革命の火種
舞踏会が終わった翌日から、ユリはアルフレッドに戦闘の手ほどきを教わっていた。最初は、本物の銃や剣の重さに驚いたが、日々鍛錬を重ね、なんとか自分の身は守れる程度の剣の腕前になった。その上達ぶりに、アルフレッドも筋がいいと褒めてくれたほどだった。そして二か月後には、ポール・アバン公爵から正式に鎮圧部隊隊長副官任命の書状が届いた。全く従軍経験のないユリに対して副官という破格の待遇がなされたのは、もちろんアバン公爵の力が影響しているからだった。その日の夜、ユリはダリダン伯爵の部屋に呼ばれた。
「おじい様、失礼します。」
そう言って扉を開けると、部屋の奥に車いすに座ったダリダン伯爵がいた。彼は、威厳を漂わせた表情でユリを見つめると、静かにテーブルの上を示した。テーブルの上には、古い木箱が置かれていた。
「それを持ってきてくれるか、ユリ。」
伯爵に言われるまま、ユリはその木箱を伯爵に手渡した。伯爵は、木箱の蓋を丁寧に開けた。中には、漆黒に光る拳銃がしまわれていた。
「旅立ちはいつになるのか。」
「来週には旅立ちます、おじい様。」
ユリは、表情を変えずにそう返事した。ややあって、ダリダン伯爵は木箱の蓋を閉じ、ユリの方へ顔を上げた。
「これは、代々わがボードレール伯爵家に伝わる家宝の拳銃だ。お前の初陣に持って行くといい。」
そういうダリダン伯爵の瞳は、どこか悲し気だった。
「ありがたく頂戴いたします。」
ユリはそう言うと、うやうやしく木箱を受け取った。部屋から出ようとした時、背後からダリダン伯爵に呼び止められ、彼女は振り返った。
「ユリよ。女性の身でありながら、わがボードレール伯爵家のため戦にまで出陣する決心をしてくれて、感謝している。…くれぐれも、怪我のないよう気をつけなさい。」
「…はい。」
思わぬ優しい言葉に少し戸惑いながら、ユリはお辞儀をして部屋を辞した。非情で人の心を持たない、冷たい人だと思っていたダリダン伯爵の姿が、なんだか今はひどく小さいものに思えた。この人も、貴族である前に、人の親であり、私と血の繋がった祖父である事に変わりはないのだ。あの年老いた男性の双肩に、ボードレール伯爵家という名が重くのしかかっているのかと思うと、少し胸が痛んだ。貴族という名のもとに生まれていなければ、ダリダン伯爵も立派に人の親として、自分の家族を愛する事ができたのかもしれない。伯爵家という重圧が、いつしかダリダン伯爵を富と名声の名のもとに、非情な人間に変えてしまったのだろう。
ダリダン伯爵の部屋から戻る途中、中庭に差し掛かった時に、ユリを手招きする人影があった。カイトだった。
「カイト、どうしたの?」
ユリは小声で言いながらカイトに近づいた。カイトは厳しい表情をして、軍服姿に身を包んだユリの姿を見つめた。
「お前、反乱軍の鎮圧に行くって、本当なのか?」
「ええ、本当よ。」
ユリは毅然として答えた。
「本当よって、大丈夫なのかよ?そんな恰好して男みたいにしているが、お前は本当は女の子なんだ。もし戦に出て怪我でもしたらって思うと、俺は心配でならない。…なあ、どうしてもお前が行かないとダメなのか?」
「カイト…。これは、ポール・アバン公爵じきじきのお達しなのよ。ボードレール伯爵家の後継ぎとして、私はどうしても今回の戦に行かなければならないの。」
「ポール・アバン公爵なんて、くそくらえだよ。やっぱりお前はここにいるべきじゃないんだ。もういいから、俺と一緒にメリル村に帰ろう。お前は戦になんか行く必要ない!」
カイトは語気を荒げると、ユリの腕を掴んで歩き出そうとした。ユリは、「ちょっと、やめてよ!」と、力いっぱいカイトの腕から逃れると、先ほどダリダン伯爵から預かった拳銃が入った木箱を抱きしめた。
「メリル村に帰るなんて、できないよ。私、小父様と約束したんだもの。ボードレール伯爵家の後継ぎになるって。何も知らないくせに、勝手な事言わないで!」
「小父様と約束…ね。何も知らないのは、お前の方なんじゃないのか?」
カイトの含みのある発言に、ユリは眉をひそめた。
「何よ、それ?あなたが小父様の、一体何を知っているっていうの?」
「ラルフの事なら知ってるぜ。あの舞踏会の夜、俺はある場所に連れていかれたんだ。」
