1.
「にゃ〜」
二階建てが隣接した住宅街の塀の上で、一匹の猫が鳴いた。
飼い猫ではないようで、一見綺麗なサビ色の毛並みに見える身体は薄汚れていて近づくとどこか泥臭い。
平民でも、飼い猫をこんな姿にはしていないだろう。歴とした野良だ。
しかし人懐こいのか、忙しなく動く人間たちへ鳴いて自分をアピールする。
それに、道の真ん中で遊んでいる子供たちが反応した。
「あ、猫だあ!」
「お腹すいたのかな? なにかあげる?」
「僕お菓子持ってるよ。ほらおいで〜、あげる!」
ポケットに忍ばせていた菓子を掲げ、塀の下で手招く子供達のもとへ、猫はするすると塀から降りて近づく。短い子供の膝に両脚を乗せて、早くくれとばかりに鳴く。
「やっぱりお腹空いてたんだね、はいどうぞ」
警戒など微塵も表さない猫へ、子供は菓子を手に乗せて差し出した。それをそっと食べる猫。
周りではその様子に可愛い可愛いと子供達が集まり見物をする。
やがて菓子を食べ終えて満足した猫はひとつ鳴いてお礼を告げ、子供達の足に擦り寄った後寝転がった。
さらに好感を持った子供達がさらに近づき、汚れも気にせず好き勝手に撫でるのを、猫は嫌がりもせずゴロゴロと喉を鳴らしてされるがままでいた。
そして子供たちの背後でガシャンッと高い破壊音が発生した。
びっくりした通行人と子供たちはその音の原因を探り、割れた植木鉢が道の真ん中に転がっていることに気づく。そこは子供たちが遊んでいた場所だ。
頭上からの「ごめんなさーい!」という謝罪が遅れて聞こえてくる。
「植木鉢に身体をぶつけて落としてしまったの。下に誰も居なくてよかったわ~」
一番近くにいた子供達へ二階から降りてきたおばちゃんが説明し、周りにも謝罪の言葉を繰り返す。
原因が判明した大半は気をつけるよう笑いながら注意して去っていったが、驚かせたお詫びと言って、おばちゃんは子供達にお菓子を振る舞うべく部屋へと子供達を誘った。喜んでお呼ばれされる子供たち。
猫への興味を失い、バイバイと手を振って離れる子供たちに合わせて、猫もその場から離れた。
塀を登って壁を蹴り、屋根まで上がってからまたコロリと丸まって寝る体勢になった。
そして、人間のようにふう、とため息を吐いた。
「ニャニャ〜、グルルルル。にゃ〜にゃ、にゃふん。ふん…」
猫にしてはおかしい鳴き方で、先程の危険が回避されたことに安堵する猫。それは客観的にいろいろとおかしい。
じつはこの猫、普通ではない。
見た目は野良猫そのものだが、人間としての意識がある。
アンリエッタ・ラズールという娘が、生まれながらに持っている「異能」を使って猫として外を好きに歩き回っているのだ。
日課になっている散歩は、猫の聴覚と身体能力のおかげでよくちょっとしたトラブルを回避するのに役立っている。
ちなみに言葉が発せられないので必然的に喋ろうとすると鳴き声が変になる。さっきの声を人間の言葉にするとこうなる。
:「良かった、離しておいて。あそこのおばちゃんそそっかしいのよね、この前は床にジャム瓶落としてダメにしてたし」
のんびり猫らしく日光浴を楽しんでいたアンリエッタは、上階の窓辺で忙しく動いている中年女性を観察していた。
家族のために掃除洗濯と忙しく立ち回っているなか、窓辺に飾られた鉢植えに何度か知らずにぶつかっているのが見えた。位置がずれていっている鉢植えに不味いんじゃないかと思い、一応子供たちを離すべく鳴いて注意を自分に向けたのだ。お菓子をもらえたのは偶然だが、美味しくいただいた。
案の定またぶつかって支えてくれる場所をなくした鉢植えは落ちた。
あのまま子供たちが同じ場所にいれば、確実に誰かは怪我していたか、当たり所が悪ければ重傷を負っていただろう。
もちろん、猫に興味を示さない可能性もあったが、その場合は意地悪でもして追いかけさせればいい。
誰も怪我しなくてよかったとホッとするアンリエッタ。
