紫色の行方
冷たい濡れタオルを頬に押し当て、自室に据えられた豪奢なドレッサー鏡の中の自分を見つめる。
幸いにも腫れはすぐ引き、口の中が僅かに切れた程度で痛みも少ない。
でも――。
「……大丈夫か? ほら、そろそろこっちのに取り替えろよ」
氷水を張った洗面ボウルから、ダンが換えのタオルを絞って差し出してくれる。
それをドレッサーチェアに座ったまま素直に受け取り、アミーナは鏡に向かって大きなため息をついた。
「なんだよ元気ないな。やっぱりそんなに痛いのか、ほっぺた」
ダンが背後から、心配そうに鏡の中のアミーナに問いかける。
「わたがし……」
「あん?」
「キャラメル綿菓子、なくなっちゃった。またダンの皇女のイメージから遠くなっちゃったな……」
腰まであった亜麻色の髪。
それが今は肩の辺りで揺れている。
アミーナは別人のようになってしまった自分の姿を見つめたまま、さらに深いため息を重ねた。
「本当だよなー。食料がなくなったら非常食として食おうと思ってたのに、実に残念。あっははは」
ダンが楽しそうに笑ってアミーナの頭をグリグリと撫でる。
その振動と高らかな笑い声に、アミーナの今まで我慢に我慢を重ねた感情が弾け飛んだ。
「……うっ……ひくっ……。う、うあぁぁぁん!」
ダンの顔が笑ったまま固まる。
「私……私の髪……! 大事に……して、たのにー……うわあぁぁん!」
堪えきれずに泣き出したアミーナに、ダンは顔色を変えて一歩後ずさった。
「な、なんだよ急に! さっきまではそんな事、何も言ってなかっ……」
「だってリアンが気にしちゃうじゃない! 綺麗に切ってくれたし、あの時はそうするしかなかった……。でも、でもやっぱり悲しい……!」
えずきながら、すうっとまたアミーナが息を吸い込む。
「ちょ、ちょっと待て! 俺は女のそういう心理はわからないし、だから何て言ってやればいいのかも……」
ダンの言葉を遮るようにアミーナの泣き声と涙が堰を切る。
(ロギは泣くんじゃないって言ったけど……無理だよ。だって、ずっと伸ばしてて……唯一女の子らしいとこだって大事にしてたんだもん……知ってるくせに……!)
悲しみと悔しさと寂しさと……様々な思いが入り混じって子供のようにわんわんと泣くアミーナの傍で、ダンがポツリと呟いた。
「……お前、そうやって短い髪で大泣きしてるとちっちゃい時のまんまだな。あの時も俺、出て行ける訳でもないのに、どうやって慰めればいいのか考えて草の影でオロオロしてたっけ……」
ヒクッと喉が鳴り、アミーナの涙が一瞬止まる。
その一瞬の隙をついて、ダンの腕が後ろからそっとアミーナを抱きしめた。
「笑ったり泣いたり、ホントに忙しくてさ……。見てるだけでも楽しくて、時間なんかあっという間だったな……」
「え……小さい時って、それはお兄さんの話でしょ。なんでダンがそんな事知って……あれ? そう言えばさっき会った事もないって……」
「バーカ……。ホントに鈍いな、お前って……」
突然、アミーナの頬がボッと燃えた。
途端に心臓が壊れそうなほど、早鐘を打ち始める。
(もしかしてあれって、お兄さんじゃなくてダンの話? 初恋って……ダン、の……?)
聞きたいけれど言葉が出ない。
代わりに胸の鼓動がダンに聞こえてしまいそうなほど大きく響く。
「なあ、俺が短い髪のがいいって思うだけじゃダメか? それでもそんなに悲しいか」
囁くダンの唇がアミーナの耳元に触れた。
今やアミーナの涙は完全に止まってしまっている。
(いやだ……。なんでこんなにドキドキしちゃうの?)