「ある場所?」
訝しんで聞いてきたユリに、カイトはジュリアン王子の別邸で見聞きした出来事を伝えた。彼の話を聞いたユリは、信じられないというように放心していた。
「そんな…。小父様が、都の若者達に反乱思想を広めているなんて、信じられないわ!」
そう言って首を振るユリを、カイトは痛ましい表情で見つめた。
「お前が信じられないって言うんなら、仕方ない。でも、俺は確かにこの耳で聞いたんだ。それになユリア。アリラン王国の各地で反乱の火種が燻るようになったのは、ここ三、四年だろ?ラルフが戦地から戻ってきたのも、ちょうどその頃だ。戦地から戻ったラルフは、度々地方へ訪れて忙しく動き回っていた。その間、あいつは地方に反乱思想をまき散らしていたのかも知れない。恵まれた貴族の家に生まれて何が不満なのかは分からないけど。もしかしたら、この国の各地で巻き起こっている反乱の火種をつけて回っているのは、ラルフなのかもな。」
カイトの話を聞きながら、少し冷静さを取り戻しつつあったユリには、ラルフがこの国の貴族制度を憎む理由に、一つだけ思い当っていた。戦地から戻り、リリーの墓前に花を手向けた時、ラルフは泣いていた。泣きながらこう話しているのを、ユリは木陰から見ていたのだ。
「リリー。君が使用人でなければ、都から追い出される事なく、今もフィリップと幸せに暮らせていたかもしれないのに。…君が平民でなければ、こんな田舎で暮らす事もなく、ちゃんとした医療も受けられて、助かったかもしれないのに。…この国に貴族制度さえなければ、君は助かったかもしれないのに…!」
悲しみや憎しみといった感情を絞り出すように語るラルフの背中を、ユリは一日たりとも忘れた事はなかった。今ならわかる。あの時、ラルフは墓に眠るリリーに誓ったのだ。絶対にこの国から貴族制度を廃止して、この国を変えてみせる!と―。ユリには、ラルフの気持ちが痛いほどわかった。あの日、彼女も幼いながらに思ったからだ。お母さんがもっとお金持ちであれば、お母さんが貴族であれば、こんな田舎で流行病にかかって死んだりなどしなかっただろうに、と。ラルフは、リリーのように不幸のまま亡くなっていく人をこれ以上増やしたくないのだ。そのために、この国を変えようとしている。カイトの話を聞いて、ユリはそう確信した。しかし今、ユリは反乱軍の鎮圧という、ラルフの望みとは正反対の事をしようとしている。それは果たして、正しい事なのだろうか。彼女の心は揺れた。来週戦地に出発する日、ラルフは自分に会いに来てくれると言っていた。その時に、彼に直接聞いてみよう。彼女はそう決心した。
五年前、アリラン王国は、海を隔てた大陸で起こった独立戦争に友好国として参加した。アリラン王国の兵力の主だった構成員は、平民であった。そして、平民軍をまとめる指揮官として、子爵以下の貴族の子息が招集された。ラルフも当然、オーレン子爵家の養子として、戦争への参加を求められた。アリラン王国では、同じ貴族と言えども、子爵以下とそれより上位の貴族とでは、地位や財産に雲泥の差があった。子爵、男爵家の中でも特に貧しい家などは、農民と変わらないような暮らしを強いられている家もあるほどだ。戦争に参戦する数日前、ラルフは突然リリーとユリアの家を訪れた。彼は、都で一番の腕前だと評判のある画家を連れてきていた。その画家は、一日かけてリリーとユリアの小さな肖像画を完成させた。ラルフは、その肖像画をいつも携帯している手帳に大切そうにしまうと、その日のうちに都へと戻っていった。いま考えれば、ラルフは、これがリリーと会える最後の機会になるかもしれないと、心のどこかで悟っていたのかもしれなかった。その頃からリリーの体調は少しずつ崩れ初めていたのだ。大陸へ渡り、前線に送られたラルフは、一個中隊を任された。ラルフが任された隊は、国から強制的に集められた農民を中心とした部隊だった。隊員たちは、農作業を無理矢理中断させられて戦争に駆り出された事を不満に感じ、前線でも日々酒を煽り、荒れた生活を送っていた。ラルフは、そんな隊員達になんとか打ち解けてもらおうと、毎晩隊員達の酒盛りに付き合う事にした。隊員達は、最初はラルフの態度を訝しんでみていたが、徐々に彼の人となりに感化され、少しずつ打ち解けるようになってきた。そんなある日の夜、隊員達が、例によって近くの農家からもらってきたという酒を持って、ラルフのテントを訪れた。
