赤い獣
だいぶ日が高くなってから、アミーナはようやく目を覚ました。
寝ぼけた視界の中に、優しい黒い瞳が映りこむ。
「……ダン……?」
「おはよ、お姫様。身体痛くないか? ……俺はけっこう痛い」
「え?」
ふと見るとそこはソファの上。
どうやら昨夜はダンの腕に抱かれたまま、泣き疲れてそのまま眠ってしまったらしい。
「やだ、ずっとこのままでいたの? 重かったでしょ。私なんか置いて、ちゃんとベッドで寝れば良かったのに」
「バカ言うな。やっとこうしてお前を抱っこして寝る権利を得たのに。これからは毎日抱っこして寝る!」
鼻息も荒く、ダンがアミーナを力を込めて抱きしめる。
胸いっぱいに広がる温かい満ち足りた想いに、昨夜の事が夢ではないのだと改めて身に沁みてくる。
だがダンのストレートな気持ちの表現は、か弱いアミーナにはちょっぴりハードだ。
「く……苦しいっ! ダン、離してよー」
「ああっ! 腰が……痛ぇ。ギシギシいってる……」
緩んだ腕から逃れて、アミーナは慌てて立ち上がった。
「ほら、こんなとこで変な格好で寝てたから。でも私はおかげで元気。ありがとうダン」
本人も気付かないところで、アミーナの瞳が緑に染まる。
幸せで、嬉しくて、胸が詰まるほどの温かい想い。
それに目を留め、ダンは少し照れくさそうに微笑んだ。
「下に行こうか。さっきからいい匂いがする」
ダンもソファから立ち上がり、アミーナに手を差し出す。
その手をそっと握り、二人は揃って部屋からリビングに向かった。
本当はまだ少しだけ、ロギの顔を見るのが怖い。
ダンの話を疑う訳ではないが、どんな顔をすればいいのかわからない。
だがリビングを覗いた瞬間、そんな杞憂は吹き飛んでしまった。
ソファにゆったりと腰掛け、ロギが笑っている。
アミーナの良く知る穏やかで落ち着いた微笑みとはまた違う、どこかはしゃいだ子供のような笑顔で、傍でお茶を淹れているリアンに話しかけていた。
リアンも同様、いつもの憂いを秘めた笑顔はどこにも見当たらず、時折すねたように唇を尖らせてロギに応えている。
「な? 嘘じゃないだろ」
ダンがアミーナの心を見透かしたように小声で囁く。
すると、入り口から様子を窺っていた二人に、ロギとリアンも気が付いた。
「寝ぼすけアミーナ。……おいで」
笑顔で手招きされ、アミーナは弾かれたようにロギに駆け寄った。
幼い頃からいつもそうしてきたように首に飛びつくと、ロギはやはり同じようにふんわりと抱きとめる。
「ロギ……ロギ……!」
「ダンに聞いたね? 困らせてすまなかった、アミーナ。やはり君は……私のかけがえのない大事な妹だ。ダンが悪さしたら真っ先に私に言いなさい。斬り捨ててやるからな」
そうして髪を撫でてくれるロギに、アミーナはただ何度も小さく頷いた。
「斬り捨て……本当にやりそうだな、この兄貴は……」
青くなるダンの横ではリアンも笑っている。
「さあ、全員が揃ったところで、今後の予定を話そう。今日一日ゆっくりしたら、明日には神の社に出発したい。ダンも身体は大丈夫だな? それからリアン、これの事を教えてくれるね?」
彼は懐の内ポケットから例の懐中時計を取り出した。
「これ……。ロギが身に着けていたの……」
明らかに何かを知っている様子でリアンがそれを手に取る。
「以前、ダンがやりあった男が落としていったんだ。それを私が預かっていた。ダンが連れて行かれたのも、これと引き換えにしたかったのだろう? ……これが何なのか話してくれ」
リアンは硬い表情で時計を握り締めていたが、やがてふっと息をついた。
「文字盤の中に入っている液体は毒薬よ。ガラスの周りに彫ってあるのは……よく見るとわかると思う。その薬の調合比。以前、各地の領主家の人達を始め、民を巻き込んだ原因不明の病はその薬の効果なの」
「なんだって?」
三人が思わず息を飲む。
アミーナの両親もその病が元で敵の手にかかった。
フレミアの皇女もその病で亡くなった。
それが毒薬による人為的なものだと、当時、原因究明に携わった者達は見抜けなかったのだから、ある意味実に優れた薬師の所業だ。
懐中時計の文字盤に目を凝らしながら、ロギが呟く。
「道理で必死で取り戻そうとするはずだ。あの病はかなり研究し尽くされている。成分を調べれば容易に病との関係が露呈するだろう。紋章も入っているし、セルゲイにとっては致命的だ」
