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名家の秘密

 ボードレール家の屋敷に着くと、門の前で使用人達が列を成してユリ達を迎え入れてくれた。門に入る前に、ラルフがユリにこっそりと耳打ちをしてきた。

「ユリ、今日から君はここで暮らす事になる。私はここの住人ではないし、こう見えていろいろと忙しい身だから、君と毎日は一緒にいてやれない。だから、くれぐれも用心するんだよ。君が女性である事を、周囲に決して悟られてはいけない。君が本当は女性だと知っているのは、ダリダン・ボードレール伯爵唯一人だけなのだから。」

「はい、小父様。」

 ユリはゴクリと唾を飲み込むと、そう言って頷いてみせた。なんだか想像したよりもずっと、自分は厳しい環境に身を置かなければならないようだ。と、門の前に立っていた使用人らしき男が、二人の前に歩み出て丁寧なお辞儀をした。

「ようこそ、ラルフ様。そちらが、次期ご当主様になられる、ユリ様でございますか。」

 細身で長身のその男は、全身を黒ずくめの衣装で覆っていた。年の頃は、二十代後半だろうか。日の光を反射して光る眼鏡の奥に、眼光鋭い瞳が垣間見えて、ユリはゾクリと身震いした。なんだろう、この人。どうして初めて会ったばかりなのに、私をこんな目で見るのだろうか。その目はまるで、蛇が獲物となるカエルを見据えるような、本能の奥底を抉ってくるような、貪欲な眼差しだった。ユリは今まで、他人からこんな眼差しで見つめられた事などなく、初めての事に戸惑いを隠せずにいた。と、男が口の端にうっすらと笑みを浮かべ、

「失礼いたしました、ユリ様。あなた様があまりにお美しかったので、つい見とれてしまいました。」

 と言い、咳払いをすると、改めて姿勢を正した。

「申し遅れました。私、この度あなた様の秘書を任されました、アルフレッド・カルマンという者です。どうぞ、アルフレッドとお呼びください。」

「ひ、秘書?」

 驚いてラルフを見ると、彼は優しく微笑みながら、

「そうだよ。この男は使える男でね、これから何かと君の役に立ってくれるはずだから。何でも、彼に申し付けるといい。」

 と言った。申し付けると言っても、秘書なんて何をする仕事なのかすらよく分からない。それに、この男の底知れない瞳。あの、何もかも見透かしたような瞳には、私の秘密なんてすぐに暴かれるのではないか。私が男ではない事など、すぐに見抜かれてしまうのでは。そんな不安が、彼女の心を搔き乱した。動揺しているユリをよそに、アルフレッドの視線は、二人の背後に立つ少年に向けられた。

「時に、ラルフ様。あの者は一体?」

「ああ、彼か。彼はユリの友達で、カイトというんだ。悪いが、これからボードレール家の使用人として、彼を雇ってほしい。…そうだな、差し当たって、ジムの仕事を手伝わせてやってくれないか。」

 ラルフは、アルフレッドの前で両手を合わせて、目配せをしてみせた。

「…ジムの仕事を?」

 アルフレッドの表情が一瞬険しいものに変わった。ややあって、彼は溜息をつくと、

「あなた様はそうやって、いろんな人を拾って来られる。」

 と苦笑した。

「わかりました。他ならぬあなた様の頼みであるならば、彼の身柄、私が引き受けましょう。」

 アルフレッドはそう言うと、使用人の一人に何やら耳打ちした。耳打ちされた使用人は、畏まりましたと頷くと、カイトに向かって手招きをした。カイトはユリの方を一瞥すると、その使用人の後に付いて行こうとした。

「カイト!」

 ユリは心配そうな表情で彼の背中に声をかけた。

「何だよ?」

 カイトが不機嫌そうな表情で振り返る。

「頑張って働くんだぞ。使用人さん達に、迷惑をかけちゃダメだからな!」

 自分でも驚くほど、流暢に男性の話し方ができた事に内心驚きつつ、ユリは言った。カイトは面倒臭そうに頷くと、使用人とともに屋敷の裏の方へと姿を消した。いつも一緒で、本当の兄妹のように育ってきた幼馴染みのカイト。幼い頃は、いつも傍らに寄り添ってくれていたカイトが、成長するにつれて次第に自分と距離を置くようになったように感じる。それは、彼が男性で、自分が女性だからなのか。しかし、それ以上の奥深い何かがカイトの中には燻っていて、その闇にはユリは決して触れさせてもらえない。その闇を抱えるが故に、カイトはユリと距離を置くようになったのではないかと、最近考えるようになった。カイトと一緒にボードレール家に来られた事は、本当はとても嬉しいし、心強い。しかしそれ以上に、彼の身に何も起こらなければ良いのにと、何故か不安な気持ちの方がユリの中で大きくなっていた。

「それではユリ様、ダリダン伯爵がお待ちですので。」

 アルフレッドはそう言うと、ユリの手を取って歩き出した。

「ひ、一人で歩ける!」

 ラルフ以外の男性に、生まれてこのかた手も握られた事がないユリは、動揺して彼の手を振りほどいた。

「…失礼いたしました。」

 アルフレッドの眼鏡が、日の光を浴びてキラリと光った。一瞬触れた彼の手は、人のものとは思えないほどひんやりとして冷たかった。ユリは、これから進まなければならない道に一抹の不安を感じ、背後を振り返った。と、背後に立つラルフが、少し心配そうに微笑んでみせた。全ては彼、ラルフのためなのだ。怖がっていてはいけない。もう、決心したのだから。ユリはそう強く心に言い聞かせ、背筋を伸ばして歩を進めた。


 アルフレッドに連れられて入った広間には、豪華絢爛な家具や調度品が並べられていた。その部屋の一番奥に置かれた美しい彫刻が施された椅子に、この家の現当主である、ダリダン・ボードレール伯爵が座っていた。年の頃は七十歳近いだろうか。豊かな白髪を後ろで束ね、口ひげを生やしたその老人には、厳格な威厳が漂っていた。そして、その老人の横には、派手なドレスを身にまとった四十代くらいの女性が立っていた。どきつい化粧を施したその女性は、口を一文字に結び、ユリを冷たい目で見下ろしていた。

「ダリダン様、シモーヌ様。こちらが、フィリップ様とリリー様が残された一人息子、ユリ様にあらせられます。」

 アルフレッドは、目の前の二人にユリの事を紹介した。

「お初にお目にかかります、ユリにございます。お二人にお目にかかれて、光栄でございます。」

 ユリは、ルーアンから教えられた通り、できるだけ優雅に見えるようにゆっくりとお辞儀をした。

「ほう、そなたがユリか。なるほど、言われてみれば、目元の辺りが少しフィリップに似ておるな。」

 ダリダン伯爵は、懐かしそうに目を細めながらユリを見つめた。その横で、シモーヌは面白くなさそうに腕組みをしながら、

「ブロンドの髪は、リリーそっくりですわね、お義父様。性格も母親譲りでない事を祈りたいですわね。」

 と言い、鼻で笑った。ユリは内心、この女を引っ掻いてやりたいと思うほど腹を立てていた。この女のせいで、母さんはあんな田舎に追いやられ、流行病に罹って死んだのだ。この女に追い出されたりしなければ、母さんはあんなに寂しい人生を送る事はなかったかも知れないのにという思いが、こみ上げてきた。リリーには、ユリが小さい頃から口癖のように彼女に言い聞かせてきた言葉があった。それは、「一緒に地獄に落ちてくれる人を生涯の伴侶として選びなさい」というものだった。幼かったユリには、その言葉の真意が理解できず、「天国ではないの?」と聞き返した。すると、リリーは遠い目をして、「天国では意味がないの。覚えておいて、ユリア。地獄よ。」と言った。今にして思えば、リリーはついに〝一緒に地獄に落ちてくれる人〟に恵まれなかったのではないか。あの言葉は、愛するフィリップと無理やり引き離されて田舎で苦難を強いられる事となったリリーの、心の底からの渇望だったのではないかと思う。リリーは本当は、フィリップにたとえボードレール伯爵家の跡取りという身分を捨ててでも、自分と一緒に生きる道を選んでほしかったのではないだろうか。そう考えると、ユリにはリリーが不憫でならなかった。しかし、今ここで感情を爆発させてはいけないと思いなおすと、

