名もなき国
国の中心と言われる社の森。
今、二人の目の前に一際大きな一本の大樹がそびえ立っている。
その大樹を畏れるように周囲に森の木々は生えておらず、そこだけ平坦な地面はさながら祭壇のような風情でもある。
これが百年に一度神が降臨する神木。
風もないのにその大樹は、目に見えぬ霊気の波動にざわわと葉を鳴らす。
やがて地面が細かく震動を始め、大気までもが震え始めた。
(来る……)
それを感じ取ったアミーナとリアンの瞳が徐々に金色に変わっていく――。
天から長く尾を引き、社の大樹の頂に一滴の光が落ちた。
その瞬間、まるで波紋を広げるように上から下へ金の光が波打つ。
(……久しいな。セルゲイ、エデン、我が娘たちよ……)
大気を震わせ、高いような低いような波動音が言葉を紡いだ。
「お父様……お懐かしい……」
二人の皇女が顔を上げると一陣の風が彼女達を取り巻き、その風は瞬く間に大樹に吸い込まれた。
(おお……素晴らしい。セルゲイもエデンも全ての虹彩を持っておる。フレミアとカナンは来られなんだようだが、二人はよくぞここまで人間を理解した。約束どおり願いを叶えよう。但しそれは一つのみ……よく話し合うがよい……)
大樹がまたざわわと金色に波打つ。
「その必要はありません。私たちの願いは一つですから」
セルゲイが微笑み、隣のエデンと指を絡ませた。
二人の皇女が、その金の瞳で大樹を見上げる。
(申してみよ……愛しき娘たち……)
エデンが深く息を吸い、その願いの声は澄み切った森の大気を渡った。
「私たちを……最後の皇女にしてください」
大樹が枝葉を奮わせる。
強い風がどこからかゴウッと押し寄せ、葉が皇女達を巻き込んで螺旋を描く。
(……ふむ、なんと興味深い。それは、人間にはもうこの父の手助けはいらぬと言う事か。そこまで成長したというのか……。答えよ、セルゲイ、エデン)
大気の渦に髪をなぶられながらも、一歩も引くことなくセルゲイは大樹に強い意志の目を向けた。
「その逆です。私たち皇女の得る恩恵を巡って、人間は争いを繰り返します。身も心も傷つけあい、目先の力を得ることだけに執着してしまう。お父様、過ぎたる恩恵は返って人の力を惑わす……今や皇女は災いの種になってしまっているんです」
(……確かに以前からその気配はあったが……それにしても魂の成長が遅すぎる。やはり人間は失敗作と言う事か。では今回はフレミアとカナンだけでなく、セルゲイとエデンの地も全て消した方がよかろうか……)
その言葉に眉をひそめ、エデンが詰め寄る。
「何……消すってどういう事? ……お父様!」
(今までも皇女が来なかった地は消してきたのだ。人間はまだ試作段階……そなたたち、この国に名が無いのを疑問に思った事はないか。初めは東西南北それ以外にも多くの地があり娘達が居た。だが今ではたった四つ。次は東と北の二つのみになろう)
たまらずセルゲイが唇を震わせて叫んだ。
「なぜ、そんな事を……?」
(皇女が来られないと言う事は、その地の人間は神の力を持つ皇女にしても手に余るほど未成熟という事。思い出すがいい、娘達よ……。最後に残った地の均整の取れた人間をサンプルとして世界を再構築する……、これはそういう計画……)
何があっても社の儀式には行かなければならないと、心のどこかで呼びかけるものが確かにあった。
今、神代の頃から積み重ね、そして失われた記憶が二人に蘇る。
愕然と大樹を見上げながら、セルゲイは震える自分の腕を抱いた。
「そう……確かに最初はそういうものだと思っていたわ……。でも、違うのお父様。人間は失敗作なんかじゃありません。人間は確かに弱くて愚かだけれど、痛みも喜びも分けあいながら乗り越えるものなの。それがどんなに尊いものか、幾度も人として転生を繰り返した今の私にはわかります……!」
(最初から強く、愚かな行いに没しないよう構築すれば良い……その為の試みであろう。次はセルゲイとエデン……どちらが残るのであろうな……)
