3 暗き泥、疾駆する刃
ウチの学校の通学区はけっこう広範囲に及んでいる。
中には自宅から10数キロもの距離を通ってくる生徒もいるそうだが、よそと違ってここ群馬という所はとにかく公共の交通網という物が絶望的に限られている。
電車などという物は東西南北にそれぞれ1本ずつしかない。
その上駅だって主要都市間には数えるくらいしかなく、これが学生にとっては重大な問題としてのしかかってくる。
となると通学の手段としてはバスか…後は自転車ということになるのだけれど、バスにだって「許容距離」という物がある。つまり、学校と自宅の距離が片道何キロ以上でないと許可が下りないのだ。
ほとんどの生徒にとって、結局最後の選択となるのは自転車という手段。
16歳ともなれば、一応法律上では自動二輪免許も取得できるはずなのだけど、あの頃は「バイクに乗らない、乗せない、免許を取らせない」という、いわゆる「三ナイ運動」と呼ばれた、先にもふれた「エレキギター禁止!」と並ぶ、あたかも生類憐みの法とか治安維持法、海の向こうであったという禁酒法みたいな悪法(いや法ではないけど)が吹き荒れていた時代だった。
余談になるけれど、僕はその後大学に進学してからアルバイトしてエレキギターも買ったし、バイクの免許も取得した。
いわば、一人前の「不良」になったわけだ。
一方的に締め付けているだけじゃ、いつかその反動がくるんだぞ、と、今になってそう言える様になったけれど、当時のいち高校生にはお上…じゃなかった、学校が決めた事には従うしかなかったので、僕も素直に自転車通学という選択肢に落ち着くことになった。
でも、この自転車通学という手段は過酷だった。ええ、それはもう。
ご存じの通り、群馬という所は北関東の端っこに位置する。広大な関東平野の末端だ。
平坦だった地形はそこから山間に向かって急に上り坂になる。
特に県道高崎渋川線付近を走ってみるとその変化がよく分かる。
次第に重くなるペダル。
そのペダルを間断なく漕いでいないと、すぐに止まってしまうホィール。
それだけではない。群馬という所は風が強い。とにかく強い。
冬になれば、赤城の山から吹き降りてくる空っ風と否が応でも戦わざるを得ない。
空っ風とは別名「赤城おろし」とも呼ばれる、冬に吹く乾燥した風だ。
風が山を越えてくる時に気温とか気圧が下がって、空気中の水蒸気は雪とか雨になってそこで降る。すると残った乾燥した空気だけが麓━━というか僕たちの住む所に吹き込んでくるというわけだ━━という事を、中学の頃に教わった覚えがある。
おまけにただでさえ空気がやたらと乾いているものだから、土も当然からっから。
この辺りは畑も多いから、そこかしこに収穫を終えてダークイエローの地肌をさらした所を目にすることができるのだけれど…そこにぴゅーっと強い風が吹いてくるわけで。
…目下帰宅途中の僕は、ゴビ砂漠もかくやという砂嵐の中を自転車で撤退中。
目指すは数キロ先の懐かしき我が家。
ああ、目が痛い。
ペダルを漕ぐ足が重い。
風に煽られて、ハンドルを真っ直ぐに保つことさえ困難だ。
おまけに、背中には虎の子の愛機を収納したギターケースを背負ってるから、これが無闇矢鱈と風の抵抗を受けてくれるんだよなあ…
もちろん、ケースのチャックはしっかりと閉めてある。大事な大事な大事なギターだ、
うっかりとチャックを閉め忘れて転がり落としでもしたら泣くに泣けないし、そうでなくとも、隙間から砂が入り込んだりしたら後で大変な事になっちゃうし。
できればこんな付属品のソフトケースなんかでなくて、ちゃんとした高価なハードケースが欲しい所だけれど、高校生のお財布事情ではそれも夢の様なお話だった。
だってあれ、2万円くらいするもんなあ…とほほ。
今の僕は、まさに身も心もお寒い状態だった。
…こんなのを、あと2年も続けるのかあ…と思うと、その心も折れそうだけど。
とはいえ。とはいえども。
今日は憧れの剣城先生とも色々と話せたし、それ以上に先生が僕の名前を知っていてくれたという事が何よりも嬉しかった。
こんな剣城先生との距離感を保てるのならその二年間も悪くはない。いやむしろ喜ばしい。
そんなことを考えながらえいこらほいこらと自転車を漕いでいると、数年前に開通したばかりの上越新幹線の側道に出た。
ふぅ。