「お二人のご期待に沿えるよう、一生懸命励みます。どうぞ、よろしくお願いします。」

 と言い、微笑んでみせた。

「おお、こちらこそ、よろしく頼むぞ。いきなり田舎から呼び寄せて、そなたも疲れている事だろう。今宵はゆっくり休むがよい。アルフレッド、彼を部屋へ案内してあげなさい。」

 ダリダン伯爵はそう言うと、従者に何事か言伝をした。すると、部屋の向こうから、従者が木製の車いすを運んで戻ってきた。ダリダン伯爵は、杖をつきながらゆっくりと車いすに座った。左足が曲がっており、少し引きずっているようだった。

「それではユリ、また夕食の時間に会おう。」

 そう言い残し、彼は部屋を後にした。

「ユリ様、こちらです。」

 ダリダン伯爵は、足がお悪いのかな。そう思いながら、彼が消えた方向をぼーっとして見ていると、横からアルフレッドに呼ばれ、ユリはハッと我に返った。

「ダリダン伯爵は、足がお悪いのだな。」

 長い廊下を歩く間、沈黙がたまらず、ユリは口を開いた。しかし、アルフレッドから返ってきたのは、

「ええ。」

 という短い返事だけだった。

「お前は、ここに勤めて何年になる?」

 話題が無くて困ったユリは、自身の事なら何か話してくれるだろうと思い、アルフレッドに質問してみた。と、アルフレッドはじろっと冷たい視線を寄越し、

「それを聞いて、どうなさりたいのですか?」

 と聞いてきた。

「え、別に…」

 ユリは口ごもってしまった。なんてとっつきにくい男なんだ!そう思い、彼に隠れてふくれっ面をした。メリル村のみんなは誰も皆優しく温かく、ユリが一人でいるとすぐに声をかけてきてくれていた。今まで彼女の周りに、アルフレッドのような男はいなかった。あまり人見知りしない方だと自負している彼女にとっても、この男はかなり馴染みにくい人物であるように感じられた。第一、眼鏡が日の光を反射して光って、瞳の表情が分からない。そしてその眼鏡の下は、何を考えているのか読み取りづらい、能面のような顔ときている。はっきり言って、こんな気味の悪い男の顔をこれから毎日眺めて暮らすのかと思うと、少し嫌気が差してきていた。部屋に着くと、アルフレッドはユリの荷物をゆっくりと床に下ろし、カーテンを開けた。薄暗い部屋に、窓から太陽の光が差し込んできた。

「わぁ…!」

 部屋の至る所に散りばめられた見事な薔薇の紋章に、ユリは目を奪われた。

「キレイ」

「薔薇の紋章は、ボードレール家に代々伝わるものです。ここは、生前のフィリップ様がお使いになっておられたお部屋です。」

 アルフレッドは、窓の外に広がる広大な庭園を眺めながらそう言った。

「そうか。ここを、父上が…。」

 ユリはそう言って、窓の傍に置かれた机をそっと撫でた。自分の父という人に面識はない。リリーからも父親の事は何一つ聞かされてはいない。実感は無いが、自分と血の繋がった父親という人がこの家で生まれ、この家で育ち、そして亡くなった…。その事を思うと、この部屋がなんだかとたんに懐かしく思えてくるのだった。戸棚から漂ってくる古い書物の埃っぽい匂いでさえも、愛おしい。

「できる事なら、父に一度でもいいから会いたかった。…会って尋ねたかった。本当に母さんを愛していたのかどうか。愛していたなら、どうして母さんをあんな田舎に追いやったりしたのか。」

 ユリは、思わずそう呟いていた。

「そうですか。あなたは、お父上を憎んでおられるのですか?」

 アルフレッドが微かに眉をひそめて訪ねてきた。

「自分でも良く分からないんだ。私は、父に会った事がない。会った事がない人を憎めと言われても、憎みようがないだろう。それに…」

 ユリは、窓の外に広がる青空を眺め、

「母さんは、決して父さんを憎んでなどいなかった。それだけは、何となく分かるから。」

 と言った。彼女の目には、在りし日の母親の優しい微笑みが映し出されていた。

「私は、あなたのお母上にも、お会いしてみたかった。」

 と、いつのまにか横に来ていたアルフレッドが唐突にそう言った。

「え…?」

「きっと、あなた様によく似た、美しいブロンドの髪をお持ちだったのでしょうね。」

 アルフレッドはそう言うと、ユリの前髪にそっと手を伸ばした。

「やめろっ」

 驚いたユリは、思わず声を荒げていた。この髪は、私がこの世で一番慕っている小父様が愛してくださった髪だ。小父様の形の良い指で、何度も撫でてもらった髪だ。その髪を、この薄気味悪い男に触られる事が、無性に嫌だった。

「…失礼を、お許しください。では、私は別室に下がっておりますので、ご用があれば何なりとお申し付けください。また、夕食の時間に参ります。」

 アルフレッドは、何事も無かったかのように冷静な表情で部屋から出て行った。彼が出て行った後も、ユリの動悸は落ち着かず、しばらくの間鼓動が高鳴っていた。

「何なのよ、あの男!」

 閉じられたドアに向かって、ユリは独り言を漏らした。小父様は彼の事を信頼しているらしかったけれど、私は彼の事を決して好きになれそうではないわと、思っていた。


 使用人部屋に通されたカイトは、カビくさいベッドに持参した荷物を置いた。と、ベッドに積もっていた埃がわっと舞い、思わず彼は咳払いをした。これから、こんな所で寝起きするのか。田舎のルーアン先生の家だって、こんなに粗末じゃなかったぞ。そう思うと、早くもこの家に嫌気が差してきた。

「荷物を置いたら、こっちへ来い。お前の仕事を説明する。」

 三十歳代くらいだろうか、ストレートなプラチナブロンドを後ろで一つにまとめた、屈強そうな男ジムは、そう言ってカイトを部屋から連れ出した。屋敷の裏庭に出ると、あたりはすっかり夕焼けに赤く染まっていた。広い裏庭の一角に藪があり、人が通ったであろう獣道ができていた。ジムは、躊躇する事なくそこへ入っていく。カイトもそれに続いた。やがて、細くて暗い獣道の先に、頑丈に閉じられた鉄の扉が現れた。その扉は、大きな南京錠で固く閉ざされていた。ジムは、ポケットの中から錆びついた鍵を取り出し、南京錠に差し込んだ。カチッという鈍い音がして、南京錠のロックが外れた。と、扉の中からは、むわっとした生暖かい空気と、なんとも言えない湿っぽいような臭いが漂ってきた。

