言い直したのは、その瞳にちゃんと自分が写っていたから。もうあのなにも写さない無表情な彼ではなかったら。
隆史が彼女の呼びかけに目を見開き、花が綻ぶように微笑むのを目にした 永子は、自分では気づいていなかった。自分こそ屈託無く笑えている事に。
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それからの端末、この年の離れた夫婦の出会いについては、各方面で後々語り継がれる事になる。
後に、夫を残して逝った 永子が、娘に遺した手紙にはただ一言「パパの事をお願い」とだけ記されていた。
それがどんな想いで書かれた一言なのか…彼はわかってくれるだろうか?