はじまりと暗示 01
「今度はどこまで行くのかしら?」
自慢の黒髪を梳きながら、鏡越しに鋭い視線をこちらに向けるキャロラインの声は棘々しかった。彼女の機嫌を損ねない方法はないが、出来る限りの愛想笑いを浮かべた。
「キャロも行った事があると思うけど、アスケードだよ」
「アスケード!」
振り向き様に派手な音を立てて彼女のお気に入りの香水瓶が倒れたが、それよりも苛立ちが勝っていた。
「なぜ、そんな所まで貴方が行かなくてはならないの?」
腰に手を宛ててこちらに歩み寄って来るキャロラインの姿は小柄ながらも脅威的で思わず後退りした。
「グリフォン卿直々の御達し、それを断る様な不義理な真似はできないさ」
苦笑しながら答えると、キャロラインは鼻息荒くまくし立てる。
「お父様の頼みなんて断ったって構わないわよ! 一週間前にセスキアから戻って来たばかりじゃないっ! しかも賊に襲われて怪我までしたのでしょう? どうしてもっと要領よく立ち振る舞えないのかしら?」
この年上の幼馴染は、小さな頃から心配性の世話焼きのお節介だったが、大人になってもそれは変わらず、毎度のお小言が嫌でつい帰郷を遅らせているのは、きっと彼女も勘付いているだろう。
どう言い訳すれば良いのか、確かに前回の同行者選びは失敗だったのは認めるべきだろう。そうでなければ、賊に絡まれる事も彼を庇って傷を負う事もなかった。医者にかかる程の大したものではなかったが、それを言ったところで彼女の意見は変わらないだろう。子どもの頃からの刷り込みのせいか彼女には口で勝てる気がしない。グリフォン卿でさえ敵わないとぼやく位だから、勝てるとしたらあの人だけだろうが、しばらく帰らないだろう人を当てにしても仕方ない。
「グリフォン卿の信頼を裏切れはしないさ。今回は一人で行くから大丈夫。旅には慣れ――」
「独りですって! 従者も付けずに行くつもりなの?」
墓穴を掘ってしまったと気付いた時には既に遅く、腕組みをしながら凄んだ彼女の翡翠色の瞳が怒りで揺らめいていた。
「書状を届けるだけだから、危険はないよ」
「アスケードまで従者も付けずに行くなんて、どれだけ無謀な行為だか解っているの? 旅の間は何が起こるか解らないのよ。貴方は一人だと着る物や泊まる場所にも気を遣わないから浮浪者と間違われた事まであるそうじゃないの。そうではなくたって落馬や盗難、事故、誘拐だって絶対に無いとは言えないし、貴方は人が良いからすぐに厄介事に巻き込まれて――」
「あの、キャロライン……」
「この前だってどこかの屋敷が襲われて一家惨殺なんて酷いことが起こったのよ! こんなご時勢に自ら危険の中へ飛び込もうとするなんて、とても――」
「キャロ! キャロったら、頼むから落ち着いて!」
彼女の言葉を何とか止める為に手を取って瞳を見つめた。延々とお説教を聴かされるのはうんざりだ。
「従者を連れて歩くし、自ら進んで厄介事に首を突っ込む様な真似も絶対にしないと約束するから! 今回も申し訳ないけどリップの世話を頼むよ」
まだ不満気に何か言いたそうにしている彼女の頬に軽くキスをして素早くその場を後にした。
愛犬のリップは人見知りが激しくて懐いている人間が少ない。シェパード犬の中でも体格の良い彼の世話を母に任せるのは心配で、出来ることならキャロラインに会わずに済ませたいが、仕事の度に頼みに行く他なかった。それにしても毎度のやり取りだが気が滅入る。今回の旅で出来ることは、これ以上の小言の種を蒔かない事だけだろう。