「よ、隊長さん。今夜もこれ、やるか?」
無精ひげを生やしたリチャードという男が、酒瓶を片手にテントに入ってきた。数人の隊員がそれに続く。ラルフは、手にしていた大陸の地図が記された紙をテーブルに置き、地面に胡坐をかいて座った。
「隊長さん、何を熱心に見てたんだ?そんなに熱心に作戦を考える必要はないと思うぜ。隊長さんも、先だっての前線の様子を見ただろう?大陸の大砲って武器は、すさまじい威力を持っている。しかも大砲の射程距離は、拳銃の比じゃねぇ。大陸の奴らは、大砲を駆使して遠くにいながら敵を射止める事ができる。この前の戦だって、俺たちは大砲の後方にいるだけで、傷一つ負う事はなかった。アリラン王国の上の奴らだって、俺たちには何も求めてねぇよ。ただの人数合わせで俺たちをかき集めただけだ。俺たちは、ただ突っ立ってれば、大陸の奴らが勝手に戦って勝利してくれるさ。」
リチャードはため息交じりにそう言うと、ラルフの隣にドカッと腰を下ろした。ラルフの手元にあったグラスに、酒がたんまりと注がれる。ラルフは、黙ってそれを喉に流し込む。
「おっ!隊長さん、なかなかやるじゃねぇか。」
リチャードはそう言うと、嬉しそうに他の隊員達とも酒を酌み交わす。隊員達の話は、他愛ない話から、やがて故郷に残してきた家族や農地の話になった。
「しかし、一体いつまでこのアホみたいな戦争に参加していればいいんだろうな。国では、そろそろ作物を収穫する時期だってのに。男手がなくなって、国に残してきた家族が心配だよ。」
「早く家に帰って嫁さんの顔を拝みてぇな。」
隊員達は、口々に不満をこぼす。
「隊長さんよ、あんたはいいよな。ろくに働かなくても、貴族様ってだけで金がもらえて飯が食えるんだから。」
隊員の一人が、ラルフに話しかけてきた。彼の顔は赤く染まり、だいぶ酔っているようだった。ラルフはその隊員の方に向き直ると、
「そうでもないさ。皆も知っていると思うが、同じ貴族といっても、子爵以下は農民とそう変わらん。現に私も今はこうして皆と同じように、人数合わせのために前線に送られている一人の人間に過ぎん。そうだろ?」
と言い、笑った。と、隊員達が一瞬静まり、それからどっと笑いが起こった。
「違いねぇ!じゃなきゃ、お偉い貴族様が、こんなところに送られる訳はねぇよな!」
「しかし、あんたみたいな人が俺たちクズの掃き溜めみたいな部隊に配属されるなんて、気の毒な話だな。」
リチャードが、ふと真面目な顔になって言った。
「今まで見てきたたいていの貴族様は、俺たち平民を同じ人間だなんて思っていなかった。貴族様が、俺たちとこうして酒を酌み交わすって事だけでも、信じられない。」
「そうそう。この隊にももう一人いるじゃないか。お高い貴族様が。」
リチャードの隣に座っていた男が、怒ったようにそう言ってグラスを力強く地面に下ろした。
「なに、貴族が?」
ラルフは、初めて知る事実に眉をひそめる。ここに配属される前に、隊にもう一人貴族がいるという話は聞いていなかったからだ。するとその男は、不愉快そうにテントの外を指さすと、
「あそこの焚火の側に、一人男が座っているでしょう。あいつですよ。あの根暗野郎、男爵様のご子息だかなんだか知らないが、俺たちの事をまるで虫けらでも見るような眼で見てやがる。いつも冷たい無表情な顔をして、俺たちとろくに話そうともしないんですよ。あなたとは大違いだ。」
と言った。
「ほお、男爵?名は何というんだ?」
ラルフは、焚火の傍で一人静かに座る男に興味が湧き、そう尋ねた。
「奴の名前は、アルフレッド・カルマン。もとは平民でしたが、村一番の秀才で、後継ぎがいなかったカルマン男爵家に請われて、養子になったんですよ。もとは俺たちと同じ平民だってのに、貴族の養子になったってだけで鼻持ちならない態度取りやがって。」
男が、面白くなさそうな顔で答えた。
「アルフレッド・カルマン…ね。」
ラルフは、男から聞いた名前を興味深げに反芻した。
