25 「一度起きてしまった事実は換えられないの」
翌日。僕は文ちゃん先輩と示し合わせて、いつもよりずっと早く登校した。
朝6時半。校内にはまだ朝練の生徒どころか先生方も来ていない。
文ちゃん先輩を通して鮎子先生にも連絡してもらい、保健室で合流する事になっていた。
僕が保健室前の廊下に行くと、律儀な文ちゃん先輩はもう先に来ていた。僕の顔を見ると、彼女はちょっとだけ顔を赤らめたので、こっちも何だか照れ臭くなってしまった。
無理もない。昨夜のすったもんだなんて、そうそう経験できるものじゃないし、実際、僕だって昨夜はほぼ眠れなかったし。
「あ…あの、志賀君。お…おはようございます」
「あ…いいえこちらこそ、何と言うか、はあ、ごきげんうるわしゅうございます」
「あの…昨夜はその…お手数をおかけしまして…きょ、恐縮です…」
「あ…そんなお気遣いなく、僕の方こそ大変な失礼を…その後、お変わりございませんでしょうか」
「いえ!…その節は大変なご厚情を戴き、私としても誠意をもって今後に臨ませていただきたく…」
「…そのまま名刺交換でもやっちゃえ」
何だかジト目になった鮎子先生が、いつの間にか僕たちの間に立っていた。
僕も文ちゃん先輩も硬直する。…いつの間にいたんだろう。
「先生!」
「おねえちゃん!」
「せーしゅんしてるねー。うんうん。善きかな善きかな。もっと照れ合っちゃいなさいな」
嬉しそうだなあ鮎子先生。
「…で、せーしゅん真っ最中のカップルさんたちが、何の御用かな?デートの手順のご相談?おススメのスポット?あ、いくら何でもまだ一線は越しちゃあダメよお?さすがにそういうのは、先生感心しないなあ。それ以外の事なら、この鮎子先生にどーんと任せちゃいなさい?先生、なーんでも相談に乗っちゃうから」
鮎子先生はぽん!と胸を叩いた。
…何だこのテンション高いカミサマ代行さんは。昨日までのノリとずいぶん違うぞ。
「おっ、おねえちゃん!!」
文ちゃん先輩は子供みたいに鮎子先生をポカポカ叩いている。…こちらもイメージが変わってしまった。…まあ可愛いからいいけど。つか余計にポイント高かったりする。
「…それで志賀君、こんな朝早くから何の用なのかな?本当は」
顔だけは真面目になってこちらに聞いてくる鮎子先生。でも、まだ文ちゃん先輩にポカポカと叩かれているままなのは、ちょっとカッコ悪い。
「…とりあえず、保健室に入りましょう」
僕はため息をついた。
カーテンが引かれたままの室内に入ると、ひんやりした空気が肌に染み込んでくる。
「…まだ寒いね。ストーブ点けよっか?」
「いえ、誰かきたら困るので…人にはあまり聞かせたくない話ですから」
「じゃあ、明りも点けない方がいいね」
「そうですね」
「…で、お話ってなぁに?」
「…実は…亡くなった倉澤副部長の事で…」
僕はあくまでも仮説ですけど、と断ってから、僕が知りえた事実、そして推測をかいつまんで話した。
寺のおっちゃんから聞いた200年前の弥平の話と、半世紀前に死んだ安仁和尚の死因およびその後の不可解な遺体消失事件との間の共通性。どちらも彼らが一度死んでから蘇ったとしか思えない。
そしてあの化物「泥口」との関連性。
仮に「泥口菌」なんて細菌みたいな奴があるとしよう。弥平は空腹のあまりに口にしていた土から、安仁和尚は泥口に喰いつかれて致命傷となった脇腹の傷から、この「泥口菌」に感染したのではないか?
