仮想世界の闇恋歌
僕は恋をした。四十代の失業者で恋なんて何を甘ったるいことを言っているのかと叱られるだろうけど、恋なんて風邪より性質の悪いもので、予防も何もできるものじゃない。
いや、ほぼ引きこもり生活をしている僕が人と会うのは、ネット通販で買ったものを運んでくる宅配便のお兄さんたちぐらいで、おまけに男色の気がない僕にとっては流石にそれで恋に落ちるはずは無くて。
でも、そんな僕が恋をしてしまったのだ。
それはネットアイドル。永遠の十六歳、でもデビューしてもう九年になるから二十五歳。一浪して大学に入っても大学院修士課程まで終われる年齢だ。それにそもそも、デビュー時点の十六歳だって本当かどうだかわからないのだけれど。そして何より。
彼女はバーチャルアイドルだ。実体を持たないデジタルデータのみの存在。二十四時間働いても僕と違って倒れることも無く、どんなに振れ幅の酷い仕事でも僕と違って逃げ出すこともなく紅い瞳で笑顔を振りまき、茜色のツインテールを揺らしている。僕は逃げ出したというのに。
閉じ籠っているというのに。
最低だ。そんな僕が彼女に恋をする資格はない。
そんなことはわかっているけれど、慣れない環境にいきなり放り込まれて残業続きでわけのわからないエゴを振りかざす奴らに挟まれて。
僕は本来、技術屋で交渉屋じゃない。幼馴染で公務員をやっている彼は、子供の頃から屁理屈大魔王でいつも人を煙に巻いてヘラヘラと頭を下げ、その癖結局は自分の思う方向へ引きずって行った。あいつは民間の営業マンはもっと大変なんだろうね、なんて言っていたけれど。
彼の変態的な交渉術の方がはるかに大変で気持ち悪い。たぶん、彼ならぶつぶつ文句を言いながらも俺を挟み込んだあいつらを乗りこなしたのかもしれない。
でも僕は。
僕はそんな人間じゃないんだ。だから僕はここにこうやって引きこもり、細々とネット経由で来るスクリプト作成や画像処理のアルバイトで食いつないでいる。もちろん、そんなことで食いつなげるってことは、僕の扱っている画像は警察が興味を持ちかねない性的なものだったり、残酷なものだったりするわけで。
そんなものを僕の大切なアイドルと一緒にはできないから、彼女は今、必ずタブレットで見るようにしている。手の中に収まる小さな画面の中、彼女が踊る姿を見ていると、彼女を腕の中で抱いているような錯覚をしてしまう。
僕はきっと、もう駄目な人間だ。
バーチャルアイドルの彼女、甘鐘麗歌は毎年、年末に2dayライブを行う。立体映像で舞台の上を所狭しと動き回り、衣装を早変わりしながら歌い続ける。僕もその日だけは外出して彼女のライブに行くようにしている。
言っては悪いけれど、会場には僕より見た目の劣っている若者もいて、その若者が友人と昨日の残業で腹立った、とか言っているのを聞くと無職の僕は気が滅入ってしまう。そして今年はとくに最悪だった。
ライブが終わってほこほこと温かい気持ちになって帰ろうとしていたら、帰路で見覚えのある顔が立っていた。学生時代よりは禿げ上がって太っているが、間違いなく先輩だ。
「お前、こんなライブに来てるのかよ」
学生時代、アニメ研にいた先輩だ。アニメは趣味と言い切り、今は税理士をやっているという。せっかくのライブだというのに革靴を履いているのは相変わらず間抜けているが、よく見るとイタリア製の革靴だ。僕は引きこもって以来買い換えていない、少し疲れてほつれ糸の見えるスニーカーが恥ずかしくなった。
「なんかボロアパートに引きこもっているって風の噂で聞いたけど、遊びに来てるなら大丈夫か。久しぶりに飲みに行くか」
「いえ、今日はちょっと、そういう気分じゃ」
「そっか、むしろ麗歌ちゃんの話で盛り上がろうぜ。俺も今日だけ嫁が許してくれてる日だしさ」
「結婚、しているんですか」
「そりゃこの年齢になればな。お前はまだか」
「まだというか。その。仕事も」
先輩の顔が急に気不味い表情に変わり、顔を背けて買い込んだグッズを所在無げに手の中で転がしながら唇を噛んだ。
「まあ、色々とあるわな。俺もたまにはやっぱ家族サービス、しておくわ」
じゃ、と手を挙げるとそそくさと人混みの中に姿を埋もれさせる。人混みはそのまま先輩を押し流して行った。
帰ろう。帰って動画を見よう。今夜は眠くなるまで、布団を被ったまま麗歌ちゃんを見続けよう。ヘッドホンをしっかりして麗歌ちゃんの声だけを聞くようにしよう。
アパートの住人に会わないよう、急いで部屋に飛び込もうとしたところ、201号室にいる初老のおばさんとばったり会ってしまった。僕は慌ててしまい、そのまま転んで折角のグッズをぶちまけてしまった。
「大丈夫ですか」
初対面のおばさんは、僕の親とあまり変わらない年齢に見える。彼女は一緒になって僕のグッズを拾い上げて袋に詰めてくれ、そしてそのグッズをじっと見つめた。
「すみません、ありがとうございます」
僕は挨拶もそこそこに自分の部屋に戻ろうとする。だがおばさんが僕の手を掴んだ。
「あなた、甘鐘麗歌のファンなのね。嬉しいわ」
え、と僕は彼女の印象と単語の間にあまりにも落差があってとっさに相手の言葉を理解できなかった。すると彼女は続けて奇妙なことを言い出した。
