忘れ得ぬ約束
黒いローブの男は、目の前のマグナにいきなり平手を浴びせた。
「どういうつもりだ、私に無断で……。しかも矢を使っただと? 皇女に当たったらなんとする!」
「お言葉ですがシーバス様。俺は皇女を狙ったんです」
叩かれた頬に触れもせず、真っ直ぐ自分を見返すマグナにシーバスが声を奮わせる。
「それは……どういう意味だ。エデンの皇女と間違えたとでも言うつもりか」
「いいえ。我々セルゲイの皇女リアントロナを狙いました」
淡々とした物言いにカッとなり、思わずマグナの胸ぐらを掴んだ。
「マグナ! 貴様……!」
「あの懐中時計の事を知っているのは我々の他にはリアントロナだけ。あれが明るみに出ればセルゲイは破滅だ。王も黙ってはいないでしょう。しかも彼女は完全にエデンの側につきました。もう戻ってはきません。だが、俺が見る限りまだ懐中時計の事は話していない……まずは彼女の口を封じるべきです」
冷たい灰色の瞳に愕然とし、シーバスが掴みかかった手を僅かに緩める。
「馬鹿な……あれは皇女だぞ。皇女なくしてセルゲイに恩恵は……」
「その前にセルゲイがなくなっては意味がないだろうが!」
素に戻ったマグナの語気に気圧されてシーバスは言葉を失った。
「時計を奪われたのはあんたの失態だ。そもそもあんたは領主として、皇女にどんな願いをさせるつもりなんだ」
「それは……セルゲイに穀物が実るよう……」
「馬鹿馬鹿しい。こんな北の果ての地に穀物が実るようになると本気で思っているのか。自然それ自体も神の作り出した物。そんな自然の摂理に反した事が叶えられるはずがない」
「違う! 社の神は創造主。いかなる願いも可能なはずだ。これまでセルゲイからは社皇女は立っていない。それさえなんとかすれば……」
マグナから堪りかねたような嘲笑が漏れる。
そして自分の胸元に置かれたシーバスの手をギリリと締め上げた。
「甘ったるい……反吐が出る。よしんば僅かに穀物が実るようになったとしても、セルゲイはもうそんなものでは救われない所まできてるんだよ。あんたはそんなちっぽけなものの為に、ルシルを串刺しにしたのか」
ゾクリと背筋に冷たいものが走り、シーバスがマグナの手を払い除ける。
それを冷ややかに見据え、マグナは再び背筋を伸ばすと忠実な腹心の顔に戻った。
「それよりも山の鉱脈をもっと豊かにしてもらいましょう。それで火薬や武器を多く作り出し流通させれば、他の地もセルゲイを軽視できなくなる。セルゲイには闇の世界しか残されていません。皇女を生かしておくならその為に利用してください。それが出来ないなら時計の事を話される前に、死を……」
うやうやしく一礼をして踵を返すマグナの背中にシーバスの怒声が飛ぶ。
「お前はセルゲイをそのような血塗られた土地にしようというのか!」
「おかしな事を。悪魔の薬で最初に血塗られた身になったのは貴方ではなかったか」
「コツコツと生きる者もセルゲイにはまだ大勢いる。汚れるのは我々だけでいい。あれが望んだのは、そのようなセルゲイではない!」
その言葉にマグナの頬は引きつり、赤い髪が燃える様に逆立つ。
だがシーバスとて、ここで引くわけには断じていかない。
「何故わからぬのだ! ここは元々美しく気高い土地。降り積もる白い雪に、ピンと張り詰めた空気……何か小さな恩恵だけでいいのだ。そうすればこの土地は、人々は、息を吹き返す力を持っている! あれが待ち望んだのはその小さなきっかけ……皇女に託したのは再起への呼び水なのだ! ずっと傍にいたお前に、何故それがわからぬ!」
「今さら綺麗ごとか? あんたこそ、セルゲイの何がわかる。本来よそ者であるあんたに。……あの狂った女が最期に望んだのは、リアントロナと俺の破滅だろう」
マグナが笑う。
虚ろな灰色の瞳で、声もなく笑いを顔に貼り付けている。
それ程までに彼女がマグナに遺した爪痕は深く悲しい。
最終通告ともとれるマグナの台詞に、シーバスはここへ来て、マグナとの明らかなズレを感じた。
「私を……裏切るのか、マグナ……!」
マグナが静かにドアに手をかける。
「裏切る? ご冗談を。俺がセルゲイを……あんたを裏切る訳がないだろう。……それもルシルとの約束の一つだ」
瞬間移動の力を使わず、マグナはドアを押し開けて部屋を出て行った。
今日も窓の外に雪が降る。
白くはらはらと落ちゆく儚いその姿は、マグナの……そしてシーバスの忘れ得ぬ涙の結晶だった。