ピコピコ、と耳を痙攣させて、周囲の雑音を無視してアンリエッタは視線の先にある他とは違う大きな建物を見つめる。
男爵と貴族位の官位の中では最も低い位置づけでも、貴族は貴族。それなりに大きい屋敷に住んでいるラズール家の別宅、アンリエッタの自宅だ。
(戻った方がいいかな。あんまり心配させてもダメだし)
すっくと立ちあがり、お決まりの背伸びをしてからタッと四本脚で軽快に屋根を駆ける。
あっという間についた屋敷の屋根を伝い、アンリエッタの自室のあらかじめ開けて置いた窓から侵入してベッドの傍らに置かれた椅子へと飛び乗る。
目線が高くなり、平民のものより上質なベッドに寝かされている自分の身体をアンリエッタは猫の瞳でじっと見つめる。
セミロングの毛先にカールがかかった赤――というよりオレンジみが強い髪と、今は閉じられたハチミツ色の瞳。顔はそこそこといった可愛いらしさだが、やつれ気味の頬のせいで若さからの魅力がない。
今年で十五歳になるが、少女の身体は異様に細い。男性が力を入れて握ったら折れてしまうんじゃないかと思えるほどに。
夜会デビューを果たしたとしても見向きする男性はいないだろう。もっとも、アンリエッタ自身男性とどうこうなりたい願望はないが。
また細くなったな、と自らの身体を眺めた感想を口の中で転がして、アンリエッタはすっと自身の身体に近寄り、自分の鼻先を額に押し付けた。
数秒の間そのまま固まり、そっと目を開けると、アンリエッタはゴロゴロと喉を鳴らしてすり寄るサビ色の猫を正面から見ていた。
「いつもありがとうね、チャコ」
細い握力のない手で猫を撫でる。汚れることは気にしない。
侍女が来ると乱暴に追い返されてしまうので、起き上がって猫を抱き上げ先ほど入って来た窓から外へ出してやる。
「もうお行き。また貸してくれる時は来てね。楽しみにしてるわ。あとこれはいつものお礼」
大好きなレーズンを数粒掌に乗せて食べさせると、首を突っ込んで器用にくわえてまぐまぐと噛み、飲み込んでいった。
普通の猫がレーズンを食べるのかは知らないが、チャコと名付けたこの猫は何故かこれが好きなのだ。
「ニャア」
満足したのか全部食べ終えた後お礼に対しての返事のように鳴いて、サビ猫は外の雑踏へ紛れた。
それを見送って、アンリエッタは窓を全部開け放って縁に腰かけ外を眺めた。時折気づいた通行人が手を振ってくれるので振り返すアンリエッタは後ろから慌てた声を聴いたことで外から視線を外した。
「きゃあっ、お嬢様危ないですよ、窓から離れてください!」
屋敷の侍女のナナが朝食のラックから手を放してアンリエッタに駆け寄る。それに苦笑してアンリエッタは従った。
窓から離れた彼女に、ナナが腕を捕まえてどこにも何事もないか確かめる。
「べつに落ちる気はないわよ? ちょっと風が気持ちよかったから当たりたかっただけ」
微笑むアンリエッタに、ナナはくしゃりと顔を歪ませた。
「こっちは心配なんですよぅ、ただでさえお身体が強くないのにそうやって突然動き出すから、部屋に入る度冷や冷やしますぅ」
「そうなの? 心配させるダメな主人でごめんなさいね」
「と、とんでもない! お嬢様はとても素敵な人です、私は大好きです!」
自分より年上なのに素直な反応を返して慌ててフォローを叫ぶ姿に、微笑ましく笑う。ナナのこういうところがアンリエッタは大好きだった。
「ふふ、ありがとうナナ。今日の朝食は何かしら?」
「あ、今日はシェフが考案した新メニューだそうで、パングラタンスペシャルバージョンって叫んでました」
小食のアンリエッタのためにつくられた品が入った盆を綺麗にテーブルに置き、ナナはアンリエッタの椅子を引く。席について料理を見たアンリエッタは、わあっと顔をほころばせた。
「美味しそうね、いただきます」
火傷しないように息を吹いて冷ましながら少しずつ食べていく。
ナナはその間にアンリエッタの着替えを準備しておく。
