誘いの渓谷-異常事態を引き起こした者の影
誘いの峡谷と呼ばれるそこは、Aランク以上の冒険者でなければ入ることの出来ない高難易度ダンジョンの一つだ。
固有種はレッドドラゴンを始めとした竜種、凶暴な鬼であるオーガ、猛毒を持つベノムスネーク。
そのどれもがAランクの魔物であり、一歩間違えれば死に直結する危険な魔物である。
だが同時に、深い峡谷ではあるが見通しはいいダンジョンだ。
入り口から出口まで、一日もあれば抜けられる。
棲息している魔物さえどうにか出来るのなら、難易度はそこまで高くない、と言われている。
――けれども今日は、やけに霧が濃い。
「なんだよ、なんだよ、あれは!?」
冒険者のルイス・アゴリーは右肩を抑えながら逃げていた。
視界は霧に閉ざされている。一メートル先も見えない濃霧は、誘いの峡谷の難易度を跳ね上げていた。
ルイスは泣き叫びながら、必死に地面を蹴る。
彼はSランクの冒険者であり、その実力も誰もが認めているベテランの冒険者だ。
魔導国家サンダルフォンにルイス在り、とまで言われるほどの彼が、必死の形相で逃げている。
彼は、商人たちの馬車隊を護衛する、比較的簡単なクエストを受けていた。
誘いの峡谷を通ることによって、サンダルフォンからフラウロスまでの道のりは大分短縮される。
それはつまり、通常より遙かに鮮度の良い品を届けることが出来る、ということだ。
鮮度が良い品はそれだけ高値で売買される。
商人たちにとっても、ルイスに護衛を頼んででも行いたい取引だ。
ルイスにとっては、いつも通りのクエストである。
依頼をした商人も顔なじみで、定期的に依頼をしてくれて、それなりの額を貰える最良のクエストだったのだ。
襲い来る魔物を適当に蹴散らして、予定通りに峡谷を抜ける。
魔物の出現頻度も完全に把握しているルイスからすれば、子供だましと思えるレベルのクエストだ。
けれども今日は、明らかにおかしかった。
やけに濃い霧。慣れてるダンジョンだからこそ、視界を閉ざされてもクエストは完遂できる。そう判断したルイスは、改めてクエストを開始した。
だが、次々に異常が発生する。
いつも現れるポイントで出現してこないオーガ。
角を曲がった所で待ち構えるのが、オーガの常套手段だというのに。
今日はオーガの殺意すら感じない。
レッドドラゴンの足跡すら聞こえない。
足音が聞こえたら物陰に隠れ、虎視眈々と喉元を狙うのが対処法だ。
だがどれほど耳を澄ませても、レッドドラゴンらしき足跡は聞こえてこない。
ましてや鳴き声すらも聞こえてこない。
静かな峡谷は、よりいっそう不気味さを醸し出す。
これなら無事クエストを完遂できるだろうと安堵のため息を吐いた瞬間に、それは発生した。
殺意に気付き、オーガだと判断したルイスはすぐに剣を抜いた。
濃霧の中でも殺意を向けられれば、否が応でも反応できる。
ルイスはすぐさま殺意の方角へ、剣を向けた。
「――なっ」
オーガであれば、今の一突きで絶命する。
レッドドラゴンであれば、何かしらのうめき声が聞こえてくる。
だがそのどちらでもなく――霧の中から姿を現したソレに、ルイスは身体を震わせた。
「逃げろお前ら! 真っ直ぐ進め! 全速力だ!」
ルイスはすぐに商人たちに檄を飛ばし、馬車隊の速度を上げた。
声も聞こえず、手応えも感じず。けれど、姿だけは視認できた。
赤よりも濃い赤い鱗。鋭く映えた黄金の牙。夜の闇よりも濃い漆黒の瞳。
レッドドラゴンだ。
だが、ただのレッドドラゴンではない。
それは希少種に分類される、一際凶悪な魔物であった。
商人たちを逃がしたルイスの判断は正しかった。
悠然と霧の中から姿を現したレッドドラゴンは、剣を向けたルイスしか見ていない。
戦いになれば、巻き込むのは間違いない。
そう、ルイスの判断は正しかった――が、違えていた。
「希少種であろうと問題はない。何度も狩ってきたっ! さあ、お前を討伐して特別手当でも貰おうか!」
希少種のレッドドラゴンはSランクに分類されるが、ルイスはこれまでに何度も討伐に成功してきた実力者だ。
だから油断こそせずに、巨体を見極めて、距離を取ろうとした。
――だが。
「ガアアアァァァァァァァ――ッ!」
そのレッドドラゴンを見極める事に関し、ルイスは違えてしまった。
「な――」
それが、レッドドラゴン希少種である、と決めつけてしまった。
それが、レッドドラゴン希少種に『似ている』だけの魔物だと、気付かなかった。
レッドドラゴン『のように見えた』魔物は、口から炎ではなく、緑色の液体を吐き出した。
本来のレッドドラゴン希少種であれば、炎を吐くために頭を振り上げる動作をする。
それが合図であり、回避行動を行うタイミングでもあった。
だがそのレッドドラゴンもどきは、頭を振り上げることなく、最小限の首の動きだけで液体を吐いたのだ。
不意を突かれたルイスは右腕にモロにその液体を浴びてしまう。
走り抜ける鋭い激痛に、ルイスはその液体の正体に気付いた。
「酸、だと!? ――ぎっ、あ、あぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
悲鳴を上げながら、ルイスは蹲る。酸を浴びたことなど一度もない。
味わったことのない激痛に悶えながら、なんとか正気を保ち、レッドドラゴンを見上げる。
「――ひっ」
だがそこで彼は、怯んでしまった。
有り得ない魔物を、見てしまったから。
これだけ近づいたからこそ見えてしまった、レッドドラゴンもどきの正体を。
気付けばルイスは走り出していた。商人たちはきっと逃げてくれただろう。
だから自分の役目も終わりだと。
こんな魔物と戦えば、無事では済まないと、長年のルイスの経験が、本能が、激しく突き動かした。
幸いなことに、この魔物はルイスを追うことはしなかった。
体躯を守る深紅の鱗。黄金の牙。漆黒の瞳。
その魔物の八割は、レッドドラゴン希少種に間違いない。
けれどもレッドドラゴンは、いくら希少種とはいえ酸を吐くことはない。
そして、尾はヘビの頭であった。口から霧を吐くヘビが、尻尾になっている。
毒を垂らす牙を持つそれは、ベノムスネークに間違いない。
大地を支える後ろ足は、緑色の肌をしていた。
竜の体躯に相応しくない、筋骨隆々な足は、オーガの足に間違いない。
この魔物は――いや、果たして魔物なのか?
レッドドラゴン、オーガ、ベノムスネーク。
三種類の魔物が混ぜ合わされたようなこの魔物は、なんと呼べばいいのだろうか。
「あーあ。逃げられたよ」
魔物の背中に腰掛ける少女がいた。
宵闇のような濃い紫の髪を、右側で一房に纏めた、オッドアイの少女だ。
エメラルドとトパーズのような、闇の中でも強く輝く異色双眸。
褐色の肌と、長く尖った耳。
邪悪に口角を吊り上げて、鋭い牙を露出させる。
「せっかく造ったんだから、誰かこの子と遊んでくれよぅー」
退屈を紛らわすかのように足をぷらぷらと揺らし、少女は愉悦を求めて嗤う。
――これが、誘いの峡谷で起きた異常事態の、裏側である。




