紫色にサヨナラ
「…………」
ふと目を落とすと、アミーナの手を握るダンの手首には、拘束されていた時の赤黒い鬱血の痕が色濃く残っている。
応急処置しか施していない身体も同様、内も外もまだ酷く損傷したままだ。
「……ダン……治療、しないと……」
アミーナの手を掴むダンの指が少しずつ緩み、やがてパタリと腕がベッドに落ちる。
そして力尽きたように目を閉じてしまった。
「あ……寝ちゃってもいいんだけど、その前にこのお薬だけ飲んで。少しは痛みと熱が引くと思うから……」
「……起き上がれない。アミーナ、飲ませてくれ。口移しで」
そんな戯れの言葉に、薬湯の入ったカップを持つアミーナの手が、そして心までもがどうしようもなく震えてしまう。
(……でも……)
だがすぐにダンはプッと吹き出して、その悪戯な目を開けた。
「なんてな。応急処置のおかげで、身体起こすくらいは出来……」
カップを煽り、薬湯を口に含むアミーナにダンが言葉を切る。
これが最後かもしれない。
こんな風に、たとえ戯れでもダンに触れることができるのは。
(旅が終わったら私はロギと生きる……。無事に帰ってくれたらと約束したけど、もうそんなの関係ないもの……)
あれほどまでに深く真摯な想いを知った今、もうそれを置き去りには出来ない。
正に自分は、ロギに守られ生かされてきたのだから……。
泣き出しそうな胸を抑え、アミーナは腰を屈めてダンの唇に触れた。
僅かに開いた唇に、少しずつ薬湯を流し込む。
永遠に胸に刻まれる、その温かく柔らかな刹那の感触。
そっと離れても、目の前の黒曜石の瞳に捕らえられそこから動けなくなる。
「……苦いな」
「うん……」
「反則だろ。これじゃ逃げるに逃げられない」
「ごめんね……」
「……そういう意味じゃない。その紫色の瞳で見つめられたら……身動きなんか出来ねえよ」
「…………」
心のどこかで、そうなっている事は感じていた。
口には出来なくても、皇女の想いはその瞳が相手に伝えてしまう。
「その色は……俺なんだな……?」
「治療……始めるね。眠くなったら寝ていいから」
アミーナは断ち切るように身体を起こし、胸の前で両手を合わせ静かに目を閉じた。
たちまち、応急処置の時とは別種の淡い光がアミーナの手を包み込む。
「そういう事だったのか。まんまとやられたな……。でも、同じ事か……」
ダンが小さく何かを呟いて、再び目を閉じる。
「まずは顔ね。……口の中も切れてるし、痛くて喋るのも辛いでしょう」
アミーナは光る手のひらでダンの頬を包んだ。
ふわりと温かい光が彼の頬から胸の辺りまで広がる。
しばらく黙ったまま、アミーナは治癒力の放出に全神経を傾けた。
光の膜が、ダンの腫れた目元や無数の痣を少しずつ、だが確実に癒していく。
「……アミーナ」
目を閉じたまま、ポツリとダンが呼ぶ。
「……眠って。その間に治しておくから……」
頬から手を離し、次にアミーナは体の治療をしようとシャツに手を掛けた。
「俺……アミーナに会いたかった」
アミーナの手がピクリと振れる。
「捕まってる間、ずっとお前のこと考えてた。泣いてる顔、怒ってる顔、笑ってる顔……。絶対もう一度お前に会うんだって……そう思ったら結構正気でいられたよ」
嬉しい言葉のはずなのに、ダンの声はあまりに静かでなぜか遠い。
アミーナは傷だらけの胸に手のひらを押し当てて、また目を閉じた。
「……途中から痛みなんか麻痺しだして。起きてるのか寝てるのかもわからない頭ん中で、今度アミーナに会ったら、俺達の事なんか誰も知らないどこか遠い所までさらって逃げちまおう……って、そればっかり考えてた」
(そうできたら……いいのに)
声にならない自分の声が、アミーナの光る手を小刻みに震えさせる。
ダンが気持ちを伝えてくれている。
それなのに、どうしてその声はこんなにも遠く、悲しく響くのだろう。
「俺は、お前を愛してる」
アミーナの手からカッと強い光が放たれ――、その光は静かにダンの身体に沁みこみ消えていった。
「でも、お前をさらって逃げること……出来なくなった」
その声は小さく、だがはっきりとアミーナの耳に届く。
治療は終わったのに顔は上げられず、ダンの胸に乗せた手が拳を握った。
「リアンが助けにきて、俺の為にまた神力を使った。それにもうあいつに帰る場所はない。だから……俺がずっと傍にいると約束した」
ダンを連れ帰る為、リアンが力を使う情景がありありと目に浮かぶ。
彼女は自分をかえりみずにダンの為に戦った。
それに比べて自分はどうだ。
守られるばかりで大切なものを守る力はない。
(わかってる……だからダンはリアンを選んだ。この人はそういう人だもの。これからダンはリアンを守って生きていく……そして私も。でもどうしよう……笑えない……!)