「アルフレッド様に聞いたんだが、」

 ジムはそう言うと、カイトの方を振り返った。

「お前は、こちら側の人間だそうだな。」

「こちらがわ?」

 意味が分からず、カイトは訝しんで聞き返した。

「つまり、お前はユリ様の不利になるような事は死んでもしない、という意味だ。そうなんだろう?」

 ジムはそう言うと、まるで品定めでもするかのようにカイトを眺めまわした。

「ああ、確かに、俺はユリを守る。この俺の命をかけて、な。」

 そう言いながら、カイトは自分の浅はかさに苦笑した。俺は、ラルフを脅してここに連れて来させたつもりだったが、実際は、俺もまんまとあの男の手駒の一つに仕立て上げられたという事か。ラルフにとって、ユリの事を自分の身を犠牲にしてでも守る人間が傍にいる事は都合のいい事だったのだ。

「その言葉を聞いて、安心したよ。お前のまっすぐな目には曇りがない。どうやら、お前は信用に足る人物と見ていいらしい。…来い。これから、お前の仕事を説明してやる。」

 ジムは満足気に笑みを作った。この男、ただの使用人じゃないな。仕事柄、村の内外でいろいろな人に接して来て、少しは人を見る目を養ってきたカイトは、直感的にそう思った。この男の堂々とした余裕のある立ち居振る舞いには、ただの使用人とはとても思えない知性が感じられたからだ。ジムは、扉の脇に置いてあるランプに火をつけると、慎重に洞窟の中へ歩を進めた。

「苔やなんかで滑りやすくなってるから、気をつけろよ。」

 洞窟の壁を伝い歩きしながら、ジムは言った。しばらく歩いていると、目の前にもう一つの扉が見えてきた。いや、正確には扉ではなく、鉄格子だった。

「何だよ、これ。なんでこんな所に、鉄格子が…!」

 驚いているカイトに構う事なく、ジムは鉄格子の中を覗き込む。

「今日からお前は、ここの囚人の食事係だ。使用人が作って来る食事を、時間になったらこの囚人にやる。それだけだ、簡単だろ?あとは、そうだな。時々この洞窟の中を掃除してもらえると、助かる。」

「仕事の内容は分かった。しかし、ここの囚人ってのは、一体…?」

 そう言うカイトの瞳に、鉄格子の中にいる人影が薄っすらと映し出された。

「誰なんだ、こいつ…」

 薄闇にぼんやりと見える鉄格子の中の人物は、どうやら幼い少年であるらしかった。


「失礼します、ユリ様。お部屋に入ってもかまいませんか?」

 部屋の向こうからあどけない少女の声がして、ユリはビクッと体をこわばらせた。

「だ、誰だ?」

 そう言いながら、慎重に扉の側に近づく。と、

「私、本日からあなた様の身の回りのお手伝いを命じられました、使用人のシーラという者でございます。」

 という返事が聞こえた。なんだ、使用人か。ユリはほっと息を吐き、扉を開けた。目の前には、ユリより少し年若そうな、あどけない少女が立っていた。赤髪でくせっ毛のくるくるとした髪を後ろに垂らし、大きな瞳をした美少女だった。

「シーラか、よろしく。」

 ユリはそう言ってにっこりほほ笑んでみせた。と、それまで緊張して体をこわばらせていたシーラの顔がほころび、やがて笑顔になった。

「こちらこそ、よろしくお願いします。私、精一杯務めさせていただくつもりですが、もし至らない所がありましたら、遠慮なくお申し付けくださいませ。」

 シーラはそう言って一礼し、部屋に入ってきた。

「まずは、本日の夕食のためのお着替えを持って参りました。お着替えのお手伝いを致しますわ、ユリ様。」

 なるほど、彼女の手には、美しい装飾が施された洋服が丁寧に畳まれた状態で持たれていた。

「え、着替え?ま、待ってくれ、それは困る。」

 着替えなど手伝ってもらったら、一発で自分が女性である事がバレてしまう。ユリは、動揺を隠すためシーラから目線を逸らし、必死に着替えの手伝いを拒む理由を考えた。そして、はたと思い至った。

「あ、そうだ。私の背中には、幼い頃に負った大きな傷があるんだ。私は、この傷を誰にも見られたくないから、いつも着替えは一人でやっているんだ。」

「え、でも…」

 シーラは、困ったというように眉を下げた。

「着替えは一人でできるから、少し外に出ていてもらえるか?着替えが終わったら、また呼ぶから。」

 ユリはそう言うと、半ば強引にシーラから着替えの洋服を受け取った。

「…わかりました。あなた様がそう仰られるのなら。では、お着替えの間、部屋の外へ下がっております。」

 シーラはユリに一礼してみせると、部屋の外へ出て行った。扉がパタンッと閉まる音を聞いて、ユリはほっと安堵の溜息をついた。危ない所だったけれど、なんとか怪しまれずに切り抜ける事ができた。それに、私付きの使用人が彼女のような優しそうな人で良かった。そう思った。


 夕食の時間にユリが通された部屋は、昼間ダリダン伯爵と対面した部屋よりもさらに広く、豪華な部屋だった。部屋の中心には何人も座れるような巨大なテーブルが置いてあり、その周囲に椅子が数十脚並べられていた。天井には豪華なシャンデリアが吊るされていた。ボードレール家の、計り知れない財力を見せつけられているような感じだった。ここは、私が今まで住んでいた世界とは全く違う世界のようだと、ユリは固唾を呑んで部屋の中を歩いていた。と、上座にはすでにダリダン伯爵が座して待っていた。その隣の席には、シモーヌも座っていた。

「あら、ユリ様。随分と遅いご登場です事。」

 皮肉めいた目つきでシモーヌが言った。ユリはシモーヌの方を一瞥し、それからダリダン伯爵に向き直ると、

「遅れて申し訳ありませんでした。何しろ初めての事ばかりで、準備に時間がかかってしまったもので。」

 と釈明した。本当は、慣れない男性の装いに悪戦苦闘していたのだけれど。

「ああ、構わないよ。それよりユリ、えらく見違えたじゃないか。その服がとてもよく似合っているよ。」

 ダリダン伯爵は、凝った刺繍が施された洋服を身に纏ったユリの姿に見入った。

「その服は、お前のために新しく仕立てさせたんだ。ラルフから、お前は小柄な体型だと聞いていたから、少し小さ目に作ってもらったのだが、どうやらぴったりのようだな。」

 そうだったんだ…知らなかった。私のために服を新調してくれていたなんて。もしかしたらダリダン伯爵は、私をこの家に迎え入れるのを、少なからず楽しみにしてくれていたのかも知れない。そう思うと、少しユリの緊張がほぐれた。

「とても素晴らしいお洋服を、私ごときのために仕立ててくださいまして、ありがとうございます、ダリダン伯爵。」

 ユリはそう言ってお辞儀をした。

「ユリ、〝ダリダン伯爵〟というのはよしなさい。これからは、私の事をおじい様と呼ぶんだ。そして、このシモーヌの事はお義母様と呼ぶんだ。いいね。」

 ダリダン伯爵はそう言って、隣で渋い顔をしているシモーヌを宥めるように見据えた。ユリは、不機嫌そうにそっぽを向いているシモーヌの方を一瞥し、

「わかりました、おじい様。」

 と微笑んだ。どうやらシモーヌは、ダリダン伯爵がユリの事を可愛がるのを快く思ってはいないらしい。亡き夫のめかけの子供なのだから、無理もないかも知れない。私だってシモーヌの事は嫌いだし、母親を田舎へ追い払った彼女の事を、はっきり言って憎んでいる。おじい様に言われなかったら、誰が彼女の事をお義母様なんて呼ぶもんですか!と、心の中で思っていた。


