あなたに逢いたくて
「本当にいいんじゃな?」
「ああ。その代わり必ず成功してくれよ」
真っ白な天井に吊るされた、明るすぎる照明に照らされながら、俺は老人に念を押した。
続けて口に当てられた麻酔ガスによって、意識を沈ませていく。
「待っていろ……」
それが俺の意識に描かれた最後の台詞。
再び意識が戻ったのは夜が明けてから。
腹部に違和感はあるが、特に痛みなどは感じない。
ただ、身体の自由が利かないだけ。
「目を覚ましたか」
声の方向に目線を移すと、白髪の老人が、その妙に掘りの深いラテンな顔に、満足そうな表情を浮かべながら、こちらを見つめている。
「手術は?」
「成功じゃよ」
俺は安堵した。
「じゃが、あくまでも外科手術が成功しただけじゃ。人工臓器がお前に定着するのか、それまでにどれほどの女性ホルモンを投与する必要があるのか。これからは定量実験じゃ。文句はなかろうな」
「ああ、文句はないさ。いくらでも、気がすむまで実験してくれ」
老人が「それだけ元気があるならば大丈夫じゃろうよ」と可笑しそうに笑っているのに少々むかつきながらも、俺は再び訪れた睡魔に従うことにした。
当初は食事も排泄も老人の世話になるしかなかった。
まず最初に感じた違和感は「尿」の我慢がこれまで通りにできなくなってしまったこと。
尿意を催してから、こらえきれなくなるまでの時間がどうにも短くなっているのだ。
「当然じゃ。物理的な距離が短くなっておるのじゃからの」
老人のからかいにむかつくも、これまでとは微妙に異なる筋肉の制御に慣れるしかないのだと、自らを落ち着かせる。
この身体に慣れなければ、意味がないのだから。
数日も経過すると、あちこちのむくみも落ち着き、一人で身の回りのことはこなせるようになってきた。
同時に身体の変化も目に見えてくるようになる。
まずは肌が滑らかになっていった。
どうやらほとんどの毛根が虚弱化しているらしく、髪などの一部を除いた体毛が抜け落ちているようだ。
元々髭は濃い方ではなかったが、今では顎をさすっても、髭が手のひらに当たることがない。
一方で明らかに筋肉が落ち、それに代わるかのように脂肪がついてきている。
これは運動不足だけではなく、体型自体が変化をしているらしい。
最も変化が顕著なのは胸。
胸板が薄くなると同時に、乳房が徐々に膨らんできているのがわかる。
「トイレはどうじゃ?」
老人の問いに俺は表情を崩さずに答えた。
「問題ない」
これは嘘だ。
初めてトイレに行ったときに、悩んでしまったのは事実だから。
「小」のときにも、用を足した後には拭かないと、下着を汚してしまう。
さらには、これまでのように「後ろから」紙を差し入れても上手く拭えない。
ここで初めて俺は「前から紙を差し入れる」ことに気付いた。
しかし「大」も伴う場合には、前からだけだと上手く拭けない。
前後二回の清拭が必要になってしまう。
やっかいなものだ。
しばらくすると、俺の身体はすっかり「女性」のそれとなった。
鏡の前で俺自身をじっくりと観察してみる。
骨格はほぼ同じだが肉付きが異なり、俺の面影は残すも見た目は俺ではない。
俺に姉妹がいればこんな印象なのだろう。
もうすぐだ。
そしてその日が来た。
腹部に鈍痛を感じた俺は、事態を老人に告げる。
「計算どおりじゃの」
老人は俺のしかめっ面に構うこともなく、診察台に乗って両足を開くように命じた。
俺の股間を老人が覗きこみ、なにやら器具を操作している。
不快感が下腹部を中心に広がっていく。
「うむ。疑似生理による女性ホルモン誘発は成功じゃ。これでもうホルモンの投与はしなくてもいいじゃろう」
老人の呟きに思わず頬が緩んでしまう。
これで俺はれっきとした「女」になったのだ。
薬の投与に頼らなくてもいい身体に。
「爺さん。ありがとう」
礼を口にすると、老人はにやりと笑いかけた。
「何の。これらはすべて実験じゃ」
下腹部に痛みを感じながらも、俺は生理中の対応を身につけていく。
出血は三日ほどで止まった。
痛みも引いてきた。
間もなく俺は自立できるだろう。
一人の女として。
その夜。
老人が俺の部屋を訪れた。
「ほれ、頼まれていたものじゃ」
老人が俺に放り投げたのはこの国の身分証。
女となった俺が、この国で法の適用を受けるために必須の証である。
「ありがとう。それじゃあ俺は明日出ていく」
「何を言っておるんじゃ。代金の支払いがまだじゃぞ」
代金だと?
