影の攻防
アミーナ達が居なくなり急に静かになった客間に、今はヴォックスとエリシスだけが残された。
「ついにこの時が来たんだな……早いものだ。ヴォックス、あの日からもう何年経った……?」
「十五年……でしょうか。今、こうして皇女が役目を果たすことが出来るのも、全てエリシス様のおかげです」
エリシスは目を閉じたまま天井を仰ぎ、皮肉な笑いを浮かべる。
「……やめてくれ。私は未だにここに来ると震えがくる。無念さと……怒りで……!」
エリシスの言葉に、ヴォックスの胸の中にも、熱く激しい熱風が吹いた。
二人の脳裏に、それぞれの記憶と想いが蘇る――。
『――エリシス殿、聞こえますか! 私です、ヴォックスです! お願いです。今すぐエデンの屋敷に向かってください!』
突然、頭の中に直接声が響くというのはあまり気持ちの良いものではない。
まして、ベッドの中でウトウトし始めた時ならなおさらの事。
思わずエリシスは、ベッドの上で跳ね上がってしまった。
「なんだよ、ヴォックス。呼びかけるときは最初は小さな声で、相手を刺激しないようにだな……」
『それどころではありません! なぜか胸騒ぎがして、エデンの方角を眺めていたんです。そうしたら……エデンの屋敷が燃えているようなんです!』
エリシスは今度こそベッドから飛び降り、手早く衣服を着た。
出掛ける支度をしながら、ヴォックスの声に耳を傾ける。
「それが視えたんだな……? いったいどういう事だ、詳しい状況を教えろ!」
『煙と……少し炎も視えます。今、ウォンゼイ様とマチア様は例の病に臥せっておられます。逃げ遅れるようなことになっては……』
「わかってる。お二人は無事なのか?」
『確認しようと思ったんですが……、すみません。私の力では屋敷の中までは透視できませんでした』
エリシスは部屋のベランダに飛び出し、エデンの屋敷の方角に目を凝らした。
『お願いです。貴方しか距離を越えてあそこに行ける者はおりません。どうか……!』
エリシスはヴォックスの話を最後まで聞かずに、屋敷まで跳んだ。
――ヴォックスは指を組んで額に当て、じっと身じろぎもせずにいた。
何度かエリシスに呼びかけたが、あれから返事はない。
どうしようもない不安が胸を締め付ける。
たしかに炎の上がった屋敷が見えた。
ここはエデンの屋敷まで馬でどんなに飛ばしても丸二日はかかる、王都フレミア。
当然、普通なら見えるはずなどない。
だが、ヴォックスには視える。それが彼の守り人としての能力なのだから。
「……こんなもの、何の役にも立たん!」
ヴォックスはおもむろに机を叩いた。
視えても、それだけでどうする事もできない。駆けつけるには二日かかるのだから。
人は彼の力を千里眼と呼んだ。
だがこうして、本当に大事な人を守るには事足りない。
(自分にもう一つ、エリシス様のような瞬間移動の能力があれば……!)
ヴォックスが自分の無力さに唇を噛んだ、その時だった。
「……ックス」
誰かが自分を呼ぶ声。
ヴォックスが家を飛び出すと、まだ夜も明けぬ暗がりに誰かが立っている。
(黒い、影……)
ゆっくりと近づいたが、最初からそれが誰なのかヴォックスにはわかっていた。
服はボロボロに焼け落ち、顔は煤で真っ黒になっていたが、それは紛れも無くエリシス。
その両腕で、大切そうに赤ん坊を抱いている。
「それは……エデンの皇女……?」
ヴォックスの呟きに、エリシスが顔を上げる。
そこに苦痛の涙の痕を見たとき、彼は全てを理解した。
「助け……られなかっ……。この子……だけし……!」
嗚咽がエリシスの言葉の先をかき消す。
ヴォックスもただ黙って、その震える肩を掻き抱いた――。
――二人の瞳が今に立ち帰り、互いに視線を交わす。
「あの時、屋敷には火薬が撒かれていた。確実に放火だったのに……どこの差金かは特定できなかった」
「それを皮切りに、これまでも皇女を狙った刺客が幾たびか。もちろん全て私たちが排除してきましたが」
皇女は何も知らない。
ロギだけでなく、ヴォックスとマリカにも守り人の力がある事さえも。
全て秘密裏に、守り人たちの間で処理し準備を進めてきた。
「……全てはこの百年に一度の社参りの為。厳しい旅になるだろうな」
「大丈夫ですよ。ロギユール様とダンガード様を信じて、お任せしましょう……」
穏やかに言ったヴォックスに、エリシスも静かに目を閉じた。