 夕食の間、ダリダン伯爵はしきりとユリにメリル村の話をするようせがんだ。都に暮らす彼にとって、ユリが話す田舎の話は、どれも新鮮なものばかりだったようだ。お酒も入り、ダリダン伯爵はすっかり上機嫌になっていた。

「今宵は、とても興味深い話をたくさん聞けて楽しかった。ユリは話し上手だな。おまけに、とても聡明だ。田舎で暮らしていたお前が、こんなにも賢い子に育っていて、正直驚いているよ。誰か博学の先生にでも教わっていたのか?」

 そうダリダン伯爵に真剣に問われ、ユリは少し照れた。

「私の知識など、それほど大したものではありません。田舎では、宮廷に仕えておられた事があるという、ルーアン先生という方にいろいろ教わっていました。」

「ルーアン?…もしかして、代々宮廷の教育係を務めている、シュヴァリエ家の方か?」

「ああ、そう言えば、ルーアン先生の苗字は、確かシュヴァリエと聞いています。そんなに、有名なお方だったのですか?」

 ユリは驚いて尋ねた。

「有名だとも。ルーアン・シュヴァリエ殿と言えば、現国王の教育係を務めておられた人物だ。博学で立派なお方だったが、確か数十年前に体調を崩され、田舎に隠居しておられると聞いていた。まさかこんなところで、そのお方の名前をお聞きする事になろうとは。世間は狭いものだな。」

 そう話すダリダン伯爵の言葉に、シモーヌも感慨深気に頷いた。

「ルーアン先生には、私も小さい頃にお会いした記憶がございますわ。上品でお優しいお方でした。」

 そうか。確かシモーヌは、現国王とその弟ポール・アバン公爵の異母兄妹だと、ラルフが言っていた。当然、彼女は王宮にも出入りしていたのだろうから、そこでルーアンと会っていても不思議ではない。まさかルーアンとシモーヌが知り合いだったとは。あの穢れない上品な老人と、目の前に座っているけばけばしい服装をした女性とのあまりの違いに、ユリは違和感を覚えた。同じ王宮に出入りしていた貴族でも、こうも気品が違うものかと。そして、ラルフ―。彼は、ユリが今までに会ったどんな人間よりも上品で誇り高く、立派だった。ルーアンも、ラルフの事を尊敬していた。そう思うと、ユリは何だか少し誇らしかった。そしてそのラルフは、今目の前にいるダリダン伯爵の実の息子なのだ。そして私とも、少なからず血が繋がっている、本当の〝叔父〟だった。ラルフの事を思い出した途端、ユリの心に一つの疑問が沸き起こった。

「そう言えばおじい様、私には弟がいると伺っていたのですが。」

 ユリが質問すると、ダリダン伯爵の瞳に一瞬、警戒の光がよぎった。

「ラルフから聞いたのか?」

「え、ええ。長い間熱病に浮かされていた、と。」

「…そうか。実は、お前の弟ライオネルはいまだ容体が思わしくなくてな。医師の見立てで、今はまだ静養中の身でな。ここにはおらんのだ。」

 ダリダン伯爵はそう言って肩を落とした。

「聡明で優しい子なのだが、かわいそうな事をした。…ユリよ、できる事なら彼にお前を会わせてやりたいのだが、今はまだ難しいのだ。わかってくれるな。」

「そうなのですか。それはさぞご心配でしょうね。私も、彼が一刻も早く健康になれるよう、祈っています。」

 そう言いながら、ユリの心に一つの疑念が宿った。ラルフは確か、ライオネルの身体はもう熱病から回復したと言っていた。そして、〝物狂い〟になった、とも。しかしこれでは、ダリダン伯爵の話と合わない。一体、どういうことなのだろう。夕食が終わり、部屋に戻ってからも、ユリの頭からライオネルの事が離れなかった。彼は今、どこでどうしているのだろう。この世でたった一人の血の繋がった弟。彼に会うのを、とても楽しみにしてきたのに。


「あなたが、新しく使用人になったカイト?」

 暗闇の中、鉄の扉の前に座り込んでいたカイトに、一人の少女が声をかけてきた。赤髪で目のくりくりっとした美少女だった。

「…お前は?」

 カイトはけだるそうに顔を上げて聞いた。

「私は、ここの使用人のシーラよ。囚人の食事を持ってきたの。彼に、これを持って行ってあげて。」

 少女はそう言って、両手で持ったお盆を差し出した。差し出されたお盆を観ながら、カイトは、

「何で俺が奴に食事を持って行かないといけないんだ?別に俺じゃなくても、お前がここまで持ってくるんなら、中に入って奴に手渡せばいいのに。」

 と聞いた。すると、シーラは少し顔を曇らせ、

「ジム以外の人間は、この洞窟の中には入れない決まりなの。以前まではジムがここの囚人の食事係をしていたんだけど、今日からあなたに代わるからよろしくって言われたわ。」

 と言った。

「じゃあお前も、この囚人が何者なのか知らないのか?」

「ええ、知らない。一年くらい前からずっとこの洞窟にいるけど、何をして捕まったのか、一体誰なのかさえ、何も聞かされていないの。でも、貴族の屋敷では、領地の平民が悪い事をして捕まり、罰を与えられるのは当然の事だから、今更誰も驚かないわ。願わくば、はやく伯爵様のお怒りが解けて、この囚人が元気なうちに釈放されればいいわね。…中には、牢屋に監禁されて体調を崩して、二度と日の目を見る事なく死んでいく人もいるのよ。」

 シーラの言葉を聞いて、カイトは背筋が寒くなるのを感じた。一年以上前からだって…?そんなに長い間、奴はこの薄暗い洞窟の檻に、たった一人で囚われているってのか?囚人ったって、まだ幼い少年だったぞ。こんな幼い少年を閉じ込めて、ここの家の主人は一体何を考えてるんだ。やはり、ダリダン伯爵は血も涙もない悪魔なのかも知れない。カイトは、湧き上がってくる怒りを何とか押しとどめ、シーラからお盆を貰い受けた。


 シーラと別れ、食事を持って洞窟へ進むと、鉄格子の奥から鎖が動く音が聞こえた。ろうそくの火を近づけると、カイトの目の前に、金髪碧眼のあどけない表情をした少年が佇んでいた。その目に生気はなく、細い首に革製の首輪が巻きつけてあった。その首輪が繋がれた鎖は、檻の奥に植わっている太い杭に巻きつけられていた。少年は、カイトが手にしているお盆を見ると、瞳孔を縮ませて必死でお盆を掴もうと手を伸ばしてきた。

「まあまあ、落ち着けよ。いま飯をやるから。」

 カイトはそう言うと、足元にろうそくを置いてお盆の蓋を開けた。お盆の中身は、この粗末な檻に似合わない、豪勢に盛り付けられた食事だった。その不釣合いな感じが、家の中で囚人を飼っているというこの家の忌まわしい様相をそのまま表しているようで、吐き気を催した。お盆を檻の中に入れてやると、少年は物も言わずに食事にかぶりついた。その食べ方は、人間のそれとは違い、犬猫がそうするように、顔から食事に突っ込んで貪りつくという感じだった。少年がひとしきり食事をしつくし、少し落ち着いた頃、鉄格子の前に座ってその様子を見ていたカイトは口を開いた。