隊員たちが寝静まった頃、静寂漂う闇夜に、アルフレッド・カルマンは一人じっと座って、遠くに見える山の頂上を見つめていた。ラルフはなぜかこの男に興味を覚え、声をかけてみようと思った。ランプに火を灯し彼の傍に歩いていくと、アルフレッドの右手がスッと隣に置いてあった剣に移動した。この男、できる。ラルフは直感した。
「やあ、アルフレッド。安心しろ、私は敵ではない。」
ラルフの声を聴いて、アルフレッドは右手で剣を握るのをやめた。そのままちらっとラルフを一瞥すると、低い声で、
「ラルフ・オーレン隊長、何かご用ですか?」
と聞いてきた。
「お前はいつも、他の隊員達が寝静まった夜中でもそうして起きて座っている。お前が一体何を考えているのか、興味があってな。」
ラルフは、そう言いながらアルフレッドの隣に腰かけた。アルフレッドは冷たい視線を寄越すと、
「私が考えている事?決まっているじゃありませんか。ここの隊員のあまりに呑気な考え方に、辟易していたんですよ。」
と言った。
「というと?」
「あなたもお気づきではないのですか?我々が駐屯しているこの地形。独立を要求する反乱軍と大陸の軍隊のちょうど中間に位置する盆地だ。しかも反乱軍の駐屯地は、山を隔てた向こう側にあり、反乱軍の動きが非情に読みにくい状況にあります。こんなところに部隊を駐屯させるなんて、あまりにも分が悪すぎる。もちろん、こちらも見張りは常につけていますが、しょせんその見張りも平民上がりの呑気な奴らだ。彼らに任せておいて、反乱軍の動きが正確に探れるとはとても思えません。それに、今日戦闘から本隊が引き上げた地点は、前日の場所よりも遠くなっている。なぜだと思われます?」
アルフレッドは、月明かりを浴びてぎらぎらと光る眼鏡の奥から、鋭い視線をラルフに寄越してきた。ラルフは、一呼吸置いて考えると、
「本隊が馬車で運んでいる積荷―大砲の火薬が、残り少なくなったからか。積荷が軽くなったから、前日よりも移動距離が伸びた。」
と言った。アルフレッドは小さく頷く。
「その通りです。そして我らの隊は、その事を知らされていない。…おそらく本隊は、火薬が尽きそうになって一旦引き返す事にした。我らの隊は、退却を決めた本隊と反乱軍の中間地点にいる。…この意味、あなた様ならお分かりになりますよね?」
「囮…だな。」
ラルフは声を落として答えた。本隊は、平民の寄せ集めでできたラルフの中隊を囮にして、その隙に退却する作戦なのだろう。退路についた本隊から大砲が発せられないとなると、火薬が尽きた事を反乱軍に悟られてしまう。そうすれば、反乱軍は一気に総攻撃をしかけてくるに違いない。本隊は、そうならないために、気まぐれに残り少ない大砲を反乱軍に向けて発砲しては引き返すという行動を繰り返し、徐々に退路の距離を伸ばし、国境近くまで逃れれば一気に退却する心づもりなのだろう。ラルフの隊が殿を任されているというのは名目上の話で、その実は、本隊を無傷で退却させるための囮というわけだ。
「まあ、殿とは本来、本隊が危険にさらされた時は、その身を犠牲にしてでも本隊を逃すという義務があるものです。隊員達は、平民上がりで戦争の経験はない。いまだ本隊の火薬が尽きかけているという事実に気付かず、本隊が反乱軍より優位に立っていると信じているのです。…しかし本隊が大砲を発砲する回数は、明らかに減少してきている。反乱軍もバカでなければ、その事実に気がついているはずです。いま反乱軍は、殿である私達の隊を襲撃する機会をうかがっているはず。私の考えが正しければ、今日明日にでも反乱軍は我が隊に奇襲を仕掛けてくるかもしれない。こんな時に、おちおち寝ていられる隊員達の呑気さが、私には理解できません。」
アルフレッドは静かに話した。ラルフは、アルフレッドの聡明さに唸りながら、
「実は私も、ここの地形が気になっていたんだ。こんな分の悪い地形に、わざわざ私達の隊を駐屯させる本隊の意図は一体なんだろう、とね。しかし今の君の意見を聞いて、確信が得られたよ。本隊は、ここで反乱軍に私達の隊を襲撃させようとしている。私達をわざとこの地形的に不利な盆地に駐屯させ、反乱軍を誘っているんだ。」
と言った。
