エデンの皇女(ひめみこ)
シャン……、シャン……。
祭司の掲げる鈴の束が、夕凪の広場に柔らかく響き渡る。
中央の池の周りをぐるりと取り囲んだかがり火にも、灯がともされた。
普段は町の人々の憩いの場となっているこの広場も、このような祭祀の儀を執り行う時ばかりは、神聖な場所へと変わる。
それは今、鈴を持つ祭司も同じで、本業は牛飼いを生業とする気のいい町人だ。
池の中央に浮かぶ、平坦な小島に設けられた祭壇へ掛かる細い橋。
そこに、白い薄絹とヴェールをまとった娘が進み出た。
池の周りで多くの町人が見守る中、娘はゆっくりとした足取りで祭壇に辿り着くと、静かに両手を胸に当て跪いた。
長いヴェールと彼女の亜麻色の髪がふわりと足元に広がり、かがり火の薪がはぜる音だけがしばらく辺りに響き渡る。
すると突然、娘がヴェールを跳ね上げ、舞い始めた。
くるくると回り、腕を上下させる度に白いヴェールが霞みのように彼女の周りを漂う。
静寂の中、池の水面に映る娘の舞う姿とかがり火は、人々をえもいわれぬ幻想的な世界へといざなった。
風や大地と一体となり、その心のおもむくままに舞う娘は、神の娘と伝えられ人々に『皇女』と呼ばれる者の一人。
皇女は代々、国の各領主家に生まれ、それぞれが特別な神力を持つ巫女のような存在だ。
彼女はこの東の領地、『エデン』の皇女アミナティレーヌ。
そして今宵は御霊宿りの儀式の日――――。
「無事に始まったか……」
広場の斜め前に太い幹を下ろす一本の木の上で、ロギユールは皇女から目を離さずにホッと安堵の息を漏らした。
すっかり日も落ち、闇に包まれたこんな木の上に人が居ようとは誰も気づかないだろう。
そこへ僅かに葉を揺らし、小さな影がロギユールの背後の枝に姿を現した。
「……ったく。なんでこんな木の上になんか……大体、守り人が皇女の傍から離れちゃまずいんじゃないか?」
ぶつぶつと文句を言いながら、その男の子はくりくりとした大きな黒い瞳でロギユールを軽く睨む。
「ここが一番よく広場全体が見渡せるんだ。おかしな動きをする者が居ればすぐに目に付く。とは言え、こんな人目のある所では仕掛けてこないだろう。奴らはあくまで秘密裏に事を運びたいはずだ」
口元に笑いを含みながらも、ロギユールの視線に油断などない。
「ダン、お前もこちらの枝に出て来るといい。そこじゃアミーナの舞がよく見えないだろう」
「俺は皇女の舞を見物に来たわけじゃない。ロギこそそんな前の枝に居たら、いくらなんでも目立つぞ。あんた、自分の容姿がどんだけ人目を引くかわかってないだろ」
ダンの言葉を気にも留めず、ロギはそのサラサラと流れる金髪を無造作にかきあげた。
「その点、ダンはいいな。髪も瞳も黒いから闇に溶けるし、なにより小さくて目につきにくい」
「……ふん。子供なんだから小さいのは当たり前だろ」
少々不服そうに、ダンが口を尖らせる。
「はは、ごめんごめん。バカにした訳じゃないんだ。それはわかってるだろう?」
ロギのコバルトブルーの瞳が微笑むと、ダンは諦めたように前の枝に出てきて腰を下ろした。
「……本当だ。ここ、よく見える……」
「だろう? アミーナの舞いも、いつもより冴え渡っているよ。御霊宿りの儀式は、これからこのエデンの地をしばらく離れる皇女の代わりに、精霊達に留守を頼むものだからな。おのずと心がこもるのだろう。……さあ、そろそろクライマックスだ」
その時、祭壇のアミーナが胸の辺りでパンと両手を合わせた。
そのまま、それをゆっくりと頭上高く掲げる。
すると、薄ぼんやりと光る霧のようなものがアミーナの指先や、周りの木々に向かって降りてきた。
人々の間から、控えめな歓声が湧き起こる。
光る霧はアミーナを包み込み、やがて彼女の榛色の瞳を輝く金色に変えた。
「……来たぞ。アミーナにエデンの神が降りた」
ロギの囁きに、ダンが息を飲む。
アミーナがまた静かに舞い始めた。
漂う金色の霧と、金色のアミーナの瞳。
それは夢を見るように美しい、そして不思議な光景――。
「ダンは、皇女の瞳の色が変わるのを見るのは初めてだろう? 神降りは金だが、その他に感情によって様々に色が変わる。それが皇女である証だ」
「知ってるよ。……皇女の事ならなんでも」
「そうだったな……」
二人はそうしてしばらく黙ったまま、儀式の舞を舞うアミーナを見つめていた。
「……綺麗なものなんだな」
「ああ……。綺麗だ」
いつのまにか、ダンは枝の上に立ち上がっている。
やがて、静かにアミーナの舞が終わっても、夢の中にいるようにしばらくそこから動けないようだった。
「あれがエデンの皇女……。なんか、ちょっとイメージが……なあロギ、アミーナってさ……」
ダンがまだぼんやりとしたまま振り返ると、そこにはもうロギの姿はなかった。
――池の中央の祭壇から小鹿のように駆け戻り、アミーナが祭司の横で微笑んでいるロギの腕に飛び込んでくる。
「ロギ! どうだった? 私、今日はすごく上手に舞えたと思う。精霊たちがいってらっしゃいって。神の社まで、気を付けてねって言ってくれたの。ねえ、ちゃんと見ててくれた?」
「もちろん、ちゃんと見ていたよ。とても素敵だったよアミーナ。でも感想の続きは、屋敷にもどってからゆっくりとね」
ロギは胸元にアミーナを押し込み、素早く自分のマントで包んだ。
周囲を取り巻く町人達は、未だ儀式の興奮から覚めやらぬ様子でアミーナに熱い視線を送っている。
こんな所に長くは居られない。
「では祭司殿、我々は屋敷に戻ります。皇女は明日の早朝にはここを発ちますが、見送りなど一切不要です。あくまでいつも通り……それを心がけ、留守を頼みます」
祭司は鷹揚に頷いて見せると、ロギのマントで覆われたアミーナに真摯な目を向けた。
「皇女様、どうかご無事で……。ロギユール様という守り人がついていらっしゃるのですから安心してはおりますが、くれぐれも無理はなさいませんよう。お帰りを心からお待ち申し上げております」
深々と頭を垂れたかと思うと、祭司はいつもの人懐こい笑顔になった。
それにつられたようにアミーナも笑って頷いている。
ロギは祭司の肩を軽く叩くと、人々の波を縫って足早に屋敷への道を戻り始めた。
「さあ、早く帰らないと。屋敷でお客様がお待ちかねだよ」
「お客様って……、あ、もしかしてやっと?」
アミーナが興味深げに目を輝かせると、背後からタタッと小さな足音が聞こえた。
「置いてくなんてひどいぞロギ!」
振り返るより先に、アミーナのスカートが後ろからギュッと引っ張られる。
「きゃっ! ……え? 何この子」
「ああそうか、忘れてた」
そこにはスカートの裾をしっかり握ったダンが、プウッと頬を膨らませて立っていた。