「お前、一体何したんだ?なんだってこんな所に、一年以上も閉じ込められている?」

 少年は、大きな目をさらに大きくしてカイトを見た。そして、少し首をかしげた。

「お前まさか、言葉が通じないんじゃないだろうな?…俺の言ってる事、わかるか?」

 と、ややあって、少年がコックリと頷いた。よかった。まるっきり言葉が分からないわけじゃなさそうだ。カイトは落ち着きを取り戻し、再度少年に話しかけてみる事にした。

「じゃあ、もっと簡単な話からしてみるか。俺の名前は、カイトっていうんだ。今日からお前の食事係になった。よろしくな。」

 少年は、またコックリ頷く。

「お前、名前はなんていうんだ?」

 しばらくの沈黙を得て、少年の小さな口元が開き、息が漏れた。

「え、何て?」

 あまりに小さい声で、よく聞き取れなかった。カイトがもう一度尋ねると、今度は少年はさっきより大きく息を吸い込み、まっすぐな瞳をカイトに向けると、

「ライオネル」

 と答えた。

「…何だって!」

 その瞬間、カイトは自分の顔が衝撃で青ざめていくのを感じた。ライオネル…聞いた名だ。あの日、ラルフがメリル村に来た夜、ルーアンと話していた事を思い出した。熱病で頭をやられ〝物狂い〟になったというボードレール伯爵家の後継ぎ。彼の名前が、確かライオネルだった。とするなら、この少年は…。


 洞窟から出たカイトの足は、知らず知らずのうちにユリアの下へ向かっていた。この家の連中はどうかしている。この家の中の一体どの程度の人が、あそこにライオネルが閉じ込められている事を知っているかどうかなんてわからない。しかし、彼があそこに一年以上閉じ込められているという事実は、明らかだった。いくら熱病に浮かされて〝物狂い〟になったからと言って、血の繋がった孫をあんな所に閉じ込めておくなんて!ダリダン伯爵は、人の皮を被った悪魔だ。こんな家に、一秒だってユリアを置いておく事はできない。一刻も早くユリアにこの事を知らせて、こんな家から彼女を逃がさなければ、やがて取り返しのつかない事になる。そう思うと、カイトは自然に足早になった。ユリアの部屋の前に来ると、カイトはいら立つ気持ちを抑えるために、一息吐いてからドアを叩いた。

「誰だ?」

 部屋の中から、ユリアの声がした。

「ユリア、俺だよ。カイトだ。」

 言うか言わないかのうちに、素早く扉が開き、ユリアが姿を現した。彼女は、素早くカイトの腕を掴むと、部屋へ引き込み、扉を閉めた。

「バカッ!誰かが聞いていたら、どうするの?私はもうユリアじゃない、ユリなんだから。あんたも呼び方に気をつけてよね!」

 ユリはそう言ってふくれっ面をした。カイトは気まずそうに頭を掻きながら、

「わ、悪い。そう言えばそうだったな。」

 と謝った。目の前の男装したユリの姿が妙に新鮮で、何だか気恥ずかしかった。知らない人が見たら、ユリは誰もが振り返るほどの美少年の姿をしていたからだ。彼女に、こんなに男装が似合うなんて、今まで思ってもみなかった。彼女が男装している姿は、美しさと同時に危うい均衡を保っているガラス細工のようでもあり、その儚ささえ感じる佇まいに、目を逸らす事ができなかった。

「で、こんな夜中に一体何の用なの?」

 そう聞かれ、ユリの姿に見とれていたカイトは、やっと本来の目的を思い出した。

「ユリ、驚かないで聞いてくれ。俺、大変なものを見てしまったんだ。」

「何よ、大変なものって?」

 訝しんで聞くユリに、カイトは小声で囁いた。

「とにかく、俺と一緒に来てくれ。」

 ユリの腕を掴んで部屋から出ようとした時、部屋の扉をトントンッと叩く音がした。

「失礼します、ユリ様。誰かそこにおられるのですか?」

 アルフレッドだった。あの男、まるで私を監視しているかのように都合よく現れるのね。ユリの額にうっすらと汗が浮かんだ。

「何でもない。もう寝るから、お前も下がっていいぞ。」

 扉に向けてそう言ったあと、ユリはカイトに向き直り、声を潜めて、

「今夜はもう遅いわ。明日にしましょう、カイト。」

 と言った。カイトは渋々了解したといった様子で、

「わかったよ。その代わり、明日は必ず俺と一緒に来てくれるな。夕食の後、裏庭の藪の前で待ってる。必ず来いよ!」

 と言い残し、部屋の窓から抜け出していった。カイトのただならぬ様子を不審に思いながらも、ユリは寝床に着く事にした。


 翌日からユリは、ダリダン伯爵の命のもと、アルフレッドを教師として、次期当主候補として相応しい教養を身に着けるべく、勉強に明け暮れる事となった。語学や歴史学、算術など、アルフレッドの知識は多方面に深く精通しており、ルーアンの元で勉強していたユリでさえも知らない事をたくさん知っていた。もともと勉強好きであったユリは、アルフレッドの豊かな知識に触れ、それを自分のものとしていく事に喜びを感じた。積極的に鋭い質問をしてくるユリの聡明さに、アルフレッドも関心している様子だった。その日の午後、昼食を食べた後に、庭の一角で乗馬の練習をする事になった。馬には田舎で何度か乗った事があり、乗馬は得意であったため、ユリは勇んでアルフレッドから示された馬にまたがった。

「ほう・・・」

 ユリの見事な乗馬に、アルフレッドは腕組みをしながら見入っていた。遠くまで馬を走らせていたユリが、軽く息を切らしながら彼の近くまで戻ってきた。

「どうだ、アルフレッド?私の乗馬の腕前は。」

誇らしげに聞いてきたユリに、アルフレッドは冷たい眼差しで、

「ご立派ですね。」

 と答えた。そのあまりにも冷たい反応に、ユリはムッとした。田舎育ちで活発だったユリは、乗馬にはちょっとした自信があったのだ。

「そう言うお前も、乗馬にはかなり自信があると見える。どうだ、今から二人で競争しないか?」

「競争…?」

 アルフレッドの眼鏡が、日の光を浴びて白く光った。

「そうだ。あそこに見える森の入り口まで、どちらが早く到着するか、競争しよう。」

「勝てば何かご褒美が頂けるのですか?」

 アルフレッドから意外な質問をされて、ユリは少し驚いた。

「お前から、そんな俗物のような言葉を聞くとは、意外だな。お前も立派に人の子というわけか。…そうだな、そんなに褒美が欲しいなら、考えておこう。ただし、私に勝ったらの話だ。」

