1-5
回廊を抜けた途端、視界に飛び込んできた色彩の鮮やかさに、ルナーリアは息を呑む。
ガティネ家も相当な資産家だが、やはり宮殿の豪奢さには劣る。
淑女たらんとする前に綺麗なものには目がない女の子であった彼女は、ガティネ家の邸宅でそうしているように、庭へ駆け出そうとした。
そのときだった。
「あまりはしゃいでは駄目よ、ルナーリア」
『あまりはしゃいでは駄目よ、ルナーリア』
ルナーリアは、驚き固まった。
この言葉を、どこかで聞いたことがある気がしたからだ。
「目の届くところに居て」
『目の届くところに居て』
ルナーリアが振り返ると、アンネマリーが貴族然とした所作で二人を追って来ていた。
距離はさほどではないが、ルナーリアに何かあったとき、すぐには動けない程度に開いている。
『おかあさまも、はやく!』
耳の裏で、はしゃいだ自身の声が響く。
母は優雅に笑いながら、ルナーリアの空いた方の手を取るだろう。
ルナーリアたちは共に庭園を廻り、そして――。
ルナーリアは咄嗟にヨシュアに取られた手に力を込めた。
「ルナーリア様?」
「かあさまはきちゃだめなんだから!」
ヨシュアの訝しげな声に構わず、ルナーリアは叫び返した。
ルナーリアは、常ならば大人しい子供だ。
ルナーリアの性格を知る者たちはその言動に驚き、リートベルクの者たちは幼いとはいえ教育が行き届いているとは言い難い態度に眉を顰めた。
アンネマリーは場を取り成すように「あらあら」と頰に指をあてる。
「お母さまは、いくらヨシュア殿下が素敵だからって、貴女から引き離したりはしないわ」
ルナーリアは一瞬ぽかんとし、すぐに顔を真っ赤に染め上げた。
「ち、ちがうもの!」
「ええ、ええ」
母が「分かっていますよ」とばかりに鷹揚に頷くので、ルナーリアは益々顔が赤くなる。
対して、周囲の空気は和らいだ。
ルナーリアの言動が、褒められたものではないにせよ、リートベルクにとっては好意的なものと認められたようだった。
「と、とにかく!
おかあさまは、はなれていてね!」
「ええ」
アンネマリーはその場で立ち止まってにこにこしている。
先ほどの感覚に、ルナーリアは混乱していた。
初めて感じる類の羞恥はその混乱に拍車をかけたが、ルナーリアはそれ以上に恐怖を覚えていた。
ヨシュアの手を握りしめ、ルナーリアは母から何としても距離を取ろうとする。
心もち年下の少女に引っ張られるような形になりかけたヨシュアが、戸惑いつつも、せめて体面を保てるように横に並んでくれた。
「ルナーリア様、どうされたのです?」
おそらくその場で、ルナーリアの心情を最も的確に読み取っていたのはヨシュアに違いなかった。
彼はルナーリアの傍らで、彼女の表情を、瞳の色を、声のトーンを拾い上げ、無礼とも取れる言動が、アンネマリーが仄めかしたような意味を持たないことに気付いたのだろう。
その証拠に、彼の声音には真摯そのものだった。
ルナーリアは、ヨシュアほど聡明な人を知らない。
過去の出来事を思い出すたび――いや、現在に至ってもまだ、彼を知るたびヨシュアのように得難い人が自分の婚約者であるという幸福と恐れを同時に感じる。
ルナーリアは確かに、ヨシュアを一目見た瞬間に、彼の眸、彼の声、彼の纏う雰囲気――とにかく、彼自身を構成する全てに惹かれたのだと思う。
だが、この時点で彼女が大切にしていたものは、何よりも自らを慈しんでくれている家族に他ならなかったし、いくら惹かれていたとしても初対面の相手に全幅の信頼を寄せることなどできなかった。
彼女は幼くとも貴族だった。
ルナーリアは不安げにヨシュアを一瞥したが、言葉は出てこない。
ただ、焦りと恐怖から足だけは動かし続けた。
「ルナーリア様」
やんわりと手を引かれる。
「あまり、むやみに奥へ進むのはいけません。
わたしたちを護る者たちがついてこられなくなってしまう」
当初はあれほどはしゃいでいたにもかかわらず、その時のルナーリアは咲き誇る花々に目もくれていなかった。
ひたすら、そして無意識に奥まった小道に入り込み、なお歩き続ける。
護衛は付かず離れずの距離を保っていたが、細い道幅になれば何人も供をすることはできない。
その姿にヨシュアは眉を顰めて苦言を呈しても良かったのに、彼の声は変わらず穏やかで、諭すような口調だった。
それがヨシュアの性質なのか、処世術なのかは分からないが、ルナーリアは少なからずその態度に絆されたのだと思う。
彼女はようやく口を開いた。
「でも、おかあさまからはなれないと」
「なぜ?」
ルナーリアはやっと立ち止まった。
か細いルナーリアの声を聞き洩らさないよう、ヨシュアは身を屈めて彼女の唇に耳を寄せる。
ルナーリアは蚊の鳴くような声で、その耳朶に向けて言葉を落とす。
「そうしないとおかあさまが、うごかなくなって、いなくなってしまうから」
ヨシュアが、屈んだ体勢のままゆっくりと視線を持ちあげる。
ひたり、と二人は見つめあった。