「この実験に身体を差し出せば良しと、爺さんは言っただろう!」
「おう。確かにそう言ったぞ」
「ならばなぜ代金を請求する?」
すると爺さんはその表情を嫌らしげにゆっくりと歪めていった。
「代金と言ったのは語弊があったのう。それでは言い変えよう。最後の『実験』じゃ」
次の瞬間、俺は老人とは信じられない程の力により、ベッドへと押し倒されてしまった。
「何を!」
「だから言ったじゃろう。最後の実験じゃと。貴様の身体が『女』になっていることを確かめるためのな!」
何を言っていやがるこのジジイ!
「どけ!」
「どけと言われてどく馬鹿がおるか。ほれ、もっと叫べ!」
俺は唐突に理解した。
老人の力が強くなっているのではない。
俺の力が弱っているのだと。
「何をするつもりだ!」
俺の叫びに老人は鼻をつく臭いを漂わせながら俺の耳元でこう囁いた。
「実験じゃよ。『身体で支払う』行為についてのな」
続けて俺は老人に蹂躙された。
恐怖
嫌悪
そして、身を守るかのように全身を麻痺させる、暴力を受け入れるための快感……
全身を襲う快感に自らを唾棄したくなる。
思わず漏れ出る吐息に舌を噛みたくなる。
そのとき不意に俺はあいつを思い出した。
「ごめんね……」
ガラス越しにそう呟いたあいつを。
あいつの涙を。
翌朝、俺は研究所を後にした。
研究所の扉を前に押し開けると同時に、柔らかな陽光が差し込んでくる。
すると不意に背後から声が響いた。
「今日やるのか?」
「ああ」
「ならばこれを持っていけ」
爺さんが渡してくれたのは一本の包み。
それを渡しながら、爺さんは切なそうな表情で呟いた。
「わしを恨んではおらんのか?」
怨むはずもない。
爺さんは最後に、あいつの無念を教えてくれたから。
だから俺は振り向いた。精いっぱいの笑顔を浮かべて。
「恨んでなんかないさ。爺さん、世話になった」
「お前の残してくれた実験結果は、必ず役に立てるからの」
関係ない。
この後のことなんか知ったこっちゃない。
でも俺は片手を上げた。
爺さんに別れを告げるために。
訪れたのは、お屋敷町に建てられた一軒の大きな家。
既に裏の窓から、住人がいるのは確認している。
玄関に立つとインターホンを鳴らす。
「どちらさま?」
「ガスの検針に参りました」
インターホンのカメラは、俺の様子を伺うかのように一瞬光る。
続けて扉の奥からぱたぱたと足音が近づいてくる。
その間に俺は爺さんに渡された荷物の包みを開き、それを右手で構えた。
「お待ちどうさま」
顔を覗かせた年配の女性に、俺はそれを無言で振り下ろした。
陶器が割れるような音を響かせ、女性はその場に砕けてしまう。
「お邪魔します」
そのまま屋敷に進入すると、俺は奥へと向かう。
リビングルームに姿を現した俺の姿を見て、そいつの表情が固まった。
それはそうだろう。
返り血やら脳漿やらを全身に浴びた女が、鉈を構えて目の前に立っているのだから。
「な……。一体誰……」
無言で俺はもう一度鉈を振りおろし、もう一度返り血と脳漿を全身に浴びた。
「この家の主と細君を殺してしまいました」
そのまま俺はこの家の電話を使い、警察を呼んだ。
続けて目の前に転がる砕けた死体の横に座りこむ。
サイレンの音。
玄関先に響く悲鳴と怒声。
何人かの足音。
姿を現した警官たちも動きを止めた。