「初めは各地の皇女を狙ったつもりではなくて、むしろ周りの者達の弱体化を図って、領主家御用達の井戸に投げ込んだの。それが思いのほか強い効果があって、弱体化どころかそれだけで何人もの命を奪ってしまった……。さすがに慌てて処分したのよ。それひとつを残して。父の……したことなの」
苦しげに、それでも包み隠さずに話してくれたリアンにロギは静かに頷いた。
「わかった。これは生涯、私が預かる」
「ロギ!?」
「これはセルゲイに対する我々の切り札だ。これ以上奴らを増長させないためにも、処分せずに私が握っていよう。これが明るみに出れば奴らも破滅だ。奴らに対するいい抑制剤になる」
「そんな! それじゃあロギは儀式が終わって守り人ではなくなっても、ずっと狙われる事になるわ」
不安を隠せない様子でリアンがロギの腕を掴む。
「いや、私に何かあったら即、エデンから公表されるようにしておく。それに旅が終わったら私もセルゲイに行くんだから、そういう切り札も必要だろう」
三人は一斉にロギを食い入るように見つめた。
リアン自身すら聞いていなかった事のようで、灰色の瞳が大きく見開かれている。
「どうしてそんな顔をする? 私のプリンセスは次期セルゲイの領主だ。ということは私も当然、一緒にセルゲイを守っていく。それにちょっと考えている事もあるんだ。うまくいけばセルゲイの人々の暮らしも少しは良くなる。それにはエデンの領主殿の協力も必要になるんだが……」
ニヤリと笑って、ロギはダンとアミーナを見やった。
その顔はどこか確信に満ちた希望を湛えている。
「そりゃ俺たちは何であろうと協力するけど……」
「本気なのね、ロギ」
念を押すダンとアミーナに、ロギが微笑んだ。
「もちろん。……リアンも、いいね?」
リアンの緑色に変わった瞳から、はらはらと涙がこぼれる。
その肩をロギがそっと抱き寄せると、伏せたまつ毛から膝の上にいくつもの喜びの雫が落ちた。
「そんな訳でお二人さん。ちょっと二人きりにしてもらえるかな? 表屋敷の方へ行って食事でもしてきなさい。それから出発の準備もしておかないといけないよ」
ダンとアミーナが顔を見合わせて笑う。
「はいはい。じゃあ、おじゃま虫は腹ごしらえでもしてくるか」
「私、着替えもしたいな。昨日から同じドレスだもん」
二人が席を立つと、ロギは笑顔で片手をひらひらと振った。
その隣で、泣き笑いのリアンも頬を染めて手を振ってくれる。
辛いことばかりだった彼女に、これからはあの緑の瞳が永遠に続くようにと心から願う。
(誰よりも幸せに……ロギが居てくれるならきっと大丈夫。リアンは今までの分も幸せを取り戻さなきゃ……)
そんな事を考えていると、ダンがふいに手を繋いできた。
「なんか羨ましくなったから俺も……」
絡んだ手をじっと見つめていたアミーナが、ふと顔を上げる。
「ダンに聞きたい事があるんだけど。抱き合った事のある女の人とは別れ話した事あるの? あの時、そう言ってたよね」
ダンの顔が笑ったまま凍りついた。
それがおかしくてアミーナはいつのまにか変化した緑の瞳でプッと吹き出す。
居場所を見つけた四人は、今それぞれの幸せを噛み締めていた。
――着替えの為、ひとり自分の部屋に戻ったアミーナはほっと息をついた。
部屋の中は薬やシーツが乱雑に置かれ、昨夜の騒ぎを思い起こさせる。
ダンもロギも、アミーナが治療したとは言え一度死にかけたとは思えないほど元気だ。
「やっぱり鍛えてる人達は違うなぁ」
などど独り言を呟いて窓を開け放ち、気持ちのいい風を部屋に入れる。
(さて……着替えの前に少し片付けなきゃ。明日は出発だし、薬と薬草もまとめておこうかな……)
手始めにベッドメイクから始めようと、乱れたシーツを手にしてフワッと大きく広げた。
「……動くな」
アミーナの全身がゾクッと粟立つ。
広げたシーツの裾が音もなく床に落ちた。
それは本当に一陣の風のよう。
おそらく誰も、なんの抵抗も出来はしない。
マグナは、瞬きする間に忽然と目の前に現れ、正確に喉元にダガーを突きつけるのだから。
「あなたは……獣のようだわ」
そんな蔑みの言葉が口をついたが、マグナはそれに皮肉な笑みを浮かべる。
「褒め言葉と取っておこう。時間が惜しい。エデンの皇女、お前と取引がしたい。俺達の要求するものは懐中時計とお前自身だ」
