過去と未来の檻(おり)
――――ほら、ごらんなさいリア……
雪の花びらよ……なんて美しいのでしょう……
細い指が指し示す窓の外。
小さなリアンはその人の膝の上に抱かれながら、真っ白な花びらの舞に魅入っていた。
『この土地はこんなにも美しいのに……なぜ神様はここを愛してはくださらないのかしら……』
物憂げに伏せる長い睫毛がリアンを不安にさせる。
この言葉は、この人が心穏やかに話をしてくれる時間が終わる合図。
おわらないで。
なかないで、おかあさま。
だいじょうぶなの。
あたしが、ちゃんとかみさまにおねがいするから……。
『まあ……嬉しいわ。ありがとうリア……あなたは本当にいい子ね……』
リアンを膝に抱いたまま、その人は微笑んでユラユラと揺れ始める。
穏やかな時間が延びた事が嬉しくて、リアンはその人の胸に頬を押し付けた。
『領主家に生まれながら……私は何ひとつセルゲイの為に出来なかった。痩せ細って歪んでいく人々を見ている事しか出来なかった……。そんな非力な私が唯一出来た事……それはあなたを産んだ事だけ……』
呪いの呪文のように、今日もその人はその言葉を口にする。
怖くて、悲しくて、リアンは彼女の胸の中できつく目を閉じた。
『あなたは私の誇り……未来の光。でもあなたは優しすぎる……社皇女は全ての心を持たなければならないのに……』
目をつぶったリアンの頬に、ポツリと温かい雫が落ちる。
それは次から次へとリアンの頬を濡らしては流れ落ちていく。
ああ……またないちゃった……。
おかあさまがなくと、リアもとてもかなしくなる。
だからなかないで。
あたしはぜったいやしろひめみこになるから……。
リアンがいつものようにそう言って目を開ける。
飛び込んできた光景は、赤――。
表情を持たない彼女の流す赤い涙が、ポタポタと滴り落ちてリアンの頬とドレスを真っ赤に染め上げていく。
「……い……いやああぁぁぁ!!……」
それは森を揺るがす自分の悲鳴。
耳と胸を突き刺す恐ろしい感情の槍。
大木に磔にされ、無残にも美しい屍となったお母さま。
心の痛みで千切れそうになるリアンの身体を、ふいに強い腕が抱き寄せた。
リア……!!
見るな……お前は見るんじゃない……
壊れるのは、俺だけでいい……!
嵐の中、その腕だけを頼りに生きた。
他には何も要らない。
守り人の本能のまま私を愛し守り抜く、この腕さえ離さなければ生きていける。
いっそ一つになりたいと、そうなればきっともう何も怖くないと、心からそれを願った。
けれど……その腕は誰よりも近くにありながらいつもどこか違う場所を見つめ、そして私も――――。
「…………!」
真っ暗な部屋で突如目覚めたリアンは、自分の頬が濡れている事に身震いがした。
恐る恐る、その涙を拭って指先を見つめると、窓から差し込む朧な月明かりが母に良く似た細い指を照らし出す。
(……赤いはずないじゃない……バカみたい……)
パタンと力なくベッドに腕を落とし、大きく息をついた。
見慣れない真っ白な天井。
それでもここがどこなのか、わからない訳ではない。
自分が今までの世界とあの腕を断ち切ってこちら側を選んだ事は、夢に流されてしまうほど簡単なものではなかったのだから。
「でもお母様……私はセルゲイを捨てたんじゃない……どうかわかって。あなたのくれた虹彩を持って、セルゲイの為に祈りを捧げに神の社に参ります……」
ふと壁に掛かった柱時計を見ると、もう明日にもなろうという時間。
昼間、アミーナの力を抑え込んだ後、気を失って今まで眠り込んでいたのだろう。
身体が脆くなってきているのが自分でもわかる。
(構わないわ……皇女のお役目を終えるまでもってくれたらそれで充分……。その後の私に、もう帰る場所はないし……)
それが怖くない訳ではない。
ただ、これまで自分のしてきた事を思えば、それも致し方ない流れのような気がするのだ。
「……そうだ。懐中時計の事……まだみんなに話していない……」
一瞬の迷いが胸を掠める。
だがリアンはすぐに頭を振って、ベッドから足を下ろした。
父が肌身離さず身に付けていたあの懐中時計。
あれの真実が明るみに出れば、父はもとより、セルゲイの裏の組織は致命的な打撃を受けることになるだろう。
(でも……もうこれ以上、罪を重ねて欲しくない……。ロギはまだ起きているかしら……)
ごく当たり前のように、頭に真っ先に浮かんだロギの顔。
彼の凛とした蒼い瞳が柔らかく細められると、胸がトクンと落ち着かなく揺れ始める。
それに一番驚いたのは、誰でもないリアン自身だった。
(この気持ちは……なんだろう……?)
