雨降って飛び立つ
ハリスは目を疑った。
「軍医長、水が、水が車列の中央から飛び出しています!」
「何ということだ……これは災厄なのか、奇跡なのか。まるで分からない。」
降り注ぐ水しぶきに濡れながら、軍医長は呟いた。
噴出する水の波は、荷馬車をおもちゃにように軽く押し流す。
押し寄せる透明の濁流は、まさに自然の猛威!
「衝撃に備えろおおお!」
その誰かの叫びは、うねり狂う水の流れにかき消された。
ハリスと軍医長、ケブルは王子に覆い被さって襲いかかる衝撃から、対象を庇う。
しかして叩きつける衝撃は無音だった。
ゴウンと水中に飲み込まれた人と馬は、一様にして空気を求めて足掻く。
必死に腕と足を働かせて向かうその先は水面。
一方の王子護衛の一行は、ただひたすら息を止めて目を瞑りながら、水が流れ去るまで耐える。
ぶくぶく泡が口から漏れながらも、彼らの忠誠心は王子が荷馬車から流されないよう支えて離さない。
「うおわあああ!恨むぞネプチューン、ぶくぶくぶくぶく……」
一人見知った奴が、沈んでいくが気にしない気にしない。
果たして、波が去った時、一面はぐちゃぐちゃの泥で、人馬はもろとも濡れ鼠だった。
黒パンは持ち前の硬度を発揮して、一切湿らず無事である。
「俺たち、こんな硬いパン食ってたのか……」
「これ作った奴はどうかしてるぜ。石みたいな硬さだ。」
食料の状態を確認していた兵站の人間が言う。
ハリスは、濡れた髪を犬のようにブルブル震わせて、水を飛び散らす。
その水しぶきを受けた軍医長は嫌な顔をするが、手短にそれを服の裾で拭うだけで済ませた。
対照的に、ケブルはいち早く王子の脈を測って様子を確認している。
「良かった……ショックで死んでいるかと。」
「さすがにそこまで殿下は弱っておりません、ケブル卿。とりあえず濡れた服を剥ぎましょう。これは、もはや何の意味も為さず体力を奪うだけです。」
いささかオーバーなリアクションをするケブルに、軍医長は手早く指示を出す。
それを耳にして、ハリスは上着をさっさと脱いで、そこらに放った。
他の荷馬車でも軍医が体温を奪われないよう、服を脱げ、との指示が出る。
中には、湿って冷たい下着がこりゃたまらんと、裸になる兵士まで出てくる。
「ふん。中々の肉体美だろ。腹筋も割れているぞ。」
「俺の太ももはどうだ。引き締まって血管が浮き出ている。ふはは。」
「そんなことより下着を着ろよ。お前らそれでも近衛兵かよ……」
お互いの筋肉を自慢しあう不特定多数の人間。
しかも裸。
数少ない常識人である一人の兵士は困惑に、頭を悩ませた。
だがしかし、凍りつくように肌寒い北の大地で甚だしく無謀である。
寒さを紛らわすために集まって、おしくらまんじゅうの様相を近衛兵たちが呈したとき、事態は動いた。
「お、俺の腹の傷が治っているじゃないか!?」
「今の私は傷ひとつない。肌は生まれたての赤ん坊だ!眉間の古傷が治った!」
「目を覚ましたら失ったはずの左腕が生えていた。嘘じゃない。こいつは幻影とか妄想とかチャチなもんじゃねえ。もっと神業的な奇跡か何かだぜえ……」
重傷で寝たきりだった負傷兵たちが動き出し、昔の傷跡に悩まされていた古参兵が歓声を上げ、肌荒れに悩まされていた新兵が怒声を上げて狂喜する。
あの水に触れた者は、尽くが癒されていた。
「お、花が咲いていますよ。草も生えてきました。俺、夢でも見ているんですかね。」
「あの噴水の効能だろう。誰がやったのかは知らないが、感謝せねばならない。」
神秘的な光景に、彼らは魅せられていた。
凍土の壁を突き破って、野の花は顔を覗かせる。
それは、まるで苦境に負けるなと近衛兵団を応援しているようで、不思議とケブルは励まされた。
また、興味深い事象に軍医長は学術的な好奇心を抱き、あの花を解剖してみたいと考えた。
ハリスは、それを口に出した軍医長をジト目で見た。
薄暗い夕暮れの中、兵士たちは希望を見出し、より一層士気を高める。
有り余った元気を、彼らは国家を斉唱することで発散するのだった。
だが、それは王国の第一王子、ジュース・ユリテールを呼び覚ますことはなかった。
次回は遅れそうです。