普通は逆だし主人が食べている間は侍女は壁際で控えておくものだが、アンリエッタの決定で食事中は待機せず仕事をやっていて構わないとなっていた。どこかに出かける予定もないために着替えもタイミングが遅い。
アンリエッタが食べ終わる頃には、ナナはすべて終わらせていた。
「お嬢様、今日はどうしますか。またお眠りになるなら着替えは片づけますけど?」
「そうね……、今日は少し起きてるわ。後で書庫から何冊か本を持ってきておいてくれる?」
「わかりました。あ、お館様と奥様が午後に様子を見に来られるそうですから、その時間は着替えてもらいます、眠くても寝ないようにしてくださいね」
「ええ、わかったわ」
着替えをすませて椅子へ座るまでを見届けたあと、ナナは書斎から頼まれた本を数冊、アンリエッタが好きそうなものを選んで戻って来てくれた。
それに礼を告げてアンリエッタは読書用の机に向かい、本を読み始めた。そこまで見届けてナナはいったん下がる。
「…………………、行ったわね」
足音が聞こえなくなるまで待って、アンリエッタは再び窓辺に寄った。今度は窓は少ししか開けていない。
「ねえ、誰かいる?」
誰もいない部屋でそっと呟いた問に、空を飛んでいた小鳥たちと鳩、壁を走ってネズミが窓の外側に集まった。
それらににこりと笑いかけ、尋ねる。
「またお散歩したいの。少しの間だけ貸してくれない?」
ピチチチチ。
クッポー。
鳥たちは鳴き声を残して飛び立ってしまった。アンリエッタの提案に拒否を示したのだ。
そして一匹残ったネズミに視線をあてる。
「いいの?」
チュウ、と一声鳴いて、ネズミはアンリエッタが開いた窓の隙間から部屋へ入り、差し出された手に乗った。
そのままアンリエッタは机に戻り読んでいるうちに眠ってしまったように見える体勢になってネズミと目を合わせた。
「ありがとう。ちょっとだけ貸してね」
手を額に近づけて、ネズミが後ろ足だけで立ってアンリエッタの額に触れた。
数秒一人と一匹は硬直し、やがてネズミが動き出す。
アンリエッタの身体はスウスウと寝息をたてて穏やかに寝入っている。
それを見届けて、ネズミは本来の俊敏な動きで駆け、机から降り入って来た窓を抜けて屋根もするすると降りていく。そうして屋敷の外へと駆け抜けた。
「チュチュ! チーー!」
:「わーい! やっぱりこれが楽しいわー!」
ネズミの表情が変わったかは定かではないが、今までの弱々しく大人しい少女の様子(?)はなく、ネズミの発声器官を使って存分にアンリエッタは叫んでレンガ造りの道を駆けた。
ズドドドドド……。
ガヤガヤガヤガヤ……。
ゴトンッ、ゴロゴロゴロゴロ……。
人の歩く振動、荷車の通る迫力、自分より大きい動物への恐怖。
それぞれを噛みしめるように堪能し、ネズミのアンリエッタはあちこちを駆け回った。
たまに人間に見つかって蹴り飛ばされそうになったりもしたが、うまく切り抜けて商店街のほうまで一気に走った。
ここもまた騒がしいが、家にはない賑やかさがアンリエッタは好きだ。
(今はネズミだからすり寄っても騒がれるだけだし、隅でまた観察してようかしらね)
麻袋をたっぷり積んだ荷車の隙間で周囲を確認したアンリエッタは、ほぼ常連化している少しさびれた雰囲気が漂う商店街端の布屋の屋根へと上った。
壁が崩れて観察には丁度良い穴が開いているところへ入り、頭だけだして風景を眺める。
値引き交渉する主婦と店主、少ない小遣いを睨んで何を買うか迷う男の子、店当番を代わって逢引する男女などなど、人々の暮らしは見ていて全然飽きない。
外は屋敷の中にこもるよりずっと楽しいが、自分の立場と身体の事を考えたら人間として街を歩くことはできない。
そもそも、両親が許してくれないだろう。
「チュー…」
:「はあー……」
(みんな、働き者ねぇ。これが普通なんだもんね、自分の弱々しさが浮き出て悲しくなるわ)
ため息を吐いて、自分の体の不便さに消沈する。
