はじまりと暗示 03
ジュリアが二人分の食事を置いて部屋から出るまで、重苦しい空気が充満していた為、扉が閉まると同時に気が抜けたように溜息が漏れた。あんな感情的で客商売が成り立つのはメアリーの支えがあってこそだろう。
「で、次はいつ家へ戻るんだい?」
机の上に並べられた重要書類の束を二人で読み漁りながら、何気なくラリーに尋ねる。ローレンス・ウィンドの名を隠して、この街に潜伏をしているのを知っているのは自分を含む仕事仲間の数人だけだが、本名を名乗っても今の彼ではきっと隣人たちも疑いの目を向けるだろう。兄の方が母の血を色濃く継ぎ中性的な雰囲気で自分とは少し違った顔立ちだが、妙に癖が似ていたりするお陰で間違いなく血の繋がった兄弟だと認識させられる。キャロラインよりも三つ年上だったが、彼もまたキャロラインのお小言の餌食になる幼馴染の一人だ。この頃特にキャロラインの小言が多くなったのは、兄がここしばらく家に寄り付かずに居る事も要因だろう。
「そのうちな」
二人で居る時はラリーの芝居はしていなかったが、その返事は素っ気ない物だった。無精ひげを撫でながら書類に目を落としては、何やら思案している。
「そのうちって……まさか兄さん、キャロのお小言が嫌で帰らないんじゃないよな?」
疑いの眼差しを向けていると、兄は読んでいた手紙から顔を上げ、驚いた様にこちらを見たかと思うと、笑いを堪えきれずに吹き出した。
「お前と一緒にするなよ。あんな子猫にじゃれ付かれたところで何とも無いさ」
キャロラインの事を子猫だなんて比喩するのは彼くらいだろう。
「早く結婚でもして、子供の世話で俺たちの事まで気が回らなくなってくれればいいのにな」
「お前が独身主義を返上すれば即解決だ。女遊びなんていつまでもしているべきじゃないだろう」
「仕事中毒の兄さんと比べたら、世の中の男のほとんどが女遊びが過ぎる連中だらけになるさ」
「ケイトもお前が責任を持ってキャロと結婚するべきだって考えだぞ。口には出さないがな」
「母さんまで?」
グリフォン卿には、会う度にそれとなく話題にされてもキッパリと断っていたが、家にまで話が行っていたのかと首を項垂れた。
「今まで世話を焼いてもらった責任とでも? そんな事で一緒になった所で暗雲立ち込める家庭にしかならないだろう。それに、その相手ってのは兄さんでも構わないんじゃないか? いや、むしろ真面目を絵に描いた様な兄さんの方が合ってるだろう」
いつの間にか言葉に熱がこもっていたが、兄はどこか冷めた目でこちらをしばらく見つめていたが、結局は何も言わなかった。
「どうして周りの連中は俺とキャロをくっ付けたがるんだろうな。兄さんでさえ嫌がるのに」
「私は嫌がっている訳じゃないさ。それにキャロの意思を尊重するべきだろう」
子供の頃は兄は絶対にキャロラインが好きな様に見えたが、大人になって二人の事情が変わったのか。兄の本心は仕草や雰囲気からは読み取れなかった。
「今は仕事が一番だという事か。ジュリアに本気って事はないだろう?」
今回の仕事にジュリアがどう関わって居るのか解らないが、個人的な恋愛感情から彼女に気のある素振りをしているとは思えなかった。兄もあの手の女性は苦手だった筈だ。
「さあ、どうだろうな」
はっきと答えないところを見ると、恐らく任務の機密事項に含まれる事柄なのだろう。
「普通にしてれば彼女を落とすのに三日もかからないだろうに、何でラリーの様な人物を演じてるんだ?」
読み終えた書類を封筒へ戻し、次の封蝋を確認して開封し中身を読むのをくり返しながら話している為、七割は書類の方に意識が持って行かれていた。
「人の裏側を探るには、この方が都合がいいこともあるんだ」
兄は厳重に包装されている小包を軽く振って中の音を確かめると、乱雑に包みを破いた。
「お前は今度はどこに行くんだ?」
「アスケードだよ。キットに同行してもらおうかと思うんだけど」
「あそこまでなら日数は掛かるが一人で十分じゃないのか? そんなに甘やかした覚えは無いんだがな」