「その隙に、本隊は退却するつもりなのでしょうね。…貴族というものは本当に、どこまで汚い生き物なのでしょうか。」
「君は、貴族が嫌いなのだな。その割には、君は貴族の養子になったそうじゃないか。」
ラルフが意地悪そうに尋ねた。
「私が貴族の養子になったのは、そうしなければ明日食べるものにさえ困るほど生活が困窮していたからですよ。貴族になるために、死にもの狂いで勉強しました。貴族は嫌いだが、貴族にならなければ、生きていけなかった。」
そう語るアルフレッドの瞳は、氷のように冷たかった。まだ二十代前半であろうこの若者は、どれだけ世の中の辛酸を舐めて生きてきたのだろうか。と、ランプの火が消えかけたため、ろうそくを付け替えようとした時、ラルフの胸元から古びた手帳がすり抜け、地面に落ちた。手帳のページが開き、中にはせてあった小さな肖像画が露わになった。
「あっ」
ラルフが言うが早いか、アルフレッドがその手帳を拾い上げた。
「…お綺麗な方ですね。」
そう言うと、アルフレッドはしばらくその肖像画を眺めた。
「私の大切な人達なんだよ。この戦争に来る前に画家に描いてもらったんだ。よく描けているだろう?」
ラルフは目を細めながら言った。
「この娘さん、お名前は何とおっしゃるのですか?」
アルフレッドから思わぬ質問が飛び出し、ラルフは少しおかしくなって噴き出した。
「どうした、お前はロリコンだったのか?彼女はまだ十一歳になったばかりだぞ。…まあ、お前が一目惚れするのも無理はないか。その子はユリアというんだ。まるで天使のように可愛いだろう?」
「ユリア、ですか。」
アルフレッドの指先が、肖像画の中で微笑むユリアの姿を優しくなぞった。そのしぐさは、きな臭い戦場にはあまりにも似つかわしくない、温かい情を感じさせた。と、二人の後方でいきなり馬が嘶いた。アルフレッドはハッとして刀を抜く。ラルフも拳銃を構えた。
「敵だ!早く明りをつけろ!皆、起きろ。敵襲だっ!」
ラルフはそう叫ぶと、反乱軍の襲撃を受けて乱戦となっている隊員の下へ向かおうとした。と、突然背後から首元に強い衝撃を受けて、その場に倒れこんでしまった。
「なっ…」
混濁する意識の中で、彼の眼前にアルフレッドの姿が映った。
「ラルフ様。あなたは死んではなりません。…あなたに死なれては、困る。」
アルフレッドはそう言うと、気を失いかけているラルフの身体を肩に担いだ。
「こちらに、昼間探っておいた抜け道があります。そこを通って、本隊と合流しましょう。…残念ですが、彼らはもう助かりません。あの人数の敵を相手に、平民上がりの隊が勝てるわけはない。あなたが助けに行っても、無駄死にするだけです。…あなたには、生きてもらわなければ。生きて、私を彼女に会わせると、約束してくれますか。そのためならば私は、この命をかけてあなたを守ります。」
薄れていく意識の中で、アルフレッドの逸る息遣いだけが、いつまでもラルフの耳元に残っていた。こんな状況なのに、アルフレッドの顔は何故か歓喜に満ちているように見えた。まるで、やっと出会えた最愛の人の下へ向かう恋人のように―。
戦地から戻ったアルフレッドに、彼が帰る家はなかった。もともと貧しかったカルマン男爵家は、続く不作に耐え兼ね、男爵家としての対面を保つ事ができなくなった。万策尽きたカルマン男爵は、商家に男爵家の爵位を売ってしまったのだった。行き場を失ったアルフレッドを、ラルフは秘書としてボードレール伯爵家に迎え入れた。命を救ってくれた礼として、近いうちに必ずユリアに会わせるという約束で。―いまからしても、アルフレッド・カルマンという男との劇的な出会い、そして不思議な巡り合わせに、ラルフは神のいたずらすら感じる事がある。昔の事を思い出しながら、ラルフはボードレール家の屋敷へと続く庭の道を歩いていた。今日は、ユリが初陣に出発する日なのだ。私とアルフレッドという青年を不思議な縁で結び合わせた、天使のような少女が。
「小父様!」
扉を開けると、真新しい軍服に身を包み、輝くような笑顔をしたユリが立っていた。
「おお、ユリ。なかなか似合うじゃないか。」
ラルフは目を細めてユリの頭を撫でる。と、部屋の隅にいたアルフレッドがわざとらしく咳払いをした。