アミーナはダガーを突きつけるマグナと初めて視線を交わした。
「……私?」
「そうだ。だが安心しろ、殺しはしない。儀式が終わるまで俺の傍に置いておく。お前さえいなければ、社皇女はリアントロナに決まりだ。あいつにはお前の命と引き換えに俺達の要求どおりの願いを叶えさせる。……最初からこうすればよかったよ。まさか本当にリアントロナがそっちの側につくとは思わなかったんでな」
その表情からは何も読み取れないのに、北の領地特有の灰色の瞳に皇女の共鳴神力が僅かに疼き出す。
アミーナは急に恐ろしくなり、マグナから顔をそむけた。
「そんな要求、飲めるわけないでしょう……!」
「俺は取引と言ったんだ。何の手土産もなくこんな事を言うと思うのか。実はお前の守り人を二人、こちらで預かっている」
アミーナがいぶかしげに横目でマグナの顔を盗み見る。
「守り人……誰のこと?」
「エデンの屋敷にいる夫婦だよ。たしか、ヴォックスとマリカ」
アミーナの心臓がドクンと波打った。
その緊張に声が震えてうまく話せない。
「やめて……あの二人は守り人なんかじゃないわ」
やっとそれだけ口にすると部屋の外から大きな声がした。
「アミーナー! まだ怒ってるのかー? 着替え手伝うから機嫌なおしてー」
(ダン……! 助けて)
マグナがアミーナの肩をきつく掴み、改めてダガーを押し付ける。
「だ、だめ! 入らないで! 今……着替えてるの。怒ってないからおとなしくお部屋で待ってて。迎えに行くから!」
アミーナは声を絞り出して叫んだ。
助けを求めたらヴォックスとマリカがどうなるかわからない。
「えー? わかったー。じゃあ、おとなしく待ってるー」
ダンの能天気な声が聞こえる。
彼の足音が遠ざかっていくとアミーナとマグナは同時にホッと安堵の息を洩らした。
「うまくやったな。じゃあお前は知らないのか。ヴォックスは透視能力、マリカは体内で毒物を中和する能力を持ってる。この女のおかげで何度お前の毒殺に失敗したと思ってるんだ」
その言葉に、アミーナの体中の血が引いていく。
「あの屋敷での食事は全部あの女が毒見していた。能力のおかげで毒物を口にしても多少具合が悪くなるだけで済むらしい。ただ、毒素の蓄積はあるみたいでな、子供は産めない体のようだぞ。あの夫婦に子供はいないだろう?」
頭がガンガンして気分が悪い。
昔、何度か赤ちゃんはまだかとマリカに聞いたことがある。
その度に彼女は、なかなかできないわねと笑っていた。
(マリカ、マリカ……私のせいなの? 私の為にそんな危険な事をしていたの? ヴォックスはそれを知っていてマリカと結婚したの……?)
以前、ダンが言っていた話が脳裏に蘇る。
(中には汚れ役に徹する守り人がいる……。マリカ……ヴォックス!)
アミーナは呆然と、自分の頬を青い瞳から涙が伝うのも気付かずにいた。
その様子にマグナが満足そうにほくそ笑む。
「わかってもらえたようだな。いいか、神の社に続く森の入り口に白い幹の大木がある。そこへ明後日の昼までに懐中時計を持って一人で来るんだ。心配するな。儀式が終わってしばらくしたらあの二人もお前も解放してやるよ。ただ……」
マグナはダガーを喉元から下ろし懐に収めた。
その手でアミーナの顎をつかむと自分の方へ向け、涙に濡れた無表情な瞳に告げる。
「最初に見たときは随分ガキっぽいと思ったが。少し見ない間にずいぶん雰囲気が変わったな。今のお前なら少しは楽しめそうだ……」
意味ありげに細められた灰色の瞳に、悪寒が走った。
「恋人とはちゃんと別れておいた方がいいぞ。いずれ帰してはやるが、その時お前はきっと、奴じゃ満足できない身体になってるだろう」
アミーナにも、漠然とだがその言葉が何を表すかはわかる。
「俺はずっとお前を監視してる。俺の能力はもう気づいただろう? この瞬間移動の力があれば捕まる事もないし、監視も容易だ。取引や俺の力の事を話したり、妙なそぶりを見せたらあの夫婦の命はない。……わかったな」
指先でアミーナの頬をなぞり、言い渡した最後の口調はまるで子供に言い含めるようなもの。
次の瞬間、目の前からマグナの姿は消えていた。
身体の震えが収まらず、それを止めたくて両手で自分の肩を抱く。
(どうして、こんな事に……。ダンの前に立てなくなるなんて嫌だ……そんなのいや……!)
だがアミーナにとって、この取引に選択の余地はなかった。