 ユリはそう言うと、背筋を伸ばして、馬に鞭を打った。

「褒美は、私の望む物でかまいませんか?」

 背後からアルフレッドが聞いてきた。

「それでいい。早く馬に乗れ!」

 ユリの返事を聞いたアルフレッドの口の端に、微かな笑みが浮かんだ。そんな二人の様子を、カイトは馬小屋を掃除しながら眺めていた。あのアルフレッドという男、なんだか薄気味悪い目つきをしている。確かジムは、俺をアルフレッド側の人間だとか言ってたけど、あの男の目的は一体何なんだろう?とても、一介の当主の秘書で終わるような男ではなさそうなんだが。ジムといい、アルフレッドといい、この家の使用人は曲者揃いだな。そんな事を考えぼーっとしていると、ジムに肩を叩かれた。

「おい、ぼさっとすんなよ。仕事はまだ山ほどあるんだからな。」

「あ、ああ。すまない。」

 カイトは我に返り、掃除を再開した。馬小屋に敷き詰めてある藁を片付けながら、目の前で作業するジムの後ろ姿を見つめた。この男が、以前はライオネルの食事係だったと聞いた。この男は、どこまで事情を知っているんだろう。まさか、アルフレッドに脅されて、無理やり協力させられているのかも知れない。だとしたら当然、口止めされているだろうけど。そう思いながらも、どうしても彼に聞いてみたい事があった。

「なあ、ジム。」

「あん?なんだ?」

 ジムが振り返って答えた。

「この家のご長男、フィリップ様は早死にされたと聞いたけど、何で亡くなったのか知ってるか?」

「ああ、確かに、フィリップ様はライオネル様がお生まれになる前日に、突然事故で亡くなられた。だが、詳しい事は俺たち使用人は教えてもらってないんだよ。」

 そこまで聞いて、カイトの胸がざわめいた。やっぱり、フィリップは事故死したんだ。使用人には詳しい事は知らされていないだろうが、それだけでもわかれば十分だ。あの日、母さんを撥ねた馬車に乗っていたのは、フィリップに間違いない。フィリップはその事故で命を落としたのだ!そして、その事故が公になる事を恐れたダリダン伯爵が、事故をもみ消した。…そのせいで父さんは精神を病み、謀反の疑いでお家断絶の目に合わされたのだ。フィリップの妻シモーヌは国王の異母兄妹だと聞いた。ダリダン伯爵とシモーヌが共謀すれば、事故をもみ消し父さんを陥れる事なんて、容易くできてしまうに違いない。奴らは、人間のクズだ。―カイトの心に、憎しみの炎が宿った。そして、ライオネル。奴らは、俺の家族だけではなく、今また一人の少年の将来を踏みにじろうとしている。そう思うと、カイトはいても立ってもいられなくなった。早くライオネルの事をユリに話して、ライオネルとユリをこの家から連れ出してやりたかった。二人を安全な所に匿ってから、積年の恨みを晴らしてやりたい。この呪われた家に制裁を加えてやりたい。しかし、相手は何といっても強大な富と権力を誇るボードレール伯爵家。あの父さんでさえも、歯が立たなかったほどだ。一平民でしかない俺が、どうしたらボードレール伯爵家に制裁を加え、両親の仇を取る事ができるのだろう。こみ上げる憎悪と不安を持て余し、気がつくと、カイトは両手に持っていた箒の柄を力いっぱい握りしめていた。


 森の入り口近くまで馬を走らせて来て、ユリは背後を振り返った。と、いつのまにか後ろを駆けていたアルフレッドの馬の姿が見えなくなって、彼女は動揺した。

「あれ?アルフレッド、どこへ行ったんだろう。」

 アルフレッドの姿を探しているうちに、森の中へ知らず知らずのうちに迷い込んでしまっていた。と、いきなり馬が驚いて嘶き、前足が宙を蹴った。

「きゃっ!」

 その拍子に、油断していたユリは手綱を離してしまった。

「落馬する!」

 そう思った瞬間、彼女の背中に何やら温かくて固いものが当たった。そのままユリの身体は重力に引き寄せられ、地面に叩きつけられてしまった。いや、正確には、ユリが叩きつけられたのは地面ではなく、人の身体の上である事に気がつき、彼女は青ざめた。

「アルフレッド!大丈夫か!」

 ユリの身体の下敷きになったアルフレッドは、一瞬意識を失っているように思われた。しかし、すぐに彼の意識は回復し、

「っ」

 彼の口から小さな声が漏れた。

「アルフレッド、しっかりしろ!大丈夫か?」

「ユリ様…ご無事で良かった。」

 アルフレッドは能面のような表情を崩す事なくそう言うと、ゆっくり立ち上がり、服に付いた落ち葉を拾った。

「先ほど、道の真ん中に蛇がおりました。それを踏むまいとして、馬が驚いて飛び上がったのでしょう。立てますか、ユリ様。」

 ユリは、自分に向かって差し出されたアルフレッドの手に掴まろうとして、腰が抜けている事に気がついた。

「あ…」

 腰が抜けている事をアルフレッドに知られるのが妙に恥ずかしく、ユリは彼の手を拒んだ。と、少しの沈黙の後、アルフレッドが静かに口を開いた。

「そう言えばユリ様。先ほど仰っていた褒美の事ですが、」

「何…?」

「森へは私の方が先に着いていました。当然、私は何か褒美をいただけるという事で間違いはないと思うのですが。」

 能面のようなアルフレッドの表情が、心なしかこの状況を楽しんでいるような様子に変わった。ユリは、くやしそうにそっぽを向き、

「そ、そうだったな。…お前の望む褒美をやるから、何なりと言ってみろ。」

 と言った。

「そうですか。それではユリ様。私に、あなたを頂けますか。」

「…え?」

 予想だにしていなかった返答に戸惑い、ユリは思わず聞き返していた。

「私の望む褒美、それはあなた自身です。あなたの身体、あなたの心、そしてあなたの人生そのものを、頂戴いたしたく存じます。」

「な…に…?」

 ユリは、何を言われているのか理解できず、ただただ茫然と目の前の男の底知れない瞳の奥を見つめていた。


 その日の夕食が終わり、屋敷内が静まり返った頃、ユリは部屋の窓から裏庭に抜け出した。夕食の間、ずっと背後に控えているアルフレッドの視線を感じて、とても居心地が悪かった。昼間の彼の発言、あれは一体、どういう意味なのだろう?彼は私に、何を求めているんだろう?あの男の蛇のような目が脳裏に浮かんで来て、ユリの背筋はゾクッと寒くなった。今夜の事も、あの執念深そうな男に知られないよう、気が気ではなかった。

「カイトの奴、一体私に何を見せようっていうのかしら。」

 不審に思いながらも、昨日のカイトのただならぬ様子が気になり、ここまで出てきてしまった。裏庭の藪の前まで来ると、小さなろうそくの火を灯してカイトが待っていた。

「遅いぞ。」

 不機嫌そうにぼそっと呟くと、カイトはユリに背を向けて獣道へと入っていく。ユリもそれに続いた。しばらくすると、二人の目の前に鉄の扉が現れた。

「何、これ?」

 ユリが不審そうに尋ねた。

「…この中に、お前の弟かもしれない奴が囚われている。」

 鉄の扉を睨み付けたまま、カイトが答えた。

「え、何を言ってるの、カイト?一体どういう事?」

 事態が呑み込めず動揺しているユリをよそに、カイトは鉄の扉を力いっぱいに開けた。すると、暗闇の中から、

「…カイト?」

 という、弱々しい声がした。驚いて目を見開くユリの目の前に、カイトがろうそくの火を近づけた。すると視界が明るくなり、鉄格子の奥の少年の顔が明りに照らしだされた。青く澄んだ大きな瞳に、陶器のように白い肌、絹のようなブロンドの柔らかい髪を持った美少年が、ボロボロのレースが付いたシャツにすり切れたズボンをはいて、地べたに座り込んでいた。

