気高き皇女
神の社に続く森の中。
ダンは抱き寄せたアミーナに頬を寄せて、唇を震わせた。
「ほら……まだ温かい。きっとまた笑う。怒った顔も、すねた唇もまだ消えたりしない! こいつの為に生きてきた……これからはもっと傍で生きていく誓いを立てて。なのにもう動かないなんて、そんなはずあるか!」
アミーナの汚れた口元を、忙しなく袖口でゴシゴシと擦る。
「こんなことなら、やっぱり二人でどこかへ行っちまえばよかったのか……? 俺を置いていく事が、本当にお前の望んだ事なのか。だとしたら、酷い……ひどい女だぞお前……」
その時、アミーナの赤い胸に皺の刻まれた小さな手が置かれた。
ダンが涙で乱れた顔を上げると、そこには今まで馬車に避難していたカナンの皇女フォーラがいる。
「ばあさん……?」
フォーラは指先でダンの涙を拭うと静かに微笑んだ。
そして後ろを振り返り、マルコムに声をかける。
「……いいですね、おじいさん」
「うむ。そうじゃな」
フォーラがアミーナの前に座り静かに手を合わせると、ダンは困惑しきった顔でマルコムに視線を送った。
「何をするつもりだ……?」
フォーラの合わせた両手が淡い金色の光をまとい、その瞳が銀の色に変わる。
マルコムはそれを見つめながら淋しげに呟いた。
「カナンの皇女の力は生命回帰じゃ」
「生命……回帰?」
フォーラは光る手のひらをアミーナの胸にそっと押し当てた。
同時に彼女の身体から、またたくまに白い霧が立ち始める。
「この霧……まさか……!」
ロギの呟きにリアンが小さく悲鳴を上げると、マルコムの皴の間の細い目が光った。
「フォーラは小さい頃から、やれ虫が死んだ花が枯れただのとすぐに力を使おうとするんじゃ。一つの土地にいて人に情が移れば、そやつの為にまた力を使うじゃろう。だからわしらは旅に出た。いつか本当にこの力が必要になる時が来る。わしとフォーラ、二人がここだと認めて力を使う日まで長生きしようと誓った。それが……今なんじゃよ」
その間にも、霧はもの凄い勢いで天に向けて昇っていく。
それはまるで、逆流する白い滝のように高く、遠く――。
「ジジイッ! じゃあ、ばあさんは……!」
「うむ。これが終わったら死ぬじゃろうなあ」
ロギが息を飲み、マルコムの肩を掴んだ。
「そんな……! それをあなたは私達に黙って見ていろとおっしゃるんですか」
「黙れ! カナンの皇女を愚弄するつもりか!」
「…………!」
「歳はとってもフォーラは気高き黄昏の地、カナンの皇女じゃ。自分の全うすべき役割は心得ておる。人の未来を託せる者を救う……それがフォーラに与えられた役割じゃ。……いいから黙って見ておれ」
するとフォーラが肩越しにこちらを振り返った。
「マルコム……そろそろよ。……お願いしますね」
「そうか……。わかった」
マルコムがフォーラの後ろに回り肩をそっと掴む。
すると、目も眩むような閃光がフォーラの手から放たれ、神力の霧は跡形もなく消え去っていった。
「……ダン……?」
突然アミーナの瞼が細く開き、唇に言葉と呼吸が蘇る。
「ア……!」
ダンが言葉を失っていると、フォーラはぐらりと後ろに揺れ、用意されていたマルコムの腕の中に倒れこんだ。
「見事じゃフォーラ。やはりお前は最高の女神じゃ」
耳元で囁やかれた言葉に、フォーラが嬉しそうに微笑む。
それは本当に気高い、女神の微笑みのように映った。
「アミ……ナ……!」
声を詰まらせるダンを、アミーナが小首を傾げて仰ぎ見る。
「……なに? ダン、どうしたの。……泣いてるの? ねえ……」
まだ頭に霧が掛かったように覚醒できないアミーナを、ダンはきつく抱きしめた。
それでもまだ涙と嗚咽で声が出せない。
「ダン、苦しいよ……」
「ば……かやろ……。心配ばっかり……かけやがっ……。後でお仕置きだ……」
アミーナが震える腕で自分を抱くダンにオロオロとしていると、彼は突然おかしな事を言い出した。
「アミーナ……ダン大好きって言ってみ」
「ええっ? なにそれ、いやだよ。みんなもいるのに……」
「……言ってやりなさいアミーナ。そうでもしないと実感が湧かないのだろう」
ロギの静かな微笑みに促されて、アミーナは仕方なく自分の肩に顔を埋めるダンの耳元に小さな声で呼びかけた。
「……ダン。だいすき、だよ」