(なんでこんな体になったんだろう……。異能を持ったから? でも他はそんなこと無いみたいだし。もともとの体の作りなのかしらね、やっぱり。あーもっと元気な自分の体で動き回りたかった~)
器用にネズミの体で穴の破損個所に腕を置き、頬杖をつく。
そうして自分の境遇は幸か不幸か思案する。
アンリエッタは生まれた時から『異能』と呼ばれる不思議な力が使えた。
幼いうちから自分の内に何か『宿っているもの』があることに気づき、不思議だった。
誰に聞いても相手にされなかったのでアンリエッタが自身で調べると、自身のそれは「異能」と呼ばれているものだということを知った。
異能持ちは名前の通り異質な能力を何かしら宿している。公言する者が少ないので何人ほどが存在しているのか不明だが、能力によっては差別が激しい。
時には何者も勝てない武力、未来を予知する能力と、国家利用できるものから自分の出す音を消す、植物を元気にする、など個人限定で使えるのか使えないのかわからないものもあるそうだ。
どう宿るのか、どんな力が生まれるのかはまったくわかっていない現象だと、本では締めくくられていた。
自分以外にも異能持ちが存在することと、暴力に使うような能力ではなかったことにアンリエッタは安堵したものだ。
そしてほとんどの異能持ちがそうしているように、アンリエッタも自分の力を誰かに打ち明けるようなことはすまいと決めていた。
そんなアンリエッタの異能は、動物に自分の意識を移して体を操れるという力だ。
意識を移した動物の体を使うことができ、自分の意思で戻ることが可能だ。その際体の一部が触れている必要がある。意識が移っている間の体は深く眠った状態になるので、強く揺すったり大声を出したりしても起きることはない。
始めてそれを知った時、屋敷にいる人たちを大分心配させてしまったことがある。なので、決めた時間内でしか異能は使っていない。
この力は基本散歩のためにしか使っていないので、両親も屋敷の誰もアンリエッタが異能持ちだとは知らない。アンリエッタ自身が早いうちから隠していたからだ。
常人よりもうんとか弱く生まれた体は屋敷の外どころか、部屋の中をうろつくだけでも息が切れる。そんな弱々しい体の少女が他人からしたら不気味でしかない力を持っていると知れば、周囲は忌避して誰も寄り付かなくなるかもしれない。
そうなった場合、アンリエッタは一人で生きていける気がしない。食事も抜かれたら数日後には天に召されていることだろう。
だから異能のことを理解したときからこのことは誰にも言うべきではないと幼くとも心に誓った。
もし打ち明ける必要が出たとしても、ナナ以外には言う気はない。彼女がアンリエッタの中では一番信用できる。
屋敷から出ることのできない寂しさを紛らわすためにこうして動物たちから同意を得た時に散歩をしていたのだが、人間のままでは体験することのできない世界にすっかり魅了され、成長するにつれて寂しさなど吹き飛んで外の世界に引き込まれていった。
普段できない思い切り走るという行為も、部屋の中では触れない物に触れることも、誰かに捕まえられそうになる危機感も、全部、アンリエッタにとってはキラキラした宝石のように輝かしい経験だ。
そうして外を冒険し、たまに今朝のように危ないなと思った事柄に首を突っ込んでひっそり解決させては街の安全を守っているヒーローの気分を味わったりもする。
アンリエッタは行き交う人々の様子を観察して、一方的に知っている人物の姿を目で追ったりして楽しんでいた。たまに体勢を変えて、寝転がったままご機嫌な鼻歌(ネズミ声で)を歌ったりと好き勝手に遊んだ。
「チチュー、ヂヂッ!」
:「今日も平和であります! 隊長!」
誰に聞かれる心配もないのでたまにアホなことを叫んだりもして遊ぶ。
そんなことをしていると、真下からドサッという鈍い音がした。
荷物でも落ちたのかと穴から離れ、天井板の隙間から下を覗く。
(…………? ん? あ! 布屋のおじいちゃんっ!)