「あ、あなた誰?」

 ユリが尋ねたが、少年は黙ったままだ。そこへ、見かねたカイトが身を乗り出し、

「名前だよ、名前。俺にも教えてくれただろ?」

 と言った。と、少年はコックリと頷き、

「ライオネル…だよ。」

 と呟いた。

「ライオネル?って、もしかして、私の弟の…?」

 ユリは驚いてカイトを見た。カイトは、深刻そうな表情をして頷くと、

「こいつは、一年以上も前からここに閉じ込められているらしい。使用人の奴らは、こいつが何者なのか知らないらしいが、俺にはこいつが自分からライオネルだって名乗ったんだ。ボードレール伯爵家でライオネルっている名前の少年なんて、二人といるかよ。こいつは〝物狂い〟になったっていう、お前の弟、ライオネルなんだよ。」

 と言い、二人を見比べた。

「姉弟だと思って見ると、やっぱりどことなく似てるな、お前ら。」

「ちょっと待ってよ、カイト!仮に、本当にこの子が私の弟のライオネルだとして、何だってこんなところに閉じ込められているの?これじゃまるで、犯罪者みたいな扱いじゃない。…おじい様は、ライオネルは今は静養中で、この家にはいないって仰ってたわ。」

 ユリは動揺していた。いくら〝物狂い〟になったと言っても、こんな扱いは酷過ぎる。およそ、人間のする事とは思えない。

「お前は知らないかもしれないが、貴族って生き物は自分の一族の繁栄や名誉を一番に重んじるもんでな。一族に〝物狂い〟が出たとなれば、一族にとって一生の汚点なんだよ。それよりはまだ、熱病に罹って療養中と言っておいた方が、外聞はいいからな。外部の人間に一族の汚点を見られたくないあまり、ライオネルを閉じ込めてしまったんじゃないか。」

 カイトは、暗い瞳をしていた。母親の事故以来、権力の壁に阻まれて絶望し、精神を病み自殺した父親―。貴族という生き物の中で生きるには、あまりにも真面目で優しすぎたのだ。ユリは本当の貴族というものを知らない。今の彼女はただ、ラルフの役に立ちたい、憧れの貴族の世界に入り込んでみたい、といった、軽い好奇心だけで地獄の暗闇に足を踏み入れようとしている。やはり、このまま彼女を貴族の世界に置いておけば、いつか必ず彼女の心はズタズタに切り刻まれてしまうのではないか。カイトはそう思うと、心が痛んだ。

「今ならまだ引き返せる。お前は、やっぱりこんな家に来るべきじゃなかったんだ。ライオネルをここから連れ出して、メリル村に帰ろう、ユリア。こんな罪もない純真無垢な少年を鉄格子で閉じ込めるなんて、やつら人間が腐ってやがる。」

 カイトはそう言うと、ライオネルが閉じ込められている鉄格子の鍵に手を伸ばした。その瞬間、洞窟の入り口の方でコツッという人の足音がして、二人は青ざめて振り返った。二人の目の前には、厳しい表情を浮かべたアルフレッドが立っていた。

「バカな真似はやめてもらえませんか。」

 低い声でそう言うと、アルフレッドはゆっくりと二人に近づいてきた。

「愚かなお友達を持つと、苦労なさいますね、ユリ様。」

 アルフレッドは、冷たい笑みを浮かべてユリを見た。

「何だと!」

 カイトは、アルフレッドに今にも掴みかからんといった剣幕で怒鳴った。カイトの覇気を冷たい視線で受け流すと、アルフレッドは、

「よく考えてごらんなさい。」

 と静かに続けた。

「今ここであなたがライオネル様を解き放ち、ユリ様を連れ去ったとなれば、ダリダン伯爵は血眼になってあなた方を探しますよ。そうして探し出された後、一体あなた方にどんな運命が待ち受けていると思いますか?貴族の秘密を知った平民の末路、少し考えれば容易く想像できるはずですが。…ユリ様も、もう少し冷静に行動して頂けませんか。もしここであなたが問題を起こせば、誰に迷惑がかかるとお考えですか?」

 アルフレッドに言われ、ユリはハッとした。そうだった。ここに来た本来の目的。それは、ラルフの役に立つ事。彼はあの時、なんと言っていただろうか。確か、「私には助けたい人がいる。」と言っていたはず。彼が助けたい人―それは、きっとライオネルの事なんだ。でも、たとえここでライオネルを解き放ったとしても、アルフレッドの言う通り何の解決にもなりはしない。返って、事態を悪化させてしまう事は明白だ。しばらく考えて、ユリはきりっと顔を上げ、

「私に考えがある。」

 と言った。

「悪いがカイト、今はまだ、私はこの家を出る訳にはいかない。私は、ボードレール家の次期当主候補になると、小父様に約束したんだ。こんな所で、その約束を簡単に放り出したりできない。ライオネルの事も、私に任せてくれないか?」

 何か言おうとしていたカイトは、ユリの真剣な表情に押されて、口をつぐんでしまった。

「わかった。お前がそう言うなら、ライオネルの事はお前に任せる。お前がボードレール家に残りたいって言うんなら、仕方ないからお前の意見を尊重してやる。…けど、もしお前の身に何か災いが降りかかるような事があれば、俺は容赦なくお前をこの家から連れ出すぞ。たとえ力づくでも、な。」

 そう言い残し、カイトは暗い洞窟を後にした。ユリは、カイトの今まで見た事もないような恐ろしい顔に一瞬ゾクリとした。そこには、ユリが知らない過去をもつもう一人のカイトが垣間見えた気がした。彼の胸に燻る、貴族に対する憎悪の炎。一体、彼は過去にどのような体験をしたのだろうか。幼い頃から、まるで半身のようにして育ったカイト。今更ながらに、彼との埋めようのない心の距離を感じて、ユリは愕然とその場に座り込んでいた。そうしてもう一度、鉄格子の中にいるかわいそうな弟の顔を振り返った。牢屋の中の少年は、カイトが姿を消した方向を悲しそうな顔で見つめていた。少年は、随分とカイトに懐いている様子だった。二人には、貴族に傷つけられた者同士、何か通じるものがあるのかも知れない。カイトにとってライオネルがされている仕打ちは、とても他人事とは思えないのだろう。そしてライオネルもまた、カイトが口に出さない思いを心で感じ取っているようだった。

「待ってろよ、ライオネル。君を絶対、ここから出してみせるから。」

 もう二度と、カイトのように貴族に傷つけられるような人間を作り出してはならない。私がこの子をここから救い出さねば。ユリの瞳には、その決意が宿っていた。


翌日の早朝、ユリはダリダン伯爵の書斎のドアを叩いた。

「何だね。」

 書斎の奥から、ダリダン伯爵の乾いた声が聞こえた。ユリは、拳を固く握りしめ、

「ユリです、おじい様。失礼します。」

 と言い、部屋に入った。埃っぽい書斎の奥に、朝日を背に受けたダリダン伯爵が腰かけていた。彼の痩せ細った両足には、ひざ掛けがかけられていた。今朝は一段と冷えた。この足が悪い老人にとって、これからの季節はきっと厳しいものになるだろう。ふと、そんな事を考えた。悪魔のような事をするこの人だって、私と血の繋がった一人の人間なのだ。きっと話せばわかってくれるはず。ユリは、緊張した面持ちで歩み出た。

