幸せの選択
アミーナは自室に飛び込むと、後ろ手にドアを閉めそのままずるずると床に座り込んだ。
涙が止まらない。
胸の中が波打って、息をするのも苦しい。
それなのに目を閉じた瞼の裏では、明るいからかい半分の口調のダンが笑いかける。
『お前、本当によく泣くな。泣いたって何も解決しないだろうが……』
(だって、どうしたらいいの? ダン、どこにいるの? どうしたらあなたを助けられるの……!)
自分は無力なのだと今更ながら思い知らされる。
外の世界がこんなにも悪意に満ちた暴力に溢れているとは、旅に出るまで知らなかった。
剣も使えず、馬ひとつ乗れなくてよく今まで無事に生きてこられたものだとつくづく思う。
(今まで……?)
アミーナはハッと息を飲んだ。
今まではロギが守ってくれていたのだ。
毎日、訓練をかかさず自分を磨き、度重なる危険から自分を守るためだけに傍にいてくれた。
それを当たり前のように思い、考えることすらしなかった。
(ロギの事をお兄さんのようなつもりで甘えて、わがまま言って。勝手に私を包んでくれる居心地のいい場所にしてただけ。一人の男の人として見ようともしなかった。……私が勝手なんだ)
でも、だからと言ってロギに応えることはできない。
初めて知った、誰かを追い求める苦しいほどの心。
それを止める方法など今のアミーナにはわからない。
(絶対、助ける。ロギに頼らないで自分の力で……。何と引き換えにしても!)
決心して、荷物の中から短剣を引っ張り出した。
それを皮ひもでぐるぐると巻き、腰に括り付ける。
(とにかく商店通りまで行って、馬車の轍の跡を馬で辿っていこう。ゆっくり走らせればきっと落っこちないで行けるわ)
無謀で無駄な事だと頭ではわかっているが、今の自分にはこんな事しか思いつかない。
ダンが今どこかでどんな目にあっているか、そう思うとじっとしてなどいられない。
アミーナが出かける支度を整え部屋のドアを開けようと手を伸ばすと、それは向こう側から開いた。
「ロギ……!」
それ以上何も言えなくなり、アミーナが黙って唇を噛む。
立ちふさがったロギはまるで人形のように表情を持たず、周囲にひっくり返された荷物を一瞥すると部屋に足を踏み入れた。
「……何をするつもりだ」
「行かせて」
「君には無理だ」
「無理でもいい! いいから行かせて! そこをどいて!」
アミーナが頭を振って叫ぶ。
すると一瞬、目の前を何かがシュッと掠め、それと同時にアミーナの足元でゴトンと音がした。
訳がわからないまま下に目を落とすと、皮ひもで腰に結んだはずの短剣が転がっている。
カチンと澄んだ金属音が聞こえ、そこでやっと何が起こったのかに気がついた。
「……まさか……あの一瞬で皮ひもを切ったの……?」
剣の鞘に手を掛けたまま、ロギが小さく頷く。
呆然とするアミーナの足元から短剣を拾い上げ、ロギは踵を返した。
「今のでわかっただろう。今度の相手は今までのような小物とは違う。この私でも勝算は五分。アミーナにどうこうできる相手じゃないんだ。ここで待っていなさい。ダンと……リアンは私が必ず、助ける」
ロギが静かに部屋を出て行く。
「それから……二人が帰ってきたら、一緒に神の社に行きなさい。エデンの民の為に祈りを捧げてくるんだよ。……たとえ、私が戻らなくても。いいね」
最後に振り返って念を押したロギは、アミーナのよく知る彼だった。
穏やかで優しく、それでいて強い意志を持ったコバルトブルーの瞳――。
「だ……ダメーー! ロギ!」
気がつくとアミーナは、ロギの背中を追って駆け出していた。
幼い頃、花畑からの帰りにロギの背中で眠ってしまっ時。
登った木から降りられなくなってロギに下で受け止めてもらった時。
どんな時もロギはあの瞳でアミーナを包んだ。
(ロギは刺し違えるのを覚悟してる。昔も今も何も変わらない、ただ私を守る為に、私が泣かないように……ただそれだけの為に……!)
アミーナが追いついたその背中に力一杯しがみつく。
「二人と一緒にロギもここへ戻って。必ず戻って! 戻って来てくれたら私……あなたと一緒に生きます」
ロギを失うわけにはいかない。戻ってこないなんて許さない!
この人が今まで通り傍にいて、そしてダンがどこかで生きていてくれたなら、私はもうそれだけで充分幸せだ。
「…………」
ロギが振り返ったその時、窓の外から馬の嘶きが二人の耳に届いた。
顔を見合わせ窓に駆け寄って身を乗り出すと、見覚えのある自分達の馬車が庭先まで入って来ている。
「リアン!?」
馬車を操るリアンに目を留め、ロギは二階の窓を乗り越えて庭へ飛び降りた。
さすがにアミーナにその真似は出来ず、屋敷の中を回って庭を目指す。
リアンは手綱を引き馬車を急停車させると、弾かれたように御者席から駆け寄ってきた。
「ロギ、ダンがひどい怪我なの! 早くアミーナに診てもら……」
「リアン!」
ロギがリアンを頭から掻き抱き、言葉の先を遮る。
「なんて無茶を……! 一人で行くなんて……」
「ロ……ギ……!」
絶句してしまったリアンを手放し、ロギが中庭に出たアミーナに向かって叫ぶ。
「アミーナ早く! ダンは馬車の中だ!」
アミーナはただ夢中で馬車に向かった。
何も考えられず、ダンが今ここに居るというだけで胸が打ち震える。
「あの人達、ダンに酷い仕打ちを……。最初は意識があったんだけど、今はもう全然目を覚まさないの。私……私のせいで……ごめんなさい! 私じゃ治せないの。壊すばかりで私は何一つ治せない!」
真っ赤に泣き腫らした目をして必死で訴えるリアンを、アミーナは強く抱きしめた。
「ありがとう、リアン。ダンを助けてくれて。後は任せて」
馬車に飛び込むと、荷台に横たわったダンには毛布がかけてあった。
顔は土気色で呼吸も不規則なその状態に、迷わず毛布をめくる。
「……! ひどい……」
その有様に、アミーナは寒気がした。
血だらけの体中、幾つもの筋に皮膚が裂けているのは鞭の痕だろうか。
さらに火傷らしい痕は赤黒く爛れている。
(とにかく応急処置を……! このままじゃ部屋にも運べない)
アミーナは震える両手をダンの胸に押し当て、静かに目を閉じた。
次第にその手を強い光が包み込み、ダンの身体にも行き渡っていく。
(頑張って……頑張ってダン……! 私を置いていかないで……)
その想いを全て注ぎ込んで震える背中を、ロギとリアンはただじっと見守っていた。