その答えが出ないまま、リアンは鳴り続ける胸を押さえて部屋から廊下に出た。
すると廊下の先、一番奥の部屋のドアから明かりが漏れている。
(よかった……まだ誰かが起きてる)
今夜中に話してしまおう。
それを聞いたみんながどうするか、それは任せるしかない。
そう決心して、リアンが奥の部屋に近づいていくと、中から良く通る低い声が廊下にまで響いてきた。
『……衛員の誰も、奴らを見ていない……? どういう事だ』
『わかりません。皆、口を揃えていつも通りの静かな午後だったと言うばかりで』
『林の中を見回ってる巡回員にも聞いてみたけど、答えは同じ。あんな目立つ奴らなのに、全く人目に触れずに屋敷内にまで侵入できたなんて……訳がわからねえ』
つい、壁際に身を寄せて耳をそばだててしまう。
盗み聞きをするつもりなどないのだが。
(ロギのお父様と……ロギ。ダンも居る……)
どうやら話に割って入れる雰囲気ではない。
今夜は無理かと諦めて壁から離れようとした時、少し気になる話が耳に入ってきた――――。
――――ロギとその父、マクヴェル=ウェイハウンド侯爵、そしてダンの三人は客間の一室で額を突き合わせ、今後の予定や情報、意見交換などをかれこれ小一時間は続けていた。
「……確かに何か引っかかる。わかった、警備は少し強化しておこう。……ところでロギユール、お前に伝言を預かってきているのだ。昨夜帰れなかったのはそのせいでもある」
「伝言……、私にですか。いったいどなたからでしょう」
侯爵が少し言いにくそうに咳払いをする。
「またとぼけおって……このワシを引き止めてお前に伝言したいと言えば御一人しかおるまい。……王からの伝言だ」
それを聞いてもロギは表情一つ変えず、父の苦笑いを真っ直ぐに見据えた。
「おっさん、俺、席を外そうか?」
「いや、構わんよ。どうせ知っておるのだろう? エリシス殿にも口止めはしておらんかったのでな」
「その代わり、俺の事も夫婦揃って知ってたじゃないか」
ソファの上で肩をすくめるダンに侯爵は老獪な笑いを投げかけ、改めてロギに向き直る。
「単刀直入に言おう。王がお前をご自分の庶子として公表し、正式に嫡男として迎えたいそうだ。まあ、我がフレミアに皇女はおらんし、国の明日を考えればわからんでもないがな。どうだ? お前の成長はいつも気にかけておられる」
「お断りします」
ロギはいつものように穏やかに微笑んだ。
「即答過ぎるだろうが。今更……と言いたいのか」
「そんな事ではありません。王のお気持ちは、幼い頃に賜ったこのエクスカリバーで十二分に伝わっています。ただ、私は父上の子であり、今ではエデンの民です。私にはもう自分で思い描く未来の道がありますので、王には大変申し訳ありませんが丁重に辞退を。父上にはそれくらいの力はおありでしょう? ……親友ですからね」
侯爵は黙って顎をしきりに撫でていたが、やがてニヤリと笑いロギを上目遣いに見た。
「実はそう言うと思って、もう断ってきた」
「父上……!」
ロギの顔が一瞬にして無邪気に輝く。
「ふん、そんないい顔しおって。エデンでの暮らしはよほど充実していると見える。お前が幸せならそれでいい。だが、もう少し頻繁に顔を見せに来んとセラが寂しがってうるさい。……ワシもな」
素直に頷き、照れたように微笑むロギの姿は、父の前で無沙汰の親不孝を詫びる息子そのものだった。
「思い描く道と言ったな。この儀式が終わったら守り人としての役目は終わるが……その後は領主になるつもりか」
侯爵が息子の目をじっと覗き込む。
「……はい。許されるなら」
父親にそうキッパリと宣言するロギから、ダンは秘かに目を反らした。
(エデンの、領主……)
――そして部屋の外で息を飲む人間がもう一人。
(それは……アミーナと結婚するって意味……? 仲がいいとは思っていたけど、そう……だったのね)
リアンが冷たい壁に寄りかかり、そっと目を閉じる。
(とてもお似合いだわ……。現王の血を引くロギと領主娘のアミーナ。……何よりあの子は、何もかも綺麗……。いつ果てるかもわからない、汚れた領主娘とは随分な違いね……)
皮肉に歪める口元が、理由も分からず勝手に震えてしまう。
(……私、どうしちゃったの……? どうして……こんなに痛いの……)
暗い廊下で、人知れず染まる瞳は紫色。
鏡などないこの場所で、それは本人でさえ気が付く事はない。
リアンの胸の奥で、生まれたばかりの薄いガラス玉が砕け散った。