「どうしたのだ、ユリ?こんなに朝早く、私に話があるとは珍しいな。」

「早朝にお邪魔をして、申し訳ありません、おじい様。実は至急、あなたに確認しておきたい事がございます。」

 ユリは、硬い表情のまま落ち着いた声音で続けた。

「この家で、私が本当は女性である事を知っているのは、おじい様だけだと伺いました。それは本当かどうか、ぜひお尋ねしたいと思いまして。」

 彼女が話す間、みるみるうちにダリダン伯爵の顔色が変わっていった。

「…何が言いたいのだね?」

 ややあって、ダリダン伯爵が口を開いた。

「そのご様子だと、やはり、知っているのはあなた様唯お一人。お義母様でさえもご存じない、という事ですね。…そうか、ボードレール家の血を引く〝男性〟であるからこそ、お義母様も渋々、私がこの家に来る事を承諾されたという事なのですね。ではもしここで、私が皆の前で裸になってしまえば、おじい様の目論見は見事に失敗する事になってしまいますね。」

 そう言って嫣然と微笑むユリの顔を、ダリダン伯爵は蒼白になりながら凝視していた。

「…小娘、何が望みだ?金か、地位か?そんなもの、このままおとなしくボードレール家の次期当主の座に納まっていれば、自ずと手にいれる事ができるというのに。この上さらにこの年寄りを脅して、何を手に入れようというのだ?」

「あいにく、私の望みは物ではありません、おじい様。…もし、あなた様が私の望みを叶えてくださるというのなら、私が望む事をお教えしましょう。」

「何だ、言ってみろ。」

 ダリダン伯爵は、落ち着きを取り戻すように息を吐いて腕組みをした。その彼の瞳に、警戒の光が差し込む。ユリは、余裕の表情を変えないまま、

「では、」

 と切り出す。

「ライオネルを、私の弟を、あの鉄格子の檻から出してください。それが、私が次期当主候補としてこの家に残る条件です。」

「…何、だと?」

 ダリダン伯爵は、目を白黒させながら身を乗り出した。

「何をふざけた事を言っているのだ、ユリ。前にも言ったが、ライオネルはこの家にはいない。病気で療養中だと言っただろう。ましてや、鉄格子の檻にいるなどと、一体誰にそのような戯言を吹き込まれたのだ?」

「吹き込まれたのではありません。私が実際にこの目で見たのです。裏庭の洞窟の中で、鎖に繋がれた私の小さな弟を。」

 言っているうちに、ユリの眼に涙が溢れてきた。暗闇の中に取り残された少年の哀れな瞳を思い出すと、感情を抑える事ができなくなってきた。

「いくら〝物狂い〟になったからと言って、ご自分の孫を牢獄に閉じ込めるなんて、あんまりではありませんか、おじい様。その事実を知ってしまった以上、見なかったふりをして暮らしていく事など、私には到底できません!」

「落ち着くのだ、ユリよ。…わかった、認めよう。あれは確かに、お前の弟のライオネルだ。ライオネルは長い間熱病に罹っておってな、今ではもう体は治っているが、あの者の頭は長い間熱病に浮かされた影響で、三歳児程度の能力しか残っておらんのだ。文字も読めないし、言葉もろくに話せない。そのため、自分の要求が通らない時や、気に入らない事をされると、周囲の人間に殴り掛かったり噛みついたりと、それはひどい状況だった。まるで手負いの獣さながらにな。だから私は泣く泣く、シモーヌと相談してあの者を牢獄に繋ぐ事にしたのだ。あの者が誰にも危害を加えないように…もちろん、自分自身にもだが。あの者は、あそこで鎖に繋がれているのが一番安全なのだ。」

 ダリダン伯爵の話を聞いているうち、知らず知らずの間に、ユリの眼に溜まった涙が頬にこぼれ落ちた。彼女は、その冷たさにハッとし、ダリダン伯爵をキリッと見据えた。

「たとえそのような大変な状況であったとしても、その子を身を挺してでも庇い、守ってやるのが家族ではないのでしょうか。失礼を承知で申し上げますが、実の孫であるライオネルを〝あの者〟とおっしゃるあなた様からは、彼に対する愛情が感じられない。…私は、そんな彼が哀れでなりません。あなた様がライオネルの事を愛せないと仰るのなら、別に構わない。しかしあなた様に、私がライオネルを愛する事を止める権利はないはずだ。私の望み、それはライオネルを慈しみ、愛情をいっぱい注いで彼の成長を見守る事です。彼が危ない事をしないよう、私がずっと彼の傍にいて見守ります。ですからどうか、私の望みを叶えてください。彼を、あの牢獄から解放してやってください。」

 ユリはそう言ってダリダン伯爵に頭を下げた。彼が要求を呑んでくれるまで、決してこの頭は上げないつもりだった。と、ややあって、ダリダン伯爵の口からフッと息がこぼれた。

「…昨日今日初めて会ったばかりの人間のために、この名家ボードレール家の現当主、ダリダン伯爵を脅しにかかるとは、さても命知らずの小娘じゃ。…ラルフの奴め、さては図りおったな。」

「え…?おじい様、それはどういう?」

 いきなりラルフの名前を出され、事態が呑み込めずに、ユリは首をかしげた。

「ラルフは、ライオネルの療養先を教えるよう、私にしつこく尋ねてきておったのだ。しかし、ラルフはもうオーレン子爵家に養子に行った身で、わが家には関わりのない男だ。そんな男に、わが家の最大の秘密を教える訳にはいかない。だから奴には、ライオネルは熱病にかかって療養中だという事だけ伝えて、〝物狂い〟になった事自体も伏せていたのだ。ところがどうやら、奴はわが屋敷に飼い犬でも飼っているのか、ライオネルが洞窟に閉じ込められているという事を突き止めたのだろうな。しかしそこまでわかっていても、養子に行った身では手を出す事ができない。そこで、お前を利用する事を思いついたのだろう。」

「私を…利用?」

「たぶん、お前にライオネルを引き合わせたのも、ラルフの息がかかった者の仕業だろう。お前なら、ライオネルのあの状況を見て、黙っている事はできないと、最初から計画していたのだろうな。全く…わが息子ながら、人を平気で手の平の上で転がしおる。」

 ダリダン伯爵からそう言われ、ユリは思わず緊張の糸が切れ、その場に倒れ込みそうになった。ふらつく身体で何とか踏みとどまり、足元を見つめた。あの小父様が、そんな事を…?私が言い出すまでもなく、ライオネルのために、小父様はもう既に手を打っておられたんだ。あの人にとって私は、ボードレール家次期当主候補としてだけではなく、ライオネルを助け出すための手駒―。よく考えてみれば、始めからそうだったじゃないか。あの人は、助けたい人がいると言っていた。そのために、私を巻き込む事を許してほしい―と。その時私は、心のどこかで薄々気がついていたはずだ。この人にとって、私の人生がどうなるかは、さして大した問題じゃない。それよりも大切な事は、私が〝彼にとって役に立つ人間であるかどうか〟なんだ。そして私は、彼に利用される道を選んだ。―この道は、私が自ら選び出した茨の道だ。私が少しでもあの人の傍にいるために、彼の手駒になる事を自ら望んだのだ。だって私には、彼しかいないのだから。




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