現れた男
しばらく木々の間をとぼとぼと歩いていくと、ロギの言った通り碧色の湧き水を湛える小さな泉があった。
そのほとりで足を止め、アミーナは小さくため息をつく。
「ダンの……バカ」
思わずそんな言葉が口をついて出た。
(少しは効果があると思ったのに……ホントにひどいんだから。すぐリアンと比べるし……)
頭にくる……と言うよりも、なんだかモヤモヤとして悲しいような寂しいような、それでいてやっぱり腹立たしいようなおかしな気分。
アミーナは脱力したように泉のほとりに座り込んでしまった。
「あんな小さい子にムキになる私がおかしいのかな……」
泉を覗き込み、鏡のような水面に映る自分自身に話しかけてみる。
口を開けば悪口ばかり。
可愛いけれど憎らしい。
かと思うと、風の匂いが変わっただけで、アミーナを自分の後ろに押し込んで周囲に目を光らせる。
その小さな背中がとても頼もしい。
時折差し出される小さな手は自信に満ちて、それに自分の手を重ねると何も怖くはなくなる――。
「……ん?」
光の加減だろうか。
泉の中に居る自分の顔が、少しいつもと違うような気がする。
どこか、何かが、違っている……。
アミーナはじっと水面の中の自分と見つめあった。
「…………瞳……?」
見間違いかとギュッと瞬きをして、恐る恐る目を開ける。
すると、泉からこちらを見つめる自分の後ろに、突然見知らぬ男の顔が映りこんだ。
(……っ!)
アミーナの身体に一瞬、ゾクッとした悪寒が走る。
振り返る間もなく、後ろからその男の大きな手がアミーナの口から顎までを鷲掴みにした。
「ぅぐ……!」
声を出す暇もない。
あっという間に男の胸に押し込められ、悲鳴の代わりに唸り声を上げた。
力任せに手足をバタつかせ、自分をがっちりつかんでいる腕や脚を必死で叩く。
口を塞ぐ手が緩んでホッとしたのも束の間、その手は容赦なくアミーナの頬を殴り飛ばした。
息が止まり、目の前が斑に暗くなって、次に視界が空だけになる。
(殴られるって、こういう事……?)
毒を盛られた時ダンに頬を叩かれたが、こんな風に脳が揺れるような衝撃ではなかった。
地面に投げ出され、頬に燃えるような痛みを感じたのは後の事。
すかさず熱い頬に冷たい短剣がグッと押し付けられ、アミーナは生まれて初めて直接触れる「悪意」というものにゾッと寒気がした。
「一言も漏らすな。声をあげたら……喉を掻き切る」
耳元に響く押し殺した低い声に鳥肌が立つ。
首に筋を立て、気持ちだけは逃れようとするが身体は全く動かない。
見上げたその男は、赤みがかった髪に濃い灰色の瞳。
ロギよりもさらにいくつか年上に見える。
そして赤い髪の男はアミーナの腕を乱暴に引き上げて、無理やり立ち上がらせた。
「歩け。仲間の所へ」
命令を下す静かな声。
アミーナの首筋に滑り降りた短剣も、腰を抱く腕にも、震えや気負いなど微塵もない。
(この人……慣れてるんだ。こういう事に……)
おぼつかない足取りで、男に引きずられるように来た道を戻る。
すぐに噴水の前で立ち尽くす三人の姿が見えてきた。
彼らとの距離はまだかなりあったが、三人が青ざめてこちらを見ているのがわかる。
「リア……無事だったか」
背後からの小さなつぶやきに思わずアミーナが振り返ると、自分達のさらに後ろを見知らぬ男達がゾロゾロと付いてきている事に気付いた。
それぞれの武器を手にし付き従うように歩いてくる様子からして、この赤髪の男の仲間なのだろう。
やがて緊張の色が隠せないダンとロギ、そしてアミーナを手中に置く赤髪の男が中庭で対峙した。
「……お約束もなく突然伺った非礼、お詫び申し上げます。うちの皇女がお世話になっていると知り、お迎えにあがりました」
赤髪の男のうやうやしい物言いに、後ろの仲間達から下卑た笑いが漏れる。
「マグナ……!」
揺れる瞳で赤髪の男を見つめながら、リアンが声を震わせた。
名を呼ばれ、ゆっくりとマグナも冷ややかな灰色の目をリアンに向ける。
「どうして……? だって……」
複雑に絡み合う二人の視線を遮るようにロギとダンがリアンの目の前に進み出た。
「おかしな事を。貴殿は自分の皇女を迎えにくるのに、わざわざ人質をとるのか? そんな疑わしい者にリアンを渡す気はない」
「てめえ……! そのクソ汚ねぇ手をうちの皇女からどけろ。アミーナを放せぇ!」
ダンの甲高い声に後ろの男達から失笑が沸き起こる中、マグナだけが冷たい表情のまま口を開く。
「いや、もう一つ返して貰いたい物があるんでな。……そこのチビに」
ダンとロギが無言のまま顔を見合わせる。
「懐中時計を返して貰おう。持ち帰っているはずだ。……そこに彫られたセルゲイの紋章には当然気付いているんだろう?」