「アルフレッド、そこにいたのか。」
ラルフは意地悪そうな笑みを浮かべて彼に声をかけた。アルフレッドは、ラルフに返事する事なく、そっぽを向いてしまった。
「小父様、お気になさらないでください。彼は誰に対してもあんな調子なんです。」
ユリが気まずそうに上目遣いで言った。
「誰に対しても、ねぇ。」
ラルフは、しょうがないといったように溜息をついた。
「ところでユリ、もう出発の準備はできたのか?」
「はい、この通り。…カイトには随分と反対されましたが、ポール・アバン公爵じきじきのお達しでは、断れるわけもありません。」
ユリは、沈んだ様子でそう言った。
「…そうだな。ユリ、くれぐれも怪我をしないようにな。」
「はい。」
輝く瞳で真っ直ぐに自分を見てくるユリの姿に愛おしさを覚え、ラルフは思わずユリを抱きしめた。
「…!お、小父様…」
突然に事に赤くなって身を固くしているユリの頭を、ラルフは優しく撫でた。
「すまない、ユリ。君をこんな事にまで巻き込んでしまって。」
「な、なにを仰るんですか。私は小父様のお役に立ちたい一心で、ここまで来たのです。今回の戦でも、私はあなたの役に立ちたい。…教えてください、小父様。私はどうすればいいのです?」
「どう、とは?」
ラルフは不思議そうに首をかしげる。
「カイトから聞きました。小父様はこの国の若者達に、平等な国造りを訴えていると。小父様は、反乱軍の味方をしておられるのでしょう?教えてください、私はどうすればいいのでしょう。もしあなたが、今回の戦に負けろと仰るのなら、私は…」
ユリが言い終わらないうちに、ラルフは人差指でユリの言葉を塞いだ。
「お前はいらぬ心配をしなくてもいいんだよ、ユリ。お前は自分の仕事を全うすればいい。私のために、わざと負けようだなんて馬鹿な考えは持たない方がいい。そんな事をすれば、お前の命が危険にさらされる事になる。」
「でも、小父様…!」
なおもすがりつこうとするユリから身体を離すと、ラルフはアルフレッドの方を向き、
「アルフレッド。ユリの事は、君に任せたよ。」
と言った。
「あなたに言われるまでもありません。ご心配なく。」
アルフレッドは静かにそう言うと、ラルフに一礼した。ラルフが部屋から去った後、ユリは緊張の糸が切れたように、その場に座り込んでしまった。
「小父様…」
ラルフが考えている事がわからない。ラルフが反乱軍の考えに賛同して、この国を変えようとしているのなら、何とか彼の力になりたいのに。私では、彼の役に立つ事はできないのか。沈んだ表情でラルフが消えていったドアを見つめていたユリの傍に、いつのまにかアルフレッドが立っていた。彼は、冷たい瞳でユリを見下ろすと、
「ラルフ様のお言葉、あなたもお聞きになったでしょう?あなたは余計な事は考えず、反乱軍の鎮圧に集中なさればよろしいのです。…それが、ラルフ様の手助けをする事にもつながるのですから。」
自分の考えている事がすべて見透かされているようなアルフレッドの言葉に、ユリは反論する気力を失った。
ユリが反乱軍鎮圧に旅立ったのと同じ頃、革命を求める若者の一部が暴徒化して貴族の館を襲撃するという事件が、ポツリポツリと発生していた。カイトも、ジムと連れだって頻繁にジュリアン王子の別邸を訪れ、若者達の政治論を熱心に聞くようになっていた。そんなある晩、カイトとジムがボードレール伯爵家の屋敷に戻ると、真っ青な顔をしたシーラが門の前に立っていた。
「シーラ!一体、どうしたんだ?」
身体がすっかり冷え切ってしまっているシーラの肩を掴み、カイトが驚いて尋ねた。すると、シーラは震える唇を微かに開き、
「お義父さんが…」
と呟いた。
「お義父さん?アレンだな。彼が、どうかしたのか?」
額に汗を浮かべて聞くカイトに、シーラは無言のまま裏庭を示した。カイトは、ジムに目配せして急いで裏庭へ向かった。裏庭にある木造の使用人部屋の一室に明りがついており、使用人達がその周りを囲んでいた。カイトは嫌な予感がして歩を速めた。部屋に入ると、白い顔をしてベッドに寝かされたアレンの姿が目に入った。その傍らに、手紙のようなものを握りしめたラルフが立っていた。
