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聖者とは、何者を指すのか。
定義は実に単純明快だ。
一つに、彼のひとらはこの世界の住人ではない。
そして、この世界の人間が持ち得ない『力』を操る。
まず大前提として、この世界には人智を超える『力』が存在する。
しかし、『力』を使うにはいくつかの条件がある。
その最たるは、地脈だ。
大陸の中で、『力』が認められている地脈は東西南北に四か所ある。
北のルザン、東のヒワ、南のフェンドル、そして、西のリートベルク。
それぞれの地脈で扱える『力』には特色があるが、いずれも地脈の中心からある一定の範囲までしか『力』が及ばないことが知られている。
また、『力』は様々な不可能を可能にするが、どの地脈であっても実現できないことがある。
それこそが、聖者の扱う『力』だ。
その『力』は、生命のあるものを癒す。
人の怪我や病を癒すことはもちろん、一説には嵐や日照りなどの自然災害をも鎮めることさえ可能だという。
しかも、聖者の『力』は地脈に影響されない。
彼のひとらの『力』の源泉は、信仰心だと言われている。
聖者の助けを信じ、必要とする人間が多ければ多いほど、彼のひとが起こす奇跡は絶大なものとなる。
すなわち大陸全土に浸透する聖者信仰は、いつ何時現れるか分からない聖者を待ち侘びる人間たちが、聖者が現れた瞬間からその『力』の恩恵を受けるための地盤づくりと言うわけだ。
聖者とは、創造主よりも人に近く、創造主よりも人に寄り添い、創造主よりも崇め奉られる。
御使い。あるいは、現人神。
つまりは、そういう存在だ。
だからルナーリアには分からなかった。
神が、一体何に祈る必要があると言うのだろう?
怪訝な顔で首を傾げるルナーリアに、ヨシュアは少し躊躇いがちに口を開く。
「ルナーリア、私は」
その、声色。
その、台詞。
恐怖と興奮の狭間のような感覚が、波のようにルナーリアの心臓を浚った。
あれが訪れのだ。
天啓や、予見の類ではない。
しかし、ルナーリアには次の言葉がわかる。
『聖者は、人だと思っています』
「聖者は、人だと思っています」
「どうして、そうお思いになられるのですか?」
『どうして、そうお思いになられるのですか?』
淡い白金の前髪に隠れた額に、じわりと汗が滲んだ。
紛れもない、既視感。
時間稼ぎのつもりが、流れをなぞってしまった。
『確たる理由はありません。ただーー』
「確たる理由はありません。ただーー」
ヨシュアがルナーリアに視線を合わせて、次はこう続く。
『彼ひとらが祈ると知ったとき、そう思ったのです』
「彼ひとらが祈ると知ったとき、そう思ったのです」
ルナーリアは、無意識に浅くなる呼吸を落ち着かせようと、ヨシュアが不自然に思わない程度に息を吐いた。
今度はルナーリアが言う。
『私には、殿下の仰っている意味が分かりません』
と、心底、不思議そうに。
この流れを続けることが正しいのか、止めることが正しいのか、ルナーリアには分からなかった。
だが、今、ひどく息が苦しい。
それに、既視感の中の『彼女』とは違い、ルナーリアにはヨシュアの言わんとしていることに、何となく同調できる部分があった。
「それを証明するのは、難しそうですわね」
気付けば、ルナーリアは別の台詞を口にしていた。
いや、台詞というより、ルナーリア自身の言葉を。
ヨシュアが苦笑を返した。
(……あ、)
「今代には、聖者は居ないからね」
――変わった。
困った顔で、目を伏せるはずだった、彼の言動が。
それはまるで、ひたひたと押し寄せていた波が引くように。
或いは、光も通さない箱にひびが入るように。
定まった流れに風穴を開けたのだ。
呼吸が楽になったような気がして、それだけでルナーリアの表情は和らいだ。
ヨシュアは、そんなルナーリアの表情の変化を何も言わずに見つめ、微笑み返す。
その優しげに和らげられた目元を見て、ようやく先ほどからずっと彼と目を合わせていたことに気付いたルナーリアは、顔を赤らめて目を伏せたのだった。
* * *
その夢を、いつ頃から視始めたのか、記憶は不確かだ。
だが、既視感を自覚をしたのはちょうどヨシュアとの顔合わせの日だったと、ルナーリアは思い出していた。
ルナーリアたちが初めて言葉を交わすのはグランティエ公主の立会いの下でなければならなかったが、幼子たちが距離を詰めるための遣り取りに国主の貴重な時間を割くわけにはいかず、顔合わせが済めば、公主の謁見の間から政務に関係ない者はぞろぞろと退出した。
ヨシュアは宮殿に国賓として待遇されているので、初めて宮殿に上がったルナーリアよりよほど宮内に詳しく、「庭園に行こう」と手を差し出すヨシュアに彼女は戸惑いつつ小さな指を預けた。
その後をルナーリアの母アンネマリーや侍女、ヨシュアの護衛らが微笑ましげに追う。
よく晴れた、穏やかな風の吹く日だった。
庭園に面した回廊に木漏れ日が差し込み、仄かな花の香りが幼子たちを迎えた。