「俺だって身軽で行きたいさ。キャロの小言を減らす為には仕方ないだろ」
「もっと要領よく立ち回れよ」
「兄さんまでキャロと同じ事を言うなよ」
苦笑しながら言うと、何が面白いのか兄は小さな笑いを漏らしていた。
「キャロにばれなきゃいいんだし、一人で行くさ。大体、急ぎでもない書状をなんで俺に?」
「ああ、その件か。お前が行くことになったのか。今の私には遠出する余裕は無いからな」
兄は小箱の中から緑色の小瓶を取り出すと明かりにかざして眺めたり、蓋を開けて匂いを嗅いでいた。メアリーが重要品として隠し収納に入れていた事から、闇で売られている何かの証拠品だろう。
「アスケードに行くのは気が重いよ。陛下の人柄は素晴らしいが、政務に長けているとは言い難――」
『パチンッ』と言ういい音がして、言葉を遮る様におでこに痛みが走った。
「それ以上は口にするなよ」
まぶたを開けると兄の右手が目の前にあった。
「はいはい」
おでこを摩りながらぶっきら棒に返事をすると、兄は小さく溜息を吐いた。
「お前はもう少し言葉に気を付ける事を学ぶべきだな。それと、あちらの情報が一部の者達から途絶えている。ついでに様子を見て来てくれ」
「どこかの組織に潜入中なんじゃないか?」
「その可能性もあるが、連絡が途絶える前の手紙がどうも引っ掛かってね。それにコレ」
手に持っていた小瓶をこちらに放った。難なく受け取り、瓶の中を光に透かして見る。
「木屑か枯れ草か?」
「あの国で出回っている危ない薬だとさ。だが、出所などの詳細な情報がない」
兄はその小瓶を嫌悪する様に睨みつけていた。
「解った。どうせ時間は余るだろうしな」
「これは爺様に詳しく調べてもらう」
爺と言うのは祖父ではなく、俺たちの手伝いをしてくれる医者の呼称だ。
「どうせまた、爺に任せても『これが何かは断言はできん』とか言われるだけだぞ」
爺の口調を真似して言うと、兄は吹き出した。
「いいんだよ。品物が何かをハッキリさせたいんじゃなくて、医者としての意見を聞きたいんだ」
「まあ、そっちは任せるよ」
「お前は野生の感だけは鋭いから大丈夫だとは思うが、深入りし過ぎて足をすくわれるなよ。ある意味では、その書状にも気を付けた方がいいぞ」
「え、重要機密なのか? そんな話は聞いてないが……」
「開けて見る訳にはいかないからな。自分の頭で考えるんだな」
兄の意味深な発言に一抹の不安が過ぎるが、今更後には引けない事は解りきっていた。諦めて用心するしかない。沈んだ気分になった事が目に見えて解ったのか、兄は少し呆れたような顔をしていた。
「そうだ。着替えはそこの箱から好きなのを使えよ」
「ああ、助かる」
兄が指差した箱の中を覗くと、華美な物からボロ布の様な物まで様々な服が詰まっていた。こういう時に同じような背格好だと便利だ。兄のほうが少しだけ背が高く筋肉のつき方も多少違うが、服の上からでは違いなどありはしないだろう。
最小限の荷物で最低限の必要な物を見繕うのに考えを巡らせる。
「今回もシルフィーを連れて来たのか?」
兄の唐突な質問に一瞬何の事かと思ってしまった。
「ああ、世話を頼んでおいだ。兄さんもたまに会いに来てやってくれよ。リップといいシルフィーといい、家の子たちはどうも人見知りで困ったもんだ」
「未だに慣れないのか」
「何度も脱走されてるよ。必ず家の敷地内で見つかるからいいけど、連れ攫われたらと気が気じゃないよ」
キャロラインには可愛がり過ぎて逃げられてるんじゃないかとからかわれたが、リップは大切な預かり物だし、シルフィーは兄に無理を言って譲って貰った牝馬だから余計に愛着を持っているのは事実だったが、度が過ぎる程ではないはずだ。
「他の人間に着いて行く心配はないさ。飼い主のいう事をよく聞くお利口さんだからな」
「いやいや、だったら脱走なんてしないんじゃ」
「……そうかもな」
そう言って兄は意味ありげに微笑んだが、俺にはその理由が解らず首を傾げた。