ここまでくればひと息つけるんだ。高くそびえる新幹線の高架も、この先くらいからトンネルになるので、次第にその高さも低くなってくる。このおかげで線路の壁が風よけになってくれるので、さっきまで僕を悩ませていた強風も砂埃も凌げるのだ。
僕は自転車を止めて、制服についた砂埃を払い落とした。
大人だったらここで煙草でも咥えてジッポライターでもしゅぽっ!と点けたりもするのだろうけれども、さすがに未成年にはご法度だ。
こんな連想しちゃうのは、昨夜テレビでやってたイーストウッドの映画なんかを観たせいかな。
で、僕は紫煙ではなく白い息を吐いた。
晩秋の夜の足は速い。
今までは無我夢中で自転車を漕いでいたので意識していなかったけれど、気が付けば周囲はもう真っ暗になっていた。
夜の帳も下りてきて、という奴だ。
そろそろ自転車のライトも点けなければ…とは思ったものの、気が乗らない。
あの頃の自転車のライトって、今のように電池搭載のLED式なんて便利なものではなく、まだシャフト部をホィールに接置させてダイナモを回転させることによって自家発電させる原始的な仕組みの奴だったから、シャフトが当たって抵抗が大きくなる分、さらにペダルが重くなってしまうという難題があったからね。
さっきまでの空っ風とのバトルでいい加減バテ気味だった僕は、できることならもうペダルを漕ぐというガレー船の漕ぎ手まがいな重労働は御免こうむりたかったのが本音だった。
我が家まではまだけっこうな距離がある。
一刻も早く帰宅して温かいお風呂に飛び込みたくはあったけれど、もう一度サドルに跨って一歩を踏み出すのも億劫だ。
とはいえ、いつまでもこんな所に立ちんぼしているわけにもゆかない。
僕はもう一度肺から白い息を吐き出すと、自転車から降りたまま押して帰ることにした。
いつもならば、さほど気にならない(上州弁でいうと『クンナラナイ』)様な道筋だったけれど、今日に限っては何故かやたらと疲労を感じた。
それはいつも以上に空っ風のヤローの勢いが強かったせいなのか、それとも今日屋上で起こったラッキーないきさつが、思いのほか精神的にプレッシャーを与えたのか。
うむ。どうやら人間という奴は、過度の幸福感にも疲労を覚える時もあるのだな、などとひとりで哲学っぽいかもしれない気分に浸りつつ、僕は自転車を押しながら歩いて行った。
側道をしばらく歩いていると、やがてほんの小さな小川に架かった橋の上に差し掛かった。
相変わらず、周囲には人どころか車の1台も通らない。
ほんの3m程度の橋の真ん中付近で、僕はあることを思い出した。
僕の親父から聞いた話だけど、今から50年も昔、檀家回りで酒に酔ってお寺に帰る途中の坊さんが、この橋の上でムジナに化かされて自転車から川に転落して、首の骨を折って亡くなったという事件があったのだという。
高校に入学して、それまでは縁のなかったこの道を通う様になった頃、父からそんな話を聞いた時、僕はまさかぁ、と一笑に伏したものだ。
だってその小川は、水だってちょろちょろ程度しか流れていないし、橋から転落したとは言っても、川岸までの高さなんて1m半くらいしかなかったのだしね。
まさかそんな所から落っこちたところで人は死なないよぉ、というのが僕の感想だった。
そんな与太話(としか思えなかった)を耳にした後でも、僕は毎日この橋の上を往来する日々を送っていた。
そのうちには記憶の片隅の引き出しにでもしまってしまったのか、僕は父から聞いたこの話をすっかり忘れていたのだけれど。
なぜか今日、今になってそんな話を思い出してしまった。
間が悪い。
さっきもちょっとふれたけれど、僕はオカルトの類は信じていない。
ムジナが人を化かすのはおとぎ話の中だけだ。
もし坊さんが本当にここで亡くなったのだとしても、それは酒に酔った勢いでの不幸な事故という奴だろう。
今年の春から夏に移り変わる頃。日曜日の朝、市内のデパートまで自転車で出かけた時に、道路端の桑畑の中で、自転車をほっぽり出して大の字に倒れているオッサンを見た事がある。最初は死んでるのかな…と恐る恐る近寄ってみるといびきが聞こえた。
オッサンの身体からは熟柿の臭いがした。
ああ何だ酔っ払いかぁと呆れた僕は、オッサン起きろよ、こんな所で寝てると風邪ひくぞ車に轢かれるぞとそのでっぷりした腹をゆすっていたら、うるせぇとエルボーをくらってしまった苦い経験がる。