その言葉にリアンは物憂げな面持ちで静かに目を閉じ、アミーナは自分の耳を疑った。
「セルゲイって……北の地の? あなた達はセルゲイの……? どうしてリアンを……」
アミーナの問いには答えず、マグナがリアンに視線を向けて促す。
「来い、リアントロナ。懐中時計を持ってな」
ゆっくりと目を見開き、リアンは前に立ちふさがる二人の背中に呟いた。
「……どこにあるの? ずっと探していたけれど見つからなかったわ。あなた達のどちらかが身に着けているんでしょう、早く渡して。……マグナは気の長い方じゃないの。じれるとアミーナに何をするか……」
「私がさっき言った事、聞こえなかったかい? 君を彼らに渡す気はない。勿論、懐中時計もだ」
「な……っ!?」
息を飲むリアンに、マグナを見据えたままのロギの背中が続ける。
「君の事情は後で聞く。だが私達は君を信じている。彼らとではなく、このまま私達と神の社に向かおう」
「リアンがセルゲイの皇女だって事くらい、俺たちは最初からわかってた。でも戻っちゃダメだリアン。お前も俺たちを信じろ」
ダンの小さな手が後ろ手にリアンのスカートをギュッと掴んだ。
「知ってた……? なぜ」
「西のカナンの『姿なき皇女』って呼び名は、もう二十年以上前にエデンが掴んでる情報なんだ。つまりカナンの皇女は少なくとも二十歳を越えてる。だからリアンはカナンの皇女じゃない」
「知っていながら、どうして嘘をつく私をここまで一緒につれてきたの!」
一切退く様子の無いロギの肩に触れ、真剣なその横顔を息をつめて見あげる。
今は強い光を帯びたコバルトブルーの瞳が、ふと柔らかく細められた。
「私達は、この前アミーナの神力が暴走するのを見ていたんだよ。あの時、君は自分の命を削ってまでアミーナを救ってくれた。君はどうあってもアミーナの敵にはならない……これは私達二人の直感でもある」
「…………!」
ダンがスカートをグイと引っ張り、ロギが片腕をリアンの背中に回して自分達の間に引き寄せる。
「あなたたちは全部知っていて……私に行くなと言ってるの?」
しっかりと頷く二人に囲まれ、リアンが再び静かに目を閉じる。
そして大きく息を吸い込み……叫んだ。
「私はマグナの……あなた達の所には戻らない! 私は道具じゃないわ。あなた達のやり方ではセルゲイの地も守れない。だから行かない! アミーナを放して!」
「……血迷ったか……リア……!」
マグナがこめかみに筋を立て、怒りに唇を奮わせる。
それを見上げ、アミーナは今のリアンの言葉がどれほど大きな決意なのかを肌で感じた。
(そうだ……リアンがどこの誰でも、もう私にとって大切な人だって事は変わらない。この人に渡しちゃダメだ、守らなきゃ……!)
「ならば交渉決裂という事になるが。エデンの皇女がこの程度の価値だったとは残念だな。この場で斬り捨てるか、それとも……」
マグナがアミーナに当てた短剣を腰の鞘に収め、代わりに首筋から頬を手のひらでゆっくりとまさぐる。
それはアミーナにとって、嫌悪と恐怖が入り混じった耐え難い感触。
「持ち帰って、飼い馴らすのも面白い。エデンの高貴なる皇女をこの手で滅茶苦茶に狂うまで……最高に楽しそうだ」
「ま、待て! 俺が……俺が懐中時計を持っていく。武器も外すし、何より俺みたいなチビ、何にもできねえよ! アミーナと引き換えだ」
ダンが慌ててダガーを装備する腰の皮ベルトを外し、前に放り出した。
だがマグナは冷ややかにダンを一瞥し、まるで見せ付けるかのようにアミーナの唇に指を這わせる。
「う……、いやぁ……っ!」
「お前が何も出来ないだと? 俺を舐めるなよクソガキ……。交渉はあくまでもリアントロナが持ち帰る懐中時計だ。それ以外は受け付けない。さあどうする? そら、お前達の皇女もその気になってきてるが……」
逃れようと身をよじっても、薄笑いを浮かべるマグナは後ろからしっかりとアミーナを抱きとめ、唇を執拗に弄ぶ指先も動きを止めない。
(私……! 私さえ捕まってなければ……!)
そう思うより先に、アミーナは自分の唇に触れるマグナの指に噛み付いていた。
嫌悪感からか、それこそ食いちぎってしまうかのように思い切り。
「うっ……!?」
マグナが驚いて手を緩める。
その隙にアミーナはマグナを振りほどき、走り出した。
だが。
「……! い、やあぁぁぁ!」
すぐさまマグナがアミーナの後ろ髪をわしづかみ、力任せに引きずり戻す。
よろよろとまたマグナの方へ引きずられていきながら、アミーナは咄嗟にスカートをたくし上げ、脚に取り付けた護身用のダガーを引き抜いた。
「アミーナ!?」
そう叫んだのは誰だったのか。
アミーナは捕まれた亜麻色の髪を、手にしたダガーで根元からザンと切り離した――!