多分、死体の横で死体のように佇む俺の姿に驚いて。
裁判は順調に進んだ。
どうやらマスコミも大きく取り上げたらしい。
「弁護士夫妻。白昼の惨殺!」と。
計算通り、俺には無期懲役が言い渡された。
通常ならば死刑だろうが、自首したことと、金銭目的でないことから、極刑は過ぎると裁判官が判断するであろうということも織り込み済み。
こうして俺は女子刑務所へと送られた。
入所時の身体検査も問題なく通過した。
問題なく。そう、何の問題もなく。
しばらくは独房暮らし。
この間に適性を見るらしい。
俺の刑歴、すなわち「初犯長期囚」もここで鑑みられる。
刑期の近しい受刑者たちが、同じ雑居房に集まるように。
ここだけは祈るしかない。
そしてその日が来た。
独房から出された俺は刑務官に誘導され、雑居房へと移送されていく。
これからが長い刑期の始まりとなる。
改めて俺は祈る。
どうか神様。願いを叶えてくれ……。
雑居房に押し込まれた俺を、先住者達が観察するように見つめる。
同時に俺もこれからの同居人たちを目線で追って行く。
……。
夜が来て朝が来た。
それを繰り返した。
徐々に同部屋の受刑者たちとなじみ、相応に放っておかれるようになった俺は、自由時間にそっと受刑者の一人に近づき、彼女が膝を抱えている横に座った。
いぶかしげにこちらに目線を向けるも、すぐに俯いてしまう彼女。
そこに小さく囁いてみる。
「俺だ……」
「え?」
信じられないと言う表情で顔を上げた彼女に、もう一度俺は囁いた。
「俺だ……。どうしてもお前に逢いたくてな」
泣くな。皆が変に思うだろ。
って、俺の涙も止まらないけれど。
こいつと俺は結婚を前提に交際していた。
しかしある日こいつは俺の前から消えた。
理由は簡単だが理不尽なもの。
ある日こいつはレイプされた。
当然こいつは激しく抵抗した。
そうして男を殺してしまった。
その後こいつは自殺を図った。
俺に会わせる顔がないからと。
彼女の自殺を止めることだけが、当時の俺にできることだった。
殺した男の親は弁護士だった。
本来ならば情状酌量がなされるであろう事件を、息子の仇打ちのつもりだったのだろう。
そいつは弁護士のネットワークを駆使して、こいつを極刑寸前にまで追い込んだ。
こいつに課せられたのは無期懲役。
やっと許された面会の席で、こいつは涙を流しながら俺に詫びた。
「ごめんね。もうあなたのところには帰れない」と。
そう。
俺が殺したのはこの弁護士。
こいつの刑期になるべく近づくようにと、念のため弁護士の妻も殺した。
死刑にならないように自首をし、弁護士へのでっちあげの恨みを、偽りの涙とともに訴えた。
全ては計画通り。
「で、女になっちゃったの?」
「男のままで、女子刑務所に入所できる訳がないだろ?」
「馬鹿ね」
「馬鹿は嫌いか?」
「人を殺してしまったの?」
「罪の深さはお前と同じだ」
「でも私は……」
「大丈夫だ。俺も犯された」
再びこいつは眼を見開いた。
見開いた眼は、手術から入所に至るまでの説明を経て、さらに大きくなったり閉じたりした。
そうしてから徐々に表情が柔らかくなっていく。
さあ、そろそろ消灯の時間だ。
他の受刑者たちの迷惑になるからな。
そんなに寂しそうな顔をするな。
なに、時間はいくらでもあるんだ。
お前と語らう時間は。
この塀の中に、いくらでもな。