「ラルフ様…?一体、これは何事ですか?」
カイトは真っ青になって聞いた。周りを取り囲んでいる使用人達が口々に、「アレンは首を吊ったんだよ、カイト。」「彼はもう死んでる。」と言ってきた。ラルフは、ちらっとカイトを一瞥して、手にしていた手紙を渡した。カイトは必至でその手紙に見入った。ラルフは、カイトと入れ違うようにして部屋から出る途中、立ち止まり、
「彼に字を教えてやっていたそうだな、カイト?」
と聞いてきた。カイトは、手紙の文面を読むのに必死になっており、答える事ができなかった。彼の頭の中には、いつも早起きして必死にカイトの授業に聞き入るアレンの姿が思い出されていた。
「…いい事をしたな。お前は、彼に懺悔する機会を与えてやったんだ。お前に懺悔する事ができて、彼はようやく罪の意識から解放されたんだ。」
ラルフの言葉が聞こえてきたが、彼が何を言っているのか理解しようとする余裕さえ今のカイトには無かった。アレンの手紙には、つたない文字でこう書かれていたのだ。
~シーラ、そしてカイトへ~
シーラ、長い間隠していて悪かった。お前は幼い頃からずっと、なぜわしの舌が切断されているのか知りたがっていたな。だが、わしの心を慮ってか、直接聞こうとはしなかった。もっとも、お前に理由を聞かれても、わしも答える事はできなかったじゃろう。長い間、この秘密をわし一人で抱えている事が辛かった。しかしカイトが現れ、わしに文字の読み書きを教えてくれた。…しかもカイトは、あの事故で亡くなった人の事を気にしていた。あの時、カイトの真剣な瞳を見て、わしは確信したんじゃ。あの事故で亡くなったマリアンヌ・ベルラン婦人には、生きていればカイトと同年代になる息子さんがおられたはずじゃ。カイトは、きっとその息子さんに間違いない、とな。わしは、この奇跡のような巡り合わせに、神様のご意志を感じざるを得なかった。神様が今、わしに懺悔せよと命じられているのだとな。だからシーラ、お前を残して逝くわしを、どうか許してほしい。わしはこの秘密を打ち明けてしまえば、生きていけないことは分かっていた。こんな大罪を犯したのに、わしがのうのうと今日まで生きてきたのは、他ならないシーラ、お前を育てるためだよ。お前を育てるために、わしはダリダン伯爵に懇願したんじゃ。お前を育てるためなら、秘密を守るために舌を切断させられる事くらい、わしにとってはなんでもない事じゃった。お前は、不幸な出自をものともせず、美しく聡明な娘に成長した。カイトと初めて会ったとき、お前とあまりにも顔が似ているので、驚いたものだったよ。こんな立派な兄さんがいてくれるのだから、もう安心じゃ。もはや、わしがお前にしてやれる事は、真実を話す事のみとなってしまった。お前がこの真実を知ったら、わしを憎むようになってしまうかもしれないが、それも致し方ないことだ。
今から十三年前、シモーヌ様がライオネル様を身ごもっておられる頃、わしは地方へご公務に出かけられていたフィリップ様に御者として同行していた。出張先に早馬がきて、シモーヌ様が産気づかれたという話を聞いたフィリップ様は、嵐の夜だったが、急いで馬車を都へ走らせた。都へ帰る途中、ロジャー・ベルラン男爵の領地の中で川の近くを馬車で駆けていた時、わしは突然現れた人影を曳いてしまった。ものすごい衝撃とともに馬車が横転し、わしは車外に放り出された。必死になって馬車に戻ると、車内には頭から血を流して意識を失っているフィリップ様がおられた。わしは急いでフィリップ様を外へ担ぎ出した。すると、倒れている馬の下から、うめき声がしたんじゃ。急いで馬の身体の下を覗くと、蒼白な顔をしたご婦人マリアンヌ様がおられた。わしは大慌てで力の限り馬の身体をどけたが、時すでに遅く、彼女の身体からは大量の血が流れ出していた。そしてその彼女の腕の中には、熱に浮かされて力弱く泣く赤ん坊がいた。どうしていいかわからず戸惑っていると、彼女が言ったんじゃ。
「私はもうだめ。私の命はどうなってもいいから、この子だけは助けてあげて。」