で、その細菌は次第に感染者の肉体と精神を蝕んでゆく。最期はおそらく死に至るのだろうけれど、何らかの条件が合ったりすると、その死後も細菌の活動は進行してゆく…
むしろ活性化してゆくのかもしれない。そして、その終着が…あの姿。
『その姿、蛇若しくは百足、注連縄に似て鎌首上げ蠢く。手足の類は見当たらず、痩躯泥に塗れて悪臭を放つ。頭に目玉無けれども大口有り。人の如き歯を打ち鳴らして犬、馬、牛、人を喰らへり。故に是を泥口と呼べり』
僕はあの掛軸にあった言葉を思い出して口にした。
前に比べれば恐怖心も薄らいできたとはいえ、やはりあの姿を思い出すと嫌な汗が出る。
「…それと倉澤さんに、どういう関係が…?」
「副部長は…泥口に喰われ…襲われて、ばらばらにされたんですよね?それから鮎子先生の力で蘇った…つまり、その『泥口菌』の進行は、その後もずっと続いていたと思うんです…一度死んだ事で、より活性化して…」
「…もしかしたら、あの子の肉体を再構築させるのに使った、私の力の影響もあるかもしれないね?」と鮎子先生。
…その発想はなかったな。
「…ありえますね。そして僕が描いたあの絵。あの絵が、鮎子先生が封印したという副部長の記憶…というか恐怖心を呼び覚ましてしまって、一気に細菌の進行を活性化させてしまった…僕の勝手な推測ですけど…」
「…なんてこと…」
文ちゃん先輩は口元を押さえながら震えていた。
鮎子先生は、ただ黙って目を閉じている。
僕は続けた。
「そして副部長は…屋上から転落して…二度目の死を迎えた。昨日、太田先生が話していたのを耳にしたんですけど…副部長の遺体は、司法解剖のために運び込まれた病院の安置室から忽然と消えたそうです…そして病院の裏庭には…どこまで続いているのか分からない穴が開いていたとも聞いてます…」
「…志賀君のお話と…そっくりなんですね…」
「…僕もそう思いました…」
「倉澤さんが…泥口になってしまった…?」
文ちゃん先輩の震えが止まらない。僕は彼女の肩に手を置いた。
「文ちゃん先輩は…副部長を安易な気持ちで囮に使ったから、こんな事態を招いてしまったって、ずっと後悔してますよね?鮎子先生は一度死んだ副部長を、たとえ善意とはいえ、その力で蘇らせた結果、事態を悪い方向に向かわせてしまったかもしれない。そして僕は…あの絵を見せた事で、副部長の悲劇を招いてしまった…いわば」
「…いわば、『共犯』…なんですね…私たちは…この件に関して…」
文ちゃん先輩がうなだれて言った。
「そうかもしれませんよね…」
「じゃあどうする?…やっつけちゃうの?」
それまで無言でいた鮎子先生が、おもむろにそう言った。
「おねえちゃん!そんな言い方って…!」
「それとも放っておく?私はそれでも構わないけど…それだとアレはまた誰かを襲うかもしれないね。第二、第三の倉澤さんみたいな子が増えるかもしれないなあ」
文ちゃん先輩と同様、この発言には僕も反発を覚えた。だって、副部長をこんな事に巻き込んだのは…僕たちなのだから。
「そ…そうだ!鮎子先生。先生の…その『力』で何とかなりませんか?…たとえば副部長を元に戻すとか…?」
「無理ね」
先生の返事はシンプルで冷酷な物だった。
「志賀くん。キミは昨夜見た夢が気に入らなかったからといって、じゃあその夢の内容を交換することができる?…つまりはそういう事。一度起きてしまった事実は換えられないの」
「だけど…先生は一度、副部長を生き返らせたじゃないですか!?」
すると鮎子先生は、ちょっと困った様に笑った。
「ああ、あれね?…だって、『生き返らせて』はいないもの」
…え?
「わたしがやったのはね、ばらばらになった倉澤さんのパーツをつなぎ合わせて、肉片に残っていた記憶の断片から、『倉澤由美子』という人格を再構成しただけ、そういう意味では、彼女は『生き返って』はいないんだけど」
「そんな…そんな事って…うっ!」
文ちゃん先輩は真っ青になって、口元を押さえながら部屋の片隅にある水道の所に走っていった。僕も吐き気を押さえるのがやっとだった。
…そういえば鮎子先生は、今まで一度も『生き返らせた』とか『蘇らせた』とは言ってなかった…ただ『元の姿に戻した』とか『再構成した』としか言っていない…
「カミサマと言ってもね、万能の存在じゃないんだよ?…志賀くんの時にしても同じ」
え…どういう事なんだ?
「ねえ志賀くん。不思議に思わなかった?」
「何が…ですか」
「キミがあの泥口?への恐怖心を克服できた事」
「それは…先生も言ってたじゃないですか。僕が恐怖心をあの絵に転換させたことで克服したんだって…」
「うん。その通り。そこはわたしも評価してる。キミはオカルトを信じないというけれど、それだって、そういった方面への抵抗力が強いという事が影響しているのかもしれないね。…でもね」
「でも…何ですか?」
「実はね…泥口?に襲われた時、恐怖でキミの精神も一度壊れかけてたの」
え…?
「さすがに、キミの精神も耐え切れなかったのね。…ねえ志賀くん。あの夜、何か夢を見なかったかな?」
そういえば…蝙蝠女…鮎子先生に助けられた夢を見た気がする。
夢の中で、僕はばらばらの肉片にされてしまった…って…え、それって…?
「あの夢はねえ、倉澤さんの肉片に残っていた『記憶』を参考にして、わたしが作った物なんだよ」
…あれは…副部長が経験した内容だったのか…あんな…悍ましい経験を…
「ニンゲンはね、それ以上は危険だと脳が判断する様な記憶には、それを思い出させない様にフィルターを掛けて崩壊を防ぐ力を持っているのよ。血液の中の抗体みたいな物ね。壊れかけているキミの精神を守るためには、より強い恐怖をイメージさせて、それより先の消失点に近づけないための『壁』を、キミの心の深淵に作らせる必要があったの」
「壁」…か。そういえば思い当たる事もあった。
まだあの絵を描き上げる前は、泥口の事を考えると、いつも最後は霞がかかった様に記憶がぼんやり薄らいでしまっていた。「壁」とはよく言ったものだ。
「…だからこそ、わたしが作ったその壁を、自力で乗り越えてしまったキミは凄いと思ったの。…大抵は倉澤さんみたいに、自身の抱えている深淵に引きずり込まれちゃうんだもの」
あの悪夢は、副部長の体験した事実を再現した物だった…
僕はもう、返す言葉がなかった。
「…もう、安らかに眠らせてあげましょう…倉澤さんを。それがこの件に関わった私たちにできる、最後の責任だと思います」
そう言ったのは文ちゃん先輩だった。