「麗歌は、私の孫なの」
はい。何でしょうか。僕は麗歌に恋したけれど、その辺のオタクみたいに俺の嫁、というほど恥じらいは捨てていない。だがそれ以上に、私の孫、というのは新しい切り口できたものだ。だが彼女は真顔で古びた写真を取り出した。
「ほら。私の孫の、麗歌」
古びた写真には人間になった、甘鐘麗歌が微笑んでいた。コスプレか。いやでも。何か背筋を寒いものが通り抜けた気がした。
「こんな身近に麗歌のファンがいたなんて嬉しい。せっかくだから今、麗歌と会っていきなさいよ」
「麗歌ちゃん、と?」
ええ、と言って彼女は僕の手を取る。僕はふわふわと低下した思考能力のまま階段を上る。階段がぎしぎしと軋む。一階住まいだから、僕は二階に上がったことは無い。廊下には冷たいLEDの光が細々と点いており、打ちっ放しのコンクリートの床はひたすら冷たさしか感じさせない。
彼女は自分の部屋の前を通り過ぎ、202号室の前に立った。二本の鍵がぶら下がったキーホルダーを取り出し、片方を堂々と202号室のドアノブに突き立てる。がつん、と音が鳴り扉が開いた。
扉の向こうは青色のLEDが点いており、低周波の音が聞こえる。何か、サーバの冷却ファンのような音だ。彼女はそのまま部屋の奥に進む。僕も嫌々ながら彼女の後を追う。
そして部屋の真ん中にはやはり、巨大なサーバシステムが立っており、そしてその前には人の入りそうな桐の箱が置いてあった。そしておかしなことに、サーバからは針金で作った薔薇の花が突き出していた。
「麗歌、起きなさい。あなたのファンの方、連れてきましたよ」
がたり、と箱が鳴り、箱の蓋が持ち上がる。透き通るように白い腕が蓋を持ち上げている。次いで茜色の髪が見えた。そしてぐるり、と顔がこちらを向いた。
ツインテールの茜色の髪に、紅い瞳。ついさっきライブで見たよりもリアルで、そしてはるかに美しい麗歌が僕を見つめていた。そして彼女は。
老女の首筋に唇を当てた。ちゅう、と音が聞こえ喉を鳴らす。髪と合わせた茜色のルージュが暗赤色に染まる。
「私だけだと疲れるから、こちらのファンの方にも協力していただいたら、麗歌」
老女が恍惚とした表情で僕を指さした。僕は慌てて後ろに下がろうとする。だが見えない壁が扉までの道を閉ざしていた。麗歌が、いつもの歌声よりはるかに甘い鐘の声で囁いた。
「いつも、タブレットで私の電子傀儡を見てくれていたでしょう。ハッキングしていたから、あなたのことは知っている。タブレットのカメラから、あなたのことはいつも見ていたの」
麗歌が僕に手を差し伸べる。雪のように白い腕と細い指が僕を手招きする。僕はふらふらと、彼女の傍らへ寄っていく。麗歌はつーかまえた、と相変わらず優しい声で僕を抱きしめた。
画面の中と同じく、ほとんど膨らみの無い胸の中に抱かれる。もうどうでも良いような気分になる。ちゅっ、と麗歌の唇が首筋に触れ、次いで激痛が走った。だが麗歌の腕は僕をがっちりと固めて動けない。そしてすぐに痛みは引き、自分の血液が抜かれていくのを感じる。
「麗歌、賤しくしてはいけませんよ。この人なら、ずっと貴方の側にいてくれるはずだから」
僕は老女の顔を見上げる。彼女は僕に奇妙な配置のキーボードを預けて言った。
「私の体力ではもう、麗歌を支えられない。これからは貴方が麗歌を守り続けて」
「僕が、守る」
「私の大切な孫。病死なんて許せない。このサーバで構成した呪法で、妖を召喚して麗歌の魔力として吸血鬼として生まれ変わらせたの。もう麗歌は病気になんてならないわ」
あらぬ方向を見ながら彼女は早口で言い立てる。
「でも呪法は不完全だった! 妖を破砕しきれなかったのよ。麗歌は生き血だけでは生きていけない! 世界中の人間の情念を吸い続けないと生きていけない! だから麗歌は歌い続け、世界から歓声を、想いを受け続けなければならない!」
麗歌の唇がやっと僕の首筋から離れ、そして僕の肩を優しく包み込む。
「安心して。私の遺産、つまり麗歌の売上は貴方に譲るわ。貴方は麗歌の口づけを受けたのだからどうせ一生このアパートから逃れられないし。貴方はこれから、麗歌のマネージャー兼サーバー管理者兼呪術師として一生を過ごすの」
俺は嫌だ、と叫びかけた。だが麗歌は、画面の中で悲恋の歌を歌うときよりもはるかに悲しそうな顔で僕をじっと見つめた。そしてあの、聞き慣れた声で僕の耳元で囁いた。
「貴方と、ずっと一緒にいたい」
僕はこわごわ、だがゆっくりと首を縦に振る。麗歌が僕を優しく抱きしめる。サーバが異音を発し、傍らにあった針金の薔薇が僕に襲いかかった。凄まじい熱が僕の左胸にかかり、肉の焼ける匂いが漂う。胸に薔薇の焼印が浮かび上がる。
「これで貴方と麗歌の契約が成立したの。今夜は婚礼だわ。麗歌の大好きな血のプディングでお祝いしましょう」
調子外れの金切り声で老女がウエディングソングを歌う。麗歌が甘い鐘の声でラブソングを重ねる。
僕もともに、闇のラブソングを謳う。
永遠に、血のラブソングを麗歌と歌い続ける。
ホラーって難しい。
とりあえず、美しいホラーを目指しました。