「……いやだって言ったら?」
自分でも信じられない言葉がこぼれ落ちた。
信じたくないけれど、でもこれが自分の本音なのだろう。
ひどくわがままで勝手な、ダンを想う心の素顔。
ダンが起き上がって、静かな目でアミーナを見つめる。
「私がそんなのいやだって言ったらどうするの? このままダンと二人で誰も知らない所へ行きたいって言ったら……。私を、愛してるって言ったのに……!」
「それならアミーナと行く」
アミーナが目を見張って絶句する。
(何……言ってるの? 言ってる事がめちゃくちゃじゃない……! それじゃあリアンは、ロギは……?)
頭の中に沢山の言葉がよぎる。
だがダンは静かにアミーナを見返すだけだ。
「……なんなの? もうわかんないよ。ダンの言ってること全然わかんない!」
混乱するアミーナを引き寄せ、ダンが短くなった亜麻色の髪に指を通す。
「俺はアミーナが皇女である事を捨て、ロギやリアン、エデンの人達の事を忘れて俺と行くと言うなら……迷わずお前と行く。他の誰がどうなろうと知ったこっちゃない。俺はお前一人が腕に残ればそれでいい」
その言葉に、ついにアミーナの目からずっと堪えていた涙が溢れた。
(皇女であることを捨てる……みんなを忘れる……?)
瞼の奥にエデンの風景が広がった。
緑豊かなエデンの地。
そこには優しい笑顔のロギもいる。
その隣で微笑むリアンは、少し寂しそうだった。
「でき……ないよ。みんなを忘れるなんて……。エデンを忘れるなんて……!」
泣きじゃくりながら訴えるアミーナの頬を、ダンが両手でそっと包む。
「だろう? それでいいんだ。アミーナはエデンの皇女。あの地にはお前が……お前の笑顔が必要だから。アミーナにはロギがいてくれる。だけどリアンは一人……誰かが傍にいてやらないと駄目なんだ」
離れていく。
大好きな人が離れていってしまう。
初めて知った誰かを想う心。
その人を失う事が、こんなに息をするのさえ苦しくて引き裂かれる程に痛むものと思いもしなかった。
「ダンはいじわるで……、可愛くて、強くてひねくれてて……でも大好きだよ。私が皇女じゃなくて普通の女の子なら、行かないでって言えたのかな……」
「……お前それ、本当に反則だって……」
急にダンはアミーナの肩をつかんで自分から引き離した。
何が起こったのかわからずに、アミーナは目に涙をためたまま目を瞬かせる。
「最初に見た時もブン殴られたみたいな衝撃だったな……。その目の色で見られると、もう何も考えられなくなる」
こんなに近くにいるのに、ダンの腕の距離は永遠かと思うほど遠い。
「全く……抱き合ったこともない女と別れ話なんてした事ねえよ。前代未聞だ。これは俺の紫色なのに……ちくしょう、気が狂いそうだ……!」
ダンはアミーナの肩をつかんだまま頭を垂れ、やがて低く声を震わせた。
「もういちど、儀式をしてくれ」
「え……?」
「もういちど守り人の儀式をしてくれ。あの時は小さい俺だったし……ぼんやりとしか覚えてない。だから本当の自分の姿で、改めて誓いを立てたいんだ」
真剣なダンの瞳に身がすくむ。
(皇女と守り人の誓い……? 皇女と守り人……そうやって線を引いたら私達はもう……)
声を失ったように儀式の祝詞が出てこない。
アミーナはただ唇を噛んで肩を震わせた。
「……言うことを聞け。アミーナ」
「これからの旅には……あなたのお力が必要です……」
ダンの瞳に気圧されて、思わず祝詞を唱えてしまう。
「どうか……私を守り、神の……」
ぽろぽろ、ぽろぽろ、止まる事を知らない涙が落ちる。
神の社に行きついたら皇女と守り人の繋がりは消える。
きっともう、会えない。
そしてこの儀式が終わった瞬間、もう戯れにでも互いを求める事は許されない。
「……神の……社まで、供をして下さいますか」
最後の祝詞がこぼれ落ちる。
もう拾い上げることはできない。
もう何もかも元には戻せない。
ダンは優しく微笑み、アミーナの涙で濡れた瞼と唇を指先で拭う。
「エデンの皇女、アミナティレーヌ・ソフィア・エデン殿。私は命ある限り御身の盾となり、御身の歩く道となりて神の社までご一緒しましょう。皇女よ……」
ダンがゆっくりと近づき、アミーナは紫の瞳を閉じた。
「永遠……なれ」
アミーナの額に、最後の誓いのキスが落ちる。
皇女と守り人。
誰よりも近くで、二人はこの先別々の道に立つ誓いを立てた。
――部屋を出て行くアミーナの背中を見送り、ダンがベッドに倒れ込む。
「……どうだロギ。俺、逃げなかったぜ」
ひとつ息をつき、そのまま目を閉じる。
瞼の裏に焼きつくのは、幼い頃のアミーナではなく、鮮やかな紫の瞳をした愛しい皇女。
「じゃあな、俺の紫色の皇女……」
ダンはアミーナの涙を拭ってやった自分の指先を、そっと唇に押し当てた。