布生地が並べられた棚の間で、店の主人である老人が腰を押さえて床に倒れているのが見えた。
ぎっくり腰でも発症させたのか、う~……と苦しそうに呻いている。棚のせいで外からはその様子が見えていない。
唯一発見したアンリエッタが慌てる。チョロチョロと小さい体で行ったり来たりを繰り返す。
(わっ、わっ、どどどどうしよう! ええっと~、私じゃわからないからとにかく医者を呼ばなきゃだけど……この体じゃ無理だよ!)
ネズミのままでは声は出せない、それどころか攻撃される。だが人の体に戻ったって何もできない、最悪気が触れたかと疑われるだろう。
ではどうすべきか。
(ああ、チャコだったらまたすり寄ったりして気を引かせられたのに! ネズミでできること、できること~……っ、そうだわ!)
オロオロして老人と周囲を見回していたアンリエッタは、ひとつ思いついて急いで天井から店内へ侵入した。
棚のてっぺんに着地して、下の様子をもう一度よく観察する。
(金属とか落としていけば、変に思った息子さんが様子を見に来るはずだわ。あの人親想いだもん!)
常連と自負するだけあって、この時間店の誰が何をしているのかは知っている。
一緒に経営している息子は今、店の裏手で帳簿をつけるのに集中していて周りに気づいていないだけだ。計算が得意な息子は父親から全面的に任されている帳簿と向き合うとき、ものすごく集中する。
だから倒れた音にも気づいていないのだが、商品が落ち続ける不審な音がすれば、さすがに警戒して様子を見に来たりはするはずだ。と、アンリエッタはそうであってくれと願う。
あとは自分が咥えられそうな金属類か、それ以外を見つける必要があるが、テーブルを見たらいいものがあったのでアンリエッタはそれを利用するため計画を大幅に変更した。
チョロチョロとテーブルまで走って、置いてあった巾着袋の中に顔を突っ込む。思った通りのものが中につまっていて、これなら確実に気づいてもらえると確信した。
(おじいちゃん、息子さん、ごめんなさい!)
心の内で謝罪して、巾着をテーブル端まで引っ張り、袋の中に体を突っ込んで中に入ってるものを犬の穴掘りの要領で短い股の間を通してソレを外へと放った。
ジャリジャラジャラジャラジャラジャリンッ!
金属の、店の売り上げだろう硬貨のけたたましい音が店内に響き渡った。店の外まで聞こえて通行人がぎょっとしているのがチラリと見えた。
(息子さん早く!)
