最後のキスはエデンの香り
(カナンのお二人も、森のどこかで野営をしているのかな……)
アミーナは一人、たき火に薪をつぎ足しながらぼんやりと炎を見ていた。
ダンはいよいよ明日に迫った儀式の打合せだと言って、ロギとリアンと馬車の荷台にこもっている。
炎が身じろぎもしないアミーナの顔にゆらゆらと赤い影を映していた。
――やがて話を済ませたダンが、馬車から出てくる。
「……じゃあ、今夜は俺が不寝番をするから。……ああ、わかってるよロギ。おやすみ」
馬車の中に声をかけてこちらに歩いてくるダンを、アミーナはただ黙って見つめていた。
「アミーナ、お前ももう馬車に行って寝ろよ。明日は少しくらい寝坊してもいいぞ。もう社の森の入り口はすぐ近くだからさ」
『森の入り口』という言葉にピクリと体が反応してしまう。
そこにある白い幹の大木は、明日マグナに来るように言われた場所。
心の動揺を隠すように、アミーナは明るい口調で後ろの木の根元を指し示した。
「ほら見て。私、今夜はここで寝るの。もうベッドも用意してあるんだ」
そこにはシーツが広がり、毛布も用意してある。
だが、呆れ顔のダンは両手を腰に当て頭を振った。
「バカ、今夜はけっこう冷えるぞ。ちゃんと馬車で寝ろよ。風邪でもひいたらどうするんだ」
「ここがいいの」
アミーナが足元に目を落とす。
「……ダンの傍にいたいの」
顔が上げられない。
顔を見たら泣いてしまいそうだから。
するとダンはアミーナが用意したシーツの上に座り、背中の木にもたれながら手招きをする。
呼ばれるまま傍に行って同じシーツの上に腰を下ろすと、ダンは後ろから自分とアミーナを毛布でくるんだ。
「これなら寒くないだろ。眠くなったら寝ていいぞ」
「…………うん」
ダンの胸の中は温かく、懐かしい土と草の匂いがする。
「本当はさ、最初ロギが不寝番をやるって言ってたんだ。そしたらリアンも一緒に外に行くって言い出して……。アミーナも同じ事考えてたんだな」
ダンが笑いながら耳元で話す。
(ずっとこの声を、こうして腕の中で聞いていたい……)
思わずアミーナはダンの胸にしがみついた。
「……なんだよ、やっぱりまだ寒いか?」
ダンは毛布をかけなおして、アミーナを抱く手に力を込める。
「ううん……。もっとお話して」
アミーナの頭に顎を乗せ、ダンは夜空を仰ぎながらまた話し始めた。
「俺さ、エデンに帰ったら何ができるかな。畑仕事してみたいんだけど。ダガーの代わりにくわを持って、アミーナが好きなトマト作って……。他にもできることは何でもやってみたい。だから……」
ダンがアミーナの顔を覗き込む。
「お前と一緒に暮らしたい。初めて会ったエデンの、あの屋敷で……」
ダンの黒い瞳が焚き火の炎を映し、真っ直ぐに見つめてくる。
ふいに夕焼けの中、畑でトマトを摘むダンの姿が見えた。
だがその隣に自分の姿はない。
変わらず美しいエデンの地。
それを守るため、アミーナはたった一つの道を選ぶ。
(だから今夜だけ……皇女じゃないただの女の子でいさせて。大好きな人と最後の時をすごす女の子でいさせて……)
「うん……ずっとダンと一緒にいるよ。あの屋敷で……ずっと……一緒だよ」
心はずっと一緒にいる。
取引に従わなければ、ヴォックスとマリカは容赦なくこの世から消されるだろう。
それはこれまでのマグナのやり方からしても疑いようはない。
その後、囚われた自分が生きていれば、それを盾にリアンにどんな危険な願いをさせるかわからない。
懐中時計を世に公表して、これからロギとリアンが生きていくセルゲイが潰すわけにもいかない。
アミーナの選べる道はただ一つ。
(それにマグナに連れて行かれて、言いなりになるくらいなら……)
それがアミーナの答えだった。
「アミーナ……何で泣く……?」
ダンが耳元で囁く。
「しあわせ、だから……」
幸せとは皮肉なものだ。
知ってしまうと、その分失うことがこんなにも恐ろしい。
ダンの元を離れる時が来るのが怖い。
できる事なら、本当に逃げ出してしまいたい……!
「……私、ダンの身体の一部になりたかった」
ふいにそんな言葉が口をついた。
「髪でも指でも何でもいいから……そうすればいつも一緒にいられる」
溶けてこの人に流れ込んで一つになれたら……もう離れることはないのに。
するとダンはアミーナの片手を取り、手のひらを合わせた。
「こうすると感じないか? 俺とお前は元々一つだ。指も髪も唇も……心も、全ての細胞が繋がってていつも一つになりたいと惹き合ってる。お前が楽しいと俺も楽しい。悲しければ俺も悲しくなる。身体は別でも俺たちは一つだ。だからこそ、互いを守ろうと強くなれる。万能ではない人間だからこその、それが強さなんだ」
ダンがその手を組んで続ける。
「お前を守るためなら俺は何だってできる。お前が生きて、笑っているなら俺はその中で生きられる。たとえ俺の身体がどうなってもだ」
アミーナの身体に衝撃が走る。
「何……? 何を言ってるの……」
「よく聞いてくれ。明日はマグナが必ず何か仕掛けてくる。でも俺とロギが絶対に止める。どんな事をしても。だからアミーナはリアンと必ず神の社へ行って儀式をするんだ。お前が何を願うのか、俺にはわかる。それでいい。全て、終わらせてきてくれ」
気負いなど微塵もなく、ただダンの瞳は静かだった。
この人はもう、自分の進むべき道を決めている。
アミーナと全ての人を守るために。
(それなら、最後までこの人の心と共に行こう。今、わかった……。私は、この日のために皇女として生まれてきたんだ)
アミーナの心も次第に凪いでいった。
「ダン、二人でエデンに帰ろう。エデンの人達と一緒に畑を作ろう。ダンはきっといい領主様になれるよ。必ず、二人で帰ろう……」
熱い想いが溢れ出し、アミーナの瞳が紫色に染まる。
愛してる。
この人を絶対死なせたりしない。
誰一人もう傷つけない。
どんなに人間が愚かであろうとも、必ずどこかに光はある。
未来は遥か遠くまで、続いているのだから……。
(その小さな光を、私が必ず守る。それは私にしかできない……)
ダンの指先が紫色の瞳をなぞる。
どこからか優しい風が吹いた。
その風は、もしかしたらエデンのあの花畑から吹いてきたのかもしれない。
最後のキスは土と草と、花畑の香りがした。