敬愛するウチの親父殿にしても似た様な物だ。
僕の世代の親としては珍しく大正年間の生まれの父は、戦時中、大陸への出兵経験を経て戦後は県職として定年を迎えた。今は家で植木屋との兼業農家を営んでいる。
僕とは半世紀も歳が離れているのでジェネレーション・ギャップという物がとてつもなく大きいのだが、酒に酔うと必ず「タンコウブシ」とか「ムギトヘイタイ」なんて僕の知らない様な歌を、兵隊上がり独特の銅間声でがなり立てている。
子供の頃はお父さんやめてよーうるさいよーと文句を言っていた覚えもあったけど、僕や母がいくら抗議しても治らないので、いつの頃からは我が家の黙認事項となっていた。
そんなわけで、僕は酔っ払いという人種には、あまりいい印象がない。
…ずっと後になって、血は争えないものだということを自覚したのは別のお話。
まあそんなわけで、父から聞いた昔話も僕は信じてはいなかったんだ。
信じてはいなかったけれど、今まさにくだんの場所の上に立っているという事実が
僕のおつむの中の引き出しを開けたのだと思う。
「…こんな所で人が死ぬかなぁ…」
ぽつりと正直な感想。
父の話では、その事件があった頃、この橋はまだ丸太で組んだ、床面だけで手すりもない様な粗末な橋(地獄橋という奴だ)だったという。
まあそれなら酔った勢いで転がり落ちるのも道理かな、と思う。
僕は何気なく、橋の側面のガードレールから下をのぞきこんでみた。
すでに周囲は真っ暗になっていて、こんな時分に見ると、橋の下からわずか1m半くらいの所にあるはずの川面もよく分からない。
あまり良くない視力をこらしてみていると、まだわずかに吹いている風のせいで小さな波が立っているのが見てとれた。
小川とはいっても、実際の所はドブ川といった方が相応しい様な有様の川だったから、こうしてまじまじとのぞきこんでいると、そこはかとない悪臭も漂ってくる。
こんな場所で死ぬのはさすがにイヤだなぁ…なんて事を考えていると、その川面に何やら小さな波紋みたいなものができた。
カエルか何かかなとは思ったものの、考えてみれば11月ももう終わりというこの時期にまだ現役続行中の剛の者がいるわけもない。
気になって見つめているうちに、その波紋は次第に大きくなってきた。
何だろう、イヤな予感がする。
その波紋はある程度の大きさになると、その中心部がにゅう、と盛り上がってきた。
え…?蛇…?
いや蛇だったら、少なくとも僕の知っている様な至極まっとうな蛇だったら、カエルと同じ様にこの時節には土の下でおねむになっているはずだ…よな?
突然の異様な何かの出現に、僕は混乱した。
その何かは妙に粘性を持っている様で、例えるならコールタールみたいな感じだった。
コールタールもどきは、次第に大きさを増してゆき、今や人の頭くらいのサイズを保ったまま、橋の高さの半分くらいまで伸びてきた。
「…え…え…?」
人は未知の物に対して最も恐怖を抱くというのを、前に読んだ何とかという海外のホラー作家の小説で読んだことがある。
あまりの恐怖心にかられてしまった場合は、悲鳴のひとつさえ出てこないみたいだ。
だってそうだろ?僕はこんなの知らないぞ?だってほら…そのコールタールもどきは今やガードレールを乗り越え、僕の目の前まで伸びてきていて…
その先端には、悪臭を放つ真っ赤な口があって。
その口の中で、まるで人間の様な歯並びをした歯が、がちがちと音を立てていたのだから。
何が何だか分からなかった。
ただ直感的に思った。
“下手に逃げ出したりした途端、こいつはきっと僕に喰らいついてくるに違いない”
今の所は、このコールタールもこっちの様子をうかがっているのだろう。
それが「こいつは食えるのか」とか「どんな味がするのか」「骨までかじろうか」なんて剣呑なことではないことを祈ろうにも、その希望は叶えられそうもなかった。
死にたくなんてないよ!
そう、死にたくなんてない。
ましてやこんな得体のしれないコールタールに噛み砕かれて最期を遂げるなんて冗談じゃない!
でも、コールタールの大きな口は、もう僕の目と鼻の先まで迫ってきていて…
ことさら大きく口を開いたかと思うと…僕の頭に…
ぐしゃ。
鈍く響いたその音を、僕の耳ははっきりと聞き取ることができた。
あれ?