と。泣きながら、必死にそう言うんじゃ。わしは頭が真っ白になった。しかし、このままここで雨に打たれておれば、高い熱を出しているこの赤ん坊の命は助からんじゃろうと思い、無我夢中で彼女から赤ん坊を受け取った。何とか彼女の出血を止めようと頑張ったんじゃが、激しい風雨に阻まれて出来なかった。彼女は最後の最後まで、泣きながらわしを拝んでおった。
「赤ちゃんを助けてくれてありがとう、ありがとう。」
と。しばらくして、彼女の意識は徐々に遠のいていった―。そうしているうちに、フィリップ様のお顔が土気色になってきて、わしは怖くなって、その場から赤ん坊とフィリップ様を連れて去った。必死の思いでボードレール伯爵家にたどり着いたが、フィリップ様はそれからしばらくして亡くなってしまわれた。わしは、伯爵様に事の顛末を報告した。伯爵様は、赤ん坊の命だけは助けてほしいと懇願するわしの願いを聞き入れる代わりに、秘密を守るためにわしの舌を切断させた。わしは赤ん坊にシーラという名前をつけて、大切に育てた。―これが真実だ。どのように釈明しようと、わしがマリアンヌ様を撥ね、殺した事に変わりはない。カイト、シーラ、君たちには、いくら謝っても足りない。せめて、わしの命を持って償わせてほしい。本当にすまない。
「知らなかった。…マリアンヌを撥ねたのが、アレンだったとは。事故の事を知ったダリダン伯爵は、権力を行使して事故の証拠をすべて抹消してしまったのだろう。いくらダリダン伯爵といえど、男爵の奥方を馬車で撥ねてしまったという事実が明るみになれば、体裁が悪いからな。事故の後、ロジャーが半狂乱になって犯人を捜していたが、結局すべての証拠が抹消されていて、何も掴む事はできなかった。次第に、彼は自分の力ではどうしようもない権力の壁に阻まれ、精神を病んだ。そして、事故を起こした犯人への復讐のために武器を集めて屋敷に閉じこもるようになった。そのうち、彼は乱心して謀反を企てているとされ、男爵家は爵位を剥奪された。絶望に打ちひしがれたロジャーは、やがて自ら命を絶ってしまった。私は長年、一連の事件を調べてきたが、証拠となるものすべてが隠ぺいされていて、何も分からなかった。…まさかこんなに近くに真実が隠れていたとは、な。」
独り言のように、降りしきる雨を見つめながらラルフが言った。
「長年調べてたって、あんた、父さんの何なんだよ?」
「ロジャーは、私の親友だった男だ。…カイト、お前は少しロジャーに似ているよ。」
語気を荒げて問うカイトに、ラルフは悲しそうな目をして答えた。
「…」
こいつも、俺の父さんの死をずっと悲しんでいたのか。人知れず、父さんの無実を信じて、あの事件の事を調べていたのか。そう思うと、今まで掴みきれない人物だと思っていたラルフが、少しだけ近い存在のように感じられた。
「な、カイト。この世に、貴族なんてあってはならないんだ。貴族なんてものがある限り、俺たち平民の不幸の連鎖は止められない。お前もこの憎しみ、怒り、悲しみを、国にぶつけるんだ。お前と同じように苦しい思いをしてきた平民達と一緒に、お前も戦おう!」
ジムは、静かだが強い意志を持ってカイトの背中をさすりながら言った。カイトは、黙ってアレンの手紙を握りしめていた。―わかっている。憎むべき相手は、アレンではない。あの事故は、偶然に起きた不幸な出来事だった。その出来事のせいで、彼がこれまでに抱えてきた苦悩は、計り知れないほど深いものであった事は、この謝罪文から痛いほど伝わってきた。ただ許せないのは、アレンの舌を切断して事故を隠ぺいし、ロジャーに謀反の罪を着せて彼を自殺に追いやった、ダリダン伯爵だ。そして、彼にそうできるほどの強大な権力を持たせたこの国の体制そのもの。貴族は笑い、平民は地べたを這いずり回って苦悩して生きていかなければならない、この国の体制をこそ憎むべきなんだ。
「大陸では、平民が自らの力で立ち上がり、国の政治を変えるために活動する事を〝革命〟と呼んでいる。」
小屋の戸口に立つラルフが、こちらを向いて静かに言った。
「革命…?」
カイトは、涙に濡れた顔を上げた。
「カイト。お前も、我々が起こす革命に参加しなさい。」
さっきまでしきりに降っていた雨はやがて小雨になり、ラルフの後ろに見える夜空が白じんできていた。それはまるで、この国の夜明けを示唆しているかのような光景であった。