首に巻きつく腕を掴み、何か言わなくてはと言葉を探す。
「え……と。でも、男の子みたいでしょ……」
「そんな事ない。……すげえ可愛い」
目を閉じたままポツリと言うダンに、今度はアミーナの方がパニック状態に陥ってしまった。
「で、でもあの、たぶんロギも可愛いって言ってくれると思うし……その……」
「……なんだよ。お前はいつでも何でもロギだな」
少しだけ不機嫌そうな響き。
なぜか言い訳したいような思いにかられてしまう。
「だ、だってロギが傍にいなかった事なんてないから、つい基準にしちゃうって言うか、考えちゃうって言うか……」
「……そういや、さっきも泣くなって言ってたな。ロギはこれを見越してたのか」
「ん……たぶんそうだと思う。私が自分の髪を気に入ってたの知ってるし。ロギは私の事、私より良くわかるみたい……」
ふいにアミーナを抱く腕にギュッと力がこもった。
同時に早鐘を打つ胸が小さく悲鳴を上げる。
「もういい。今ここでお前を心配してるのは俺だぞ。少しは俺の事考えたらどうだ」
「わ、私……! 考えてるよ。そんなの、今じゃなくてもちっちゃいダンの時からだよ。可愛いけど意地悪だし、でも優しいときもあって……!」
思わず俯いて首に巻きつくダンの腕に顔を埋めてしまう。
「ダンはちっちゃい男の子なのに……私、頭がおかしくなったのかなってずっと……」
蚊の鳴くほどの小さな声で呟くと、ダンの指先がアミーナの頬をそっと押した。
「こっち向いてよく見ろよ。……今のこれが、本物の俺だ」
「…………」
耳元で響く低い声も頬を促す指も決して強引ではないのに、アミーナはダンに言われるまま肩越しの彼に顔を巡らせた。
目の前で揺れる黒曜石の瞳。
それが今まで見たこともない、真剣な色と艶を湛えて見つめてくる。
「……ダン……あのね、私さっき泉……で……」
アミーナの肩が引き寄せられ、言葉は宙に浮いたまま霞んで消えた。
ゆっくりと視界が彼だけになり、胸の鼓動が甘い痛みに変わっていく――。
すると目の前まで迫った黒い瞳が、突然大きく見開かれた。
「お前それ……どっちだ。ロギか、それとも……俺か」
「……? 何のこと……」
「だから、今お前の頭の中は……!」
その時、形ばかりのノックと共に部屋のドアが開け放たれた。
「大丈夫かい、アミーナ。ちゃんと手当ては出来た……」
ドアから顔を覗かせたロギが言葉を切る。
肩越しに振り返ったアミーナと、その傍で立ち尽くすダンもまた声を失ったまま身動きすら出来ない。
「あ、あの……ダンが手伝ってくれてちゃんと冷やしたよ。もう痛くないし、それに……」
「うん、そのようだね。ダンもここに居たならよかった。呼びに行く手間が省けた」
ロギはいつもと変わらない穏やかな瞳で微笑んだ。
「……俺に何か用だったのか?」
「ああ。奴らが侵入したという事は、屋敷の外で見張りをしてる者達を蹴散らしてきたのだろう。様子を見に行ってやらなければ。一緒に来てくれ」
「そうか……わかった」
ダンが傍らのアミーナに一瞬目を落とし、ドアに向かって踵を返す。
ついさっきまであんなに近くにあったダンの瞳。
そして心までも寄せ合ったように思えるのに、その背中は振り返る事無く廊下へと消えていく。
(さっきの……何だったんだろう……。俺か、ロギか……?)
得体の知れない不安とまだ胸に残る甘い痛みに小さく息を漏らすと、ドアを押さえたままのロギがアミーナに呼びかけた。
「すぐ戻るから心配しないで。ああ、今日はもう屋敷から出てはいけないよ、いいね」
「あ、はい。行ってらっしゃい」
慌てて笑顔を作り手を振ると、ロギはおっとりとうなずいて部屋を出て行った。
――何も言わずに前を歩き続けるロギの靴音だけが、やけに大きくダンの耳に響いている。
それが余計に今のもやもやした気持ちに拍車を掛けているのかもしれない。
元々、何事もハッキリさせないと落ち着かない自分の性分はわかりきっているし、これはダンにとっても相当大事な白黒だ。
「……なあロギ。その……見たか?」
思い切って掛けた言葉だったが、心理的なものの影響か歯切れの悪いものになってしまう。
「……見たよ。紫色だったな」
振り返りもせずにロギの背中が答えると、ダンの顔がボッと熱くなった。
「あ、あのでも、あいつ髪の事気にしてピーピー泣いてたんだよ。だからなんとか落ち着かせようと……それにロギの話もしてたから、もしかしたら……」
「二ヶ月くらい前からかな。時々あの色になるんだ。本人は気づいてはいないようだが」
「……え……」
踊るダンの胸の内に、急速に冷えたものが広がっていく。
熱かった顔が、今度は違う感情でさらに熱く燃える。
「いや、気恥ずかしいものだな。他人に知られるというのは」
ロギがようやく足を止めて、はにかんだ微笑で振り返った。
その笑顔をダンはまともに見ることが出来ない。
「じゃあ……やっぱりあれは、ロギ……」
「ん? もちろんそうだ。他に誰がいる。ヴォックスとでも言うつもりか」
そんな冗談にも今のダンは強張った笑いしか返せない。
それでももう一つ白黒ハッキリさせなければならない事がある。
「ロギは……それをどうするんだ。俺はてっきり、あんたはあいつの事、妹のようなそんな感覚で見てるのかと……」
「愚問だな。アミーナを妹として見た事など一度も無い」
「…………!」
ロギは一瞬遠くなった蒼い瞳を細め、そしてゆっくりとダンを見据えた。
「この屋敷であの子が私を必要としたあの日から、私はアミーナの為だけに生きている。それは今も、これからも変わることはない」
ダンの言葉を待たずに、ロギが庭に続く扉を押し開ける。
傾きかけた眩しい西日が、強くダンの目と心を射抜いた。
「さあ、私は表門から東回りで様子を見てくるから、ダンは西回りで頼む。怪我をしている者がいたら……」
淡々と手順を説明をするロギに付いて、ダンも表門に向かって重い足を運び始める。
そして――。
先に立って歩くロギは、震える拳を密かに握り締めていた。