痛みはなかった。
目の前に迫ってきていた大きな口も消えていた。
「…あれ?食われてないや」
その時に僕の口から漏れたのは、そんな間抜けなひと言だった。
脱力感を覚え、へなへなと僕は座り込んでしまった。その拍子に自転車は転倒し、大事なギターも転がって大きな音を立てたけれど、今はそれを気遣う余裕もなかった。
一体何が起こったのか周囲を見渡してみると、僕を襲ったコールタールは少し離れた所でのたうちまわっている所だった。
相変わらず下半身(?)は川の中だったけれど…って、あれ?この川なんて深さは大したことがないはずだから、もしかすると下半身は川の底よりもっと深い所にあるのかもしれない。
そのコールタールの意識(意識なんてあるのか?)は、僕の方には向いていなかった。
もっと別の所、空に向いているみたいだった。
つられて僕も見上げたそこには、人が浮かんでいた。
いや違う、飛んでいたんだ。
宙に舞うその人影は、闇にまぎれて細部が見れなかったけれど、かなりほっそりとしていて、どことなく女性の様なシルエットではあった。
でもただの女の人(?)が、空を自在に飛べるわけもない。背中にはちゃんと翼が生えている…って、翼!?
そう、まるで蝙蝠の様な翼を羽ばたかせていたんだ。
さっきの音は、あの女の人が、こいつに何か攻撃を仕掛けたのだろうか?それは定かではなかったけれど、どうやらコールタールは、女の人を敵だと理解したみたいだった。
コールタールはあのおぞましい歯をがちがちと鳴らしながら、女の人に向かってさらにその身を伸ばして襲いかかったけれど、女の人は器用に空中を舞いながら、間一髪のところでこれをかわし続けている。
何度目かのアタックをかわしきった時、その女の人はにぃ、と笑った。いや嗤った。
暗闇でしかも機敏な動きをしていたから、僕には女の人の表情なんて分からなかったけれど、嗤ったと思えたのは、彼女の口が開いて上弦の月の様な形を取ったからだった。
笑ったのではない。嗤ったんだ。
明らかに自分よりも下等な存在に向ける嘲りの微笑。その冷徹さに僕は戦慄を覚えた。
彼女が嗤った時、その手に大きな鎌みたいな物を持っていることに気がついた。
タロットカードの死神が手にしている様な、いかにもな大鎌を。
さっきまでは徒手空拳だったはずなのに…ともう一度彼女を見て、僕は再度戦慄してしまった。
あの大鎌は手にしているんじゃない、彼女の左手そのものが巨大な鎌と化していたんだ。
コールタールは鎌を警戒している様だった。フェイントをかけているつもりなのか、その巨体をゆっくりと左右に揺らせながら、反撃の機会を狙っている。
対する女の人も宙に舞ったまま、大鎌と化した左手を構えている。
わずかの間ではあるが、沈黙ができた。
僕と言えば、さっきからへたり込んでしまったままだった。
と、コールタールの身体の中間部分辺りが急に膨張した。
その膨張部分は次第に上の方へと動いてゆき…それが先端部分まできた時。
げぇぇぇ!と、まるで嘔吐する酔っ払いの様ないやな音を立てて、コールタールは嫌な悪臭を放つ粘液を彼女に向かって吐き出した!
そのあまりにも吐き気をもよおす悪臭が、皮肉にもぼんやりしていた僕の頭を目覚めさせたみたいだった。
だから、その直後に起きた一連の出来事ははっきりと覚えている。
吐き出された粘液の勢いは凄まじいもので、彼女のいた位置よりずっと後ろに位置していた新幹線の高架壁にまで達していた。
粘液がびしゃっ!と音を立てて高架壁に飛び散った時、すでに彼女の姿は消えていた。
粘液を浴びた辺りの高架壁は、吐き気を催す臭いを発して溶けてしまい、重量に耐えきれずにがらがらと音を立てて崩れ落ちる。
やられた!と思ったのも瞬時。
彼女はこの攻撃すら見事にかわしていた。
そのまま身体をひねる様に旋回しながら、コールタールに向かってゆく彼女。
その先にはまだ大きく開けたままの真っ赤な口があったけれど、彼女はまったく躊躇することもなく突っ込んでゆき、そのまま大鎌と化した左手を振り下ろした!
十分に加速を伴った鋭利な鎌は、重力に従う様に真っ直ぐコールタールの巨体を引き裂いていった。
この時、僕は今日何度目かの、そして今日最後で今日最大の戦慄を覚えたのをはっきりと覚えている。
根元まで真っぷたつに引き裂かれたコールタールは、その断末魔にはっきりとこう言った。
《…痛テェ…》と。
僕にもはっきりと聞き取れる、低くてくぐもった日本語で。
明らかに人間の言葉のそれで。




