1-3
ルナーリアの婚約者が決まったのは、彼女がまだ歩けもしない歳の頃の話だった。
その相手はヨシュア・フォン・リートベルク。
リートベルク王国の第二王子である。
ヨシュアと初めて顔を合わせたのは、ちょうどルナーリアが読み書きやマナーを習い始めた頃だったと記憶している。
二人の対面は、グランティエの宮殿で行われた。
後に知ったことだが、こういった国同士の政略結婚において、婚姻前に王族自ら他国に足を運ぶことは極めて異例なのだそうだ。
はしたないから、縁起が悪いから、などとそれらしい理由付けはされているが、実際のところは外堀を埋めて望まない結婚から逃げられないようにするためだと、ルナーリアは考えている。
……近頃何かと、斜に構えて考えがちだ。
もちろん、根拠がないわけではない。
婚約は破棄できるが、結婚はできない。
後者は生涯の伴侶を定め、神に誓う儀式だからだ。
身分が高いほど、その誓約は厳しくなる。
しかし言わずもがな、血統が良いからと言って容姿や人格が決まるわけではない。
逃げ道が断たれるまで両者が引き合わされないのは、そういう現実を婚前に直視させないための古くからの慣習である。
ルナーリアの二つ年上でしかないはずの彼は、どうやってかその慣習を覆した。
――はじめまして、ヨシュア・フォン・リートベルクさま。
――初めまして、ルナーリア・ド・ガティネ様。
たどたどしく習いたての淑女の礼を取ったルナーリアに、ヨシュアが優しく声をかけたあの場面を、ルナーリアは今も鮮明に思い出すことができる。
当時は「婚約者」の意味も知らなかった。
当然、両国が切望する血縁としての結びつきが自分たちの肩にかかっているなど、理解できようはずもない。
けれど、少なくともルナーリアは周囲の緊張した空気を感じ取っていたし、自分の言動が注目されていることを息苦しくも思っていた。
宮殿に足を運んだこと自体が初めてだったルナーリアの周囲には、父の他に見知った大人が居ない。
そんな中で、歳の近さを感じさせる彼の声に、ルナーリアは無条件で安心した。
つられるように彼を見上げると、闇色の髪から覗く亜麻色の眸が、声と同じに優しくルナーリアを見つめていた。
慣習など、覆して正解だった。
ルナーリアは、たった一目で、ヨシュアの虜になった。
* * *
かたかたと揺れる馬車の中で、ルナーリアはできるだけ向かいに座る人を視界に入れないようにしていた。
この狭い車内で再び目でも合わせようものなら、たちまち平常心でいられなくなり、ヨシュアへの好意を隠しておけなくなる自信があったからだ。
ヨシュアは、そんなルナーリアの心境を知ってか知らずか、不躾に彼女を観察するような真似はせず、時折会話を向けてくる以外はそっとしておいてくれた。
でも、それが少し寂しい――。
ルナーリアは慌ててその考えを打ち消した。
今のは、なんと身勝手な思考だろう。
少なくとも、同じ馬車に乗っている婚約者と視線も合わせない女が考えていいことではない。
「あの教会には、よく足を運ぶのですか?」
不意にヨシュアに声をかけられ、ルナーリアは肩を揺らした。
会話するときはさすがに体をヨシュアへ向けるが、目線はやはり上げられない。
「はい」
「何故?」
「落ち着くからです」
なんの変哲も無いはずのルナーリアの答えに、ヨシュアは興味を持ったようだった。
「貴女は、やはり信心深いわけではなかったか」
ルナーリアは驚いて、思わずヨシュアの顔を見てしまった。
だが、亜麻色の眸と目が合うと、また咄嗟に逸らす。
落ち着かない。
グランティエに限らず、聖者信仰は大陸全土に浸透している。
中でもリートベルクは聖者信仰発祥の地でもある。
この信仰心の希薄さは王子の婚約者として問題があるのかもしれない。
ルナーリアの頰がにわかに青ざめた。
「責めているわけではありません」
「……はい」
項垂れるルナーリアに、ヨシュアは苦笑を零す気配がした。
「あの教会は、聖者を祀っていないでしょう?
何故だかご存知ですか?」
ルナーリアは、ヨシュアの声色に叱責や軽蔑の響きがないことに安堵しながら、問われた意味を考える。
それは、ルナーリアの長年の疑問でもあった。
ルナーリアは素直に首を横に振る。
「あの教会は、聖者のための教会なのだそうです」
「聖者のため、ですか?」
妙に引っかかる言い回しだ。
「聖者が祈るための、です」
引っかかりの答えはヨシュアからすぐに提示されたが、それでもなおルナーリアの疑問は解消されなかった。
聖者は人に非ずと言われている。
それは、彼らが扱う力の稀有なことは勿論、彼らが「聖者」と呼ばれる所以でもある、身に纏う神聖な光や、彼らが一様に出自が不確かであること、そして伝承にある、幻想的な命の散らし方、その全てが示している。
彼らは人々に救いと癒やしをもたらす。
故に人々は、聖者に縋り、祈りを捧げる。
その聖者が、一体何に祈る必要があるのか、ルナーリアには分からなかった。