父神の断ずる重い意思は、セルゲイの胸に絶望を引き込む。
「でも……でも、嫌です……。どこの地にも互いを大切に想う人々が居ます。それを簡単に消すなんて……なかった事にするなんて嫌です」
(いつもと同じだ……すぐに忘れる。間もなくお前達皇女の意識はこの父に還る……宿り木であったその娘の中には、この大いなる思惑の記憶は残らぬ……)
「今までも……私たちはそうして……?」
セルゲイの人としての血潮が引き、グラリと足元が揺れる。
遠く遠く、遥か百年の月日を数える度に幾度も繰り返されてきた社の儀式。
それは名前さえ持たぬこの国の、歴史を重ねる以前の幻――。
だが、飲み込まれそうになるセルゲイの惑いを、エデンの声が断ち切った。
「お父様の、わからずやっ!」
ありったけの声でそう言い放ち、エデンが大樹に駆け寄る。
金色の葉がざわっと震えた。
「エデン……! お父様に何を」
「言わせて、セルゲイ! 笑って、怒って、悲しんで、恋をして……その一つ一つが全部人間には必要で、だからこそ人間は素敵なの。どこの地の人間も同じように愚かで優しいわ。最後に一つだけ残そうなんて馬鹿な事よ!」
エデンは肩で息をして大樹にしがみつく。
「人間だって自然と同じお父様が創り出したものなのに……! お父様も人間になってみればわかるわ。人間は失敗作なんかじゃない。私たちの願い、何でもひとつ叶えてくれるって約束したのに、嘘つき!」
セルゲイが言葉を失う中、大樹のざわめきが次第に凪いで行く。
そしてやがて、静かに波動の言葉が社の森に響いた。
(そなたは変わらぬな、エデン……)
大樹を彩っていたキツイほどの金色が、淡く穏やかな色に様変わりしていく。
(そなたはいつでも思うた事を言いたい放題この父にぶつけては大泣きしておった……。ほれ、そのようにな)
エデンは慌てて頬に手をやった。
確かにまた気がつかないうちに泣いていたようだ。
(末娘のそなたは、素直で真っ直ぐな若木のよう……。そしてセルゲイ、何につけても理解に努めようとするそなたがここまで父に意見するとは。此度はなにやらそなた達の想いが心に響く。どうあっても願いの変更はないのか……)
泣き濡れた頬を擦りながらエデンが父神に答える。
「はい……。カナンのお姉さまは、私に自分の命を分けてしまったから来られなかったの。そのカナンの地がなくなるなんて間違ってるわ……」
ふいに優しい風が二人を包んだ。
(全ての色を持つそなたたちが言うのだから、人間は捨て去るには惜しいものなのだろう。この父も何か違う形で人間を理解するよう努めねばなるまい。……そなた達の願い、聞き届けよう……)
二人の皇女の瞳が緑色に輝き、波動が重々しく響き渡る。
(……皇女の存在はそなた達で最後とする。今後、何度転生しようとも人間の持つ力以上のものは持たせぬ。守り人も同様だ。今在るフレミアとカナンの地も存続させよう。それでよいな)
「お父様……!」
エデンとセルゲイは、その太い幹を両手で抱いた。
大樹の葉が二人の娘たちに優しく降り注ぐ。
それはまるで大きな手に抱かれるように温かい。
「お父様……私、何度生まれ変わっても人間に生まれたい。きっとお父様が生み出したものの中で一番素敵なものよ」
エデンが甘えて幹に小さくキスをする。
(ふうむ……。その評価は興味深い)
大樹が揺れ、その娘達も笑った。
(さあ……舞を見せておくれ。そなた達の力は夕凪の刻で消える。これからそなた達は天寿を全うし、父に還った時にしか私の娘である事も思い出しはしまい。寂しくなる……)
「それでも私達は永遠にお父様の娘です。ずっと、私達を見守っていて……」
エデンとセルゲイは微笑んで、皇女として最後の舞を舞った。
緑の瞳と金色の大樹。
皇女がその心のままに舞うのは別れの舞ではなく、新たな始まりを告げる舞――。
二人が静かに両手を下ろし緑の瞳がそれぞれの色に戻る頃、神木の光も下から徐々に消えてゆき、やがて緑の枝葉が生い茂る元の大樹に戻った。




