狂った聖母
そしてアミーナはまた墜ちていく。
マグナの記憶の深遠へと。
それは、消してしまいたいのに決して消える事のない光景。
ルシルのベッドで一人目覚めたのは、やけに遅い朝だった。
いつもならこんなに深く眠り込んでしまう事などあり得ない。
頭の中を、昨夜眠る前にルシルに勧められたやけに甘いシェリー酒がよぎる。
何かがおかしい。
ルシルが居ない。
それどころか、屋敷の中に人の気配が全くない。
リアの部屋にも行ってみたが、いつもなら書き取りの練習をしている時間なのに部屋はもぬけの殻だ。
何かがおかしい。
そもそも昨夜のルシルが、一番おかしかったじゃないか!
何かに突き飛ばされたような悪寒がして、マグナはその場からルシルを探しに外へ跳んだ。
そこは屋敷の裏庭。
一本の大木の前でリアが座り込んでいる。
その瞳は銀色に爛々と光り、傍には二人の見知らぬ男が倒れていた。
他にも何人かの男たちがリアの周りを囲み、じりじりと後ずさっていく。
目の前にマグナが忽然と現れると、リアは夢から覚めたように我に返り、その瞳が青に変わった。
「マ……マーグナー! マグナー! うわああ! うわあああぁぁ!」
狂ったようにリアが泣き叫ぶ。
その後ろの大木にもたれるように、幾本もの剣で磔にされたルシルの姿があった。
それはまるで恐ろしい絵のように現実感がない。
流れる銀の髪の間から、剣を伝い落ちる血の雫。
対照に聖母のように穏やかな表情の美しい人。
赤と銀、その絵は残酷なまでに美しかった。
あの深紅に濡れる頬を、肩を、胸を、昨夜自分は確かに抱いて眠った。
あの細く甘い吐息と声が、今も耳に残る。
「かーさまーー! マグナーー! あああ! ああああぁぁ……!」
リアが瞬きもせず、赤から青にくるくると変わる瞳でルシルを見つめたまま声を枯らす。
マグナはリアを抱き上げ、自分の肩に小さな顔を押し付けた。
「見るなリア……お前は見るんじゃない。壊れるのは、俺だけでいい……!」
するとリアはプッツリと糸が切れたように腕の中で意識を失い、マグナはその小さな身体をそっと地に下ろした。
「も、守り人か……? この若造が……」
その場の男が一人呟く。
次の瞬間、マグナは男の背後に現れ背中をクレイモアで貫いていた。
他の男たちが悲鳴ともつかない奇声を発する。
次々と消えては傍に現れるマグナに男達は成す術もない。
存分に返り血を浴びながら、虚ろな瞳で長剣を振るうマグナはさながら鬼神のように見えただろう。
最後の男の首筋にピタリと剣を当て、マグナは初めて口を開いた。
「お前で最後か……? 誰に頼まれた。これは……どういう事だ! 答えろ!」
真っ青になって仰け反る男はなかなか声が出せない。
「あ、あと三人……もう逃げた。黒いローブの……知らない奴に、俺たち雇われて。朝ここに来て、母親の方だけを派手に殺れと……!」
(黒いローブ!?)
マグナは耳を疑った。
それは外部の者を使う時の、領主シーバスの姿だ。
「あのガキ……皇女だろう。あの銀の目……! こんなヤバイ仕事だと知ってたら……!」
「うおおおおおぉぉっ!」
マグナの叫びで男の最期の声が掻き消される。
狂気のクレイモアが一閃すると、男は声もなくその場に崩れ落ちた。
しんと静まり返った裏庭に、マグナが佇む。
打ちひしがれた小さなリアを抱き上げ、愛しい人の変わり果てた姿をじっと見つめた。
「……酷い女だね……あんた……」
そしてリアと二人、姿を消した。
――シーバスの書斎へマグナが現れたのは、あれから三日が過ぎた頃だった。
「何の真似だ、マグナ」
シーバスは自分に突きつけられた剣の切っ先も見ずにマグナを見返す。
「それはこっちのセリフだ。シーバス様、なぜあんな事を?」
マグナは膨れ上がる感情を殺して訊ねた。
「……あれはルシルの生前からの意思だ。それはお前も知っているだろう」
マグナの剣先が僅かに揺れる。
確かに、長くは生きられない自分の命をリアの瞳の色を覚醒させるために使いたいと、ルシルは何年も前から言っていた。
その必要がないようにと、シーバスが各地の皇女を例の薬で暗殺しようと企て、大勢の人の命を奪った事ももちろん知っている。
結局、フレミアの皇女だけが死を迎え、エデンとカナンはその手を逃れたのだ。
その時、マグナは幼いながらも恐ろしさより、シーバスに負けたと思ったものだ。
だが、それを知ったルシルは泣いていた。なのに……。
「それを……そんな戯言を実行したというのか!」
マグナはシーバスに向けた剣を壁に向かって投げつける。
それは壁掛け時計に突き刺さり、ガラスが大きな音をたてて砕け散った。
「二人で話し合ってあの日に決めた。ルシルの心臓はもう一ヶ月も持たない所まできていたんだ。……戯言とは、やはり昔からルシルに想いを寄せていたお前には理解できないか。計画から外して正解だった」
椅子に掛けてあったガウンを手にし、シーバスがマグナを静かに見つめる。
「やっぱり……俺を足止めする為に、あの夜、彼女の部屋に行かせたのか……?」
シーバスは背を向けたままガウンの襟を揃え、何も言わない。
「答えろ! その為にあんたは自分の妻を俺に差し出したのか? 俺の……想いをルシルは利用したのか! 答えてくれ、シーバス様……!」
マグナがシーバスに掴みかかる。
その目からは留まる事を知らない涙が溢れた。
「戻ってこい、マグナ。ルシルの命を無駄にするな。リアントロナを社皇女にする為に……力を貸してくれ」
シーバスがマグナの涙を指で拭う。
マグナはシーバスの襟首を掴んだまま頭を垂れた。
「それが……彼女の意思だというのか」
「そうだ。あれはお前を誰より……信頼していた。お前にもリアントロナの事を頼んでいったはずだ」
「……それが、あの約束なのか? まんまと俺は舞い上がって、あの人を止められず……あんたとあの女の思惑通り……」
マグナはシーバスから乱暴に手を離した。
「殺して……やる……!」
言葉とはうらはらに声には力がなく、ただ体が震える。
それが怒りなのか、悲しみなのかもわからない。
「そうしたければするがいい。ただし、リアントロナが社皇女になって、セルゲイが恩恵を受けた後にしてくれ。私はルシルの意思を継がねばならない。どんな手を使ってでも」
シーバスの目が静かに燃える。
その揺らめきに、マグナは唇をぎゅっと結んだ。
「……俺の部屋をリアの隣に移してくれ。あの子は今、ショックで崩壊寸前だ。傍にいてやらなければ壊れちまう」
踵を返し、ドアに向かって歩き出した。
「今回の事、あんたの一存でした事だとリアには話す。母親が自分の為にした事だとわかれば本当に狂っちまうだろう」
この自分のように。
「それでいい。もとよりそれは覚悟の上だ。あの子にどんなに憎まれようと構わん」
シーバスは静かに、揺らめく目を閉じる。
マグナはドアに手をかけても振り返らなかった。
「狂ってるよ、あんたも……ルシルも……。俺を弄んだ事の代償はいずれ払ってもらう。それも覚悟しておいてくれ」
その重い足と胸を抱え、マグナは冷え切った部屋を後にした。