早く気づいてくれとばかりにアンリエッタは硬貨を床へと放り続ける。
しかし外の様子がわからないために息子の声が聞こえるまで続けていると、予想外の方向から別人の声が先に上がった。
「おい店主! ネズミが金で遊んでるぞ! 店主、どこだっ!」
通行人の方が気にしたようで、しきりにカウンター奥に呼びかけていた。
一度止まって体を出し、フンフンと耳をすまして辺りの音を聞く。「なんだと!? 親父なにさせてんだ!」という息子の叫びが聞こえた。人間より耳のいい動物はこういう時便利だ。
目的を達成して、キョロキョロと登れる場所を見つけてテーブルから去っ後、さっきの隙間まで移動して下の様子を見た。
「このクソネズミッ、なにし……親父!? どうしたんだ!?」
「う~手ぇ貸してくれ~。腰やっちまったぁ~~……」
「またかよ!? ちょっと待っててくれ、すぐ金拾うから。おいおふくろー、親父が腰やったー。湿布まだあるっけ?」
どうやら何度も同じことだあったようだ、原因がわかると息子は落ち着いて対応していた。奥からはおばあちゃんの「またかい~? せんせいのとこ行かなきゃねぇ~。湿布はもうないよー」とのんびりした声が聞こえた。
その様子をみて大丈夫そうだとアンリエッタは安堵した。
(慣れてるのね、良かった。お金は本当にごめんなさい)
誰も見ていないのに器用に後ろ脚で立ちぺこりと頭を下げて、アンリエッタは帰るために布屋から離れた。
行きとまったく変わらない姿のままで寝息を立てている本体へ触って、アンリエッタは体をネズミに返した。
「ありがと。ちょっとドキドキしたわ、ふふ…だからコレはやめられないわね」
窓の外へネズミを逃がして、先ほどの大冒険を思い返しクスクスと笑う。
疎ましく思えど、この異能ちからのおかげで退屈な日々が楽しくなっている。どんな目的で与えたのか知らないが、アンリエッタは神に感謝した。
アンリエッタはひと時の楽しみを味わってご機嫌で部屋の中をくるくる回る。
(ああ、楽しかった。明日は誰が貸してくれるかしら、どこへ行けるかな。待ち遠しいな……)
感情のまま動き、やがて疲れてベッドへ倒れ込む。
「はあ、はあ……」
ちょっと動いただけなのに、もう体が疲労を訴えてきた。
こんなことだけで息があがる体に、夢うつつな思考が現実へ引き戻された。
さっきよりうるさくなってきた心臓に、もうちょっとだけでいいから辛抱強くなってほしいものだと訴えるがそれに応えてくれる体ではない。じつに残念だ。
息が整うまでぼうっと天井を見上げて、そういえば午後に両親が来るんだったと思い出した。
そこに丁度ノックが聞こえて来た。ナナだろう。
「失礼します、お嬢様。昼食をお持ちしましたよ」
「ああ、もうそんな時間なのね。気づかなかったわ」
野菜の煮込みが入った皿を朝と同じテーブルに置いて、ベッドでだらけている(ようにみえる)主人をナナは腕を引き、起き上がらせた。
「まだ眠いんですか? 相変わらず寝ることは飽きませんね。でもこっちへ来てください、食事を抜いたことでもっと体が弱ったら大変ですよ」
「はあい」
読書疲れでベッドへ倒れていたふうを装って、アンリエッタは大人しく食事の席に着く。体に優しい野菜が柔らかく煮込まれた知らない名の料理だったが、これもとても美味しかった。
「午後はお父様たちが来るのよね?」
朝のようにやることがない昼は壁際に控えているナナへ、口の中にものが入ったまま予定を尋ねる。
行儀が悪いと注意しながらナナは頷いた。
「そうですよ。なので午後は着替えてくださいね。お二人とも久しぶりにお話できるからって楽しみにしておりましたよ」
にこやかに告げるナナに、アンリエッタは微妙な反応しか返せなかった。
正直両親に会うのは嬉しさと気まずさが半々といった気持ちなので会わなくてもいいのだが、彼らのいつもの様子を思い浮かべると、会わないという選択肢は取れなかった。
そうして久しぶりに会った両親は、屋舗へ入るなり貴族の作法も礼儀も放り投げてアンリエッタの部屋へ駆け込んできた。
「アン、会いたかったわ! 元気そうね、少し体が太くなったかしら? あなたはもっと太らなきゃいけないから良いことだわ」
「そうだな。少しづつでもいいから丈夫になれば、できることも増えるからな。ゆっくりやっていこう。私も会いたかったよ、アンリエッタ。どこか変わったとかはなかったかい?」