涙でぐちゃぐちゃの顔をガバッと上げて、ダンが満面の笑みを見せる。
「生きてる! アミーナ生きてる!」
「生きてるって……きゃっ!」
突然抱き上げられ、アミーナはマルコムの腕の中で横たわっているフォーラの傍に連れて行かれた。
「カナンの皇女、ありがとう。それから……ごめんな……」
ダンがアミーナの手を取り、フォーラの手に重ねる。
「お前を生き返らせる為にカナンの皇女は神力を使った。礼を言ってくれ。それから、お別れを……」
アミーナはダンを見つめ、それからフォーラに視線を移した。
「お姉さま、私の為に……? お別れって……」
繋いだ手から、今までの記憶が波のように押し寄せてくる。
言葉を失うアミーナの頬を、薄く目を開けたフォーラがそっと撫でた。
「私は大好きなマルコムともう充分に生きたの。あとはあなたたちに任せるわ。エデン、あなたの心のままに道を選びなさい。それと……セルゲイを呼んで」
「ここにいます、お姉さま」
泣き濡れた顔でリアンもフォーラの手を取った。
その手がまた強く光りだし、その光は瞬く間にリアンの胸に吸い込まれていく。
「……セルゲイ、あなたは力を使いすぎたわ。でもこれで大丈夫。私の最後の力を受け取りなさい。これで、もとの通り……」
リアンの胸に当てていた手が力なく地面に落ちた。
「フォーラ!」
皮膚の薄くなった細い手をマルコムが慌てて拾い上げる。
「マルコム……私が逝ってもすぐにこちらに来ては駄目ですよ。私の分も、未来を、見届……けて……」
「それはできん。わしもすぐにお前の所に逝く。お前のいない場所になんぞ居ても仕方なかろう」
鼻をすすりながらもきっぱりと断言するマルコムに、フォーラは少女のようなはにかんだ笑顔を向けた。
「言うことを聞いてくれたら……ご褒美をあげます……」
「褒美?」
マルコムは不思議そうに眉をひそめ、わずかに動くフォーラの口元に耳を寄せる。
「あなたと生きて……幸せでした……。今も昔も、あなただけ……愛して、いますよ……」
マルコムが皺に隠れた目を見開く。
「……フォーラ!」
長き想いを口にし、女神は永遠の眠りに落ちた。
眠るように逝ってしまった妻の額に、マルコムがそっと口づける。
「……初めてじゃなあ、愛してるなんて言ってくれたの。やれやれ、心ならずも先に褒美を受け取ってしまったわい」
そう呟いてフォーラの両手をそっと重ねた。
――その傍で、リアンはマグナを見下ろしていた。
身体を海老のように丸めてうつぶせるマグナを、ロギがそっと仰向けにして両目を撫でる。
アミーナもその傍に膝をつき、ハンカチで口元の血を綺麗に拭ってやった。
「私、この人の過去を旅したの。リアンのお母様もお父様もいたわ。もちろんリアンも。私、きっとリアンよりこの人の事知ってる……」
独り言のようなアミーナの言葉が、リアンの銀の髪をさらっていく。
「この人の中で、リアンのお母様と……リアン、あなたに恋をした。不器用で激しくて、苦しくて……優しい想い。皇女の存在がこの人を歪めてしまった。お別れを言ってあげて」
マグナの頬に、はらはらとリアンの想いの雫が落ちる。
「……馬鹿な……人……。……私も、大好きだったわ……マグナ」
リアンの青い瞳から、止まらぬ涙がマグナの瞼にまた一つ落ちた。
その時、アミーナとリアンの耳の奥に鈴のような、虫の羽音のような音が聞こえてきた。
二人が森の奥を振り返る。
「呼んでる……」
今まで成り行きを静観していたエリシスが、二人の皇女の肩に手を乗せ静かに言った。
「行きなさい。あなた達の最後の仕事です。ここから先に進めるのは虹彩を得た皇女のみ。こやつは私達が丁重に埋葬しておきましょう」
「リアン、私達はここで君達の帰りを待つ。皇女として、君達がこの世に必要だと感じた事を父神に伝えてくるといい」
「俺達守り人の仕事はここで終わりだ。後は、伝説の父神と娘である皇女達だけの世界。……行って来いアミーナ」
ロギとダンに後押しされ、アミーナとリアンが森の奥へと足を踏み入れる。
「エデン……私たちの願いはどうやら一つのようね。……後悔しない?」
「わからない……。でも私の答えはこれしかないの」
二人の皇女は手を繋ぎ、耳の奥に鳴り響く不思議な音に導かれながら父の待つ神の社へと進んでいった。