「母さま、父さま。久しぶり。私の身体の基準では元気だよ」
潰されそうなほどギュウギュウと抱きしめられて解放されてから、アンリエッタは返事を返す。
「それならよかったわ。毎日顔を会わせられればいいのに、ごめんなさいね、ここに一人にしてしまって」
「私は大丈夫だから。領地の方が大事なんだから、母様たちこそ無理を通して来たりしたら駄目だからね」
「それこそ大丈夫さ、実りの少ない土地だけど皆いい人だからね。こっちは構わず行ってこいって言ってくれたよ」
「そうなの? 優しい人たちなのね」
「ああ、ありがたいことだよ。だからこうして愛しい娘にも会いに来れる。………それにしても本当にアンは可愛いな、いつまでも抱きしめていたいよ」
「あら、あなただけずるいわよ。私だって可愛いアンをずっと抱いていたいんだから!」
そう言って両親はまたアンリエッタをサイドから抱きしめた。
娘の溺愛ぶりが一目でわかる行動だ。若干の恥ずかしさがあれど、こうやって抱きしめられるのがアンリエッタは好きだ。
全面に愛情を注いでくるものだから時々会うだけでも鬱陶しく思う時があれど、根っこではやはりアンリエッタも自分を愛してくれる両親が大好きだ。
「今回は少し遅い日になってしまったけど、次はもっと早く戻るからね」
「無理しないで父様」
「多少の無理はするよ、何度でも娘に会いたいからね」
ラズール家は男爵位と地位的には低い位置にいる貴族だが、ちゃんと領地はある。アンリエッタが過ごしているこの街だって領地内にあるものだ。
両親は普段この街から大分離れた場所に建っている本宅に住み、二人がかりでここの領地経営をしている。そのため街にある別宅にはたまにしか来れず、その分会った時にはとてもとても愛情を向けて接するのだ。
何故たまになのかというと、本宅のある場所は少々厄介なものがあるため、それの処理にいつも奔走するはめになるからだ。
領地内の民に力を借り、地位も忘れて両親も協力して行っている作業は自領の儲けにもつながっているので、毎度一致団結して作業しているらしい。なので領民からの評判はいいと本宅で働いてくれている家令に聞いた。アンリエッタの秘かな自慢だ。
ひとまず落ち着いてからは、互いの――というか主に両親の――向こうでの日常の出来事を話たり、民の面白話などを聞いたりして家族の時間を過ごした。
「そうそう、この間お呼ばれしたお茶会で聞いたお店でね、お土産を買って来たの! 今流行っている香水よ。あなたも女の子なのだからたまにはおしゃれしたいでしょう? 気分転換に付けて楽しんでみたらいいわ。若い子に人気のものをいくつか買ってきたから後で試してみてちょうだいね」
「まあ、ありがとう母さま。楽しみ」
「私からはアクセサリーだよ。お前の髪にとても映えると思ってね、髪留めとネックレスを買って来たんだ。今度はドレスも頼もうか、できるだけ負担がかからないようなものを選ぶよ」
「ありがとう父さま。つける日を楽しみにしてるわね、身に着けたら見てくれる?」
「もちろん!」
「当然でしょう、見ますよ。きっと似合ってるわ」
和やかに経過する時間。家族の団欒がそこにあったが、2,3時間もすると家令に声をかけられ、両親は後ろ髪を引かれる思いながらも部屋を足早に出ていった。去り際にも何度も体調への問いかけやアンリエッタへの愛情を口に出していた。
にこやかに別れを告げて、ドアが閉まってからまた一人だけになった寂しさにアンリエッタはため息を吐く。
「はあ、私も行けたらいいのに」
窓から馬車が離れていくのを見送り、不満を呟く。
まあ両親が許可を出すとも思わないし、長距離移動はこの体ではもたないだろうと自分でも分かってはいる。
どっちみち無理なのだが、それでも話に聞く気さくな領民たちと話してみたいし、彼らの働きぶりや両親の仕事の様子もこの目で見てみたい。
でもそれらは叶わない。
理不尽だ、なぜ私だけ。そう思わずにはいられない。
だが言ったところで体が丈夫になるわけでもないので溜息でいつも終わる。
そしてその不満の解消には、体の代償のように宿っていた異能が活躍するのだ。
「ふふ、明日が待ち遠しい……。今度はどんなことが起こるかな」
明日に馳せる想いにワクワクを隠せない。
ハンデを負って生まれて来たのだ、その分はたっぷりと異能この力を使って楽しんでやろうじゃないか。
夕暮れが近づいてきた空を見ながら、アンリエッタはそんなことを浮かべていた。