20 嗤っちゃうよ。ああ、嗤っちゃう。
で、その翌日。
副部長は何事もなかったかの様に登校してきた。
朝、校門の前で彼女とばったり出くわした時には、向こうから声を掛けてきてくれた。
「…もう、具合は大丈夫なんですか?」
「うん。へーきへーき。元気過ぎてさ、今朝も朝ごはんを四杯もお代わりしちゃったよぉ」
「…嘘でしょ?」
「ほんとほんと。今日も元気だお米が美味い!なんてね」
「…太りますよ?」
「へーきだよぉ。むしろ、もうお腹がまた空いてきちゃったくらいだし」
倉澤副部長はからからと笑ったけれど、僕は笑えなかった。
そこに文ちゃん先輩がやってきた。
「…倉澤さん。倒れたと聞いたのですが、もうよろしいのですか?」
「あ、鬼橋さん!ごめんね?何だか心配かけちゃったみたいで」
「昨日の授業のノートはとっておきました。後で教室でお渡しします」
「あ、ありがとー!さすが会長、頼りになるぅ」
「いえ…その、クラスメイトとして当然の事です」
そんな二人の会話を横で聞いている僕。…うーむ。やっぱ文ちゃん先輩ってば、言葉の端々に、副部長に気を遣っている雰囲気があるんだよなあ。何となくだけど。
一昨日の夜は一応謝ったけど、まだ釈然としない部分はある。
いつでも直球勝負!なのが文ちゃん先輩のいい所だと思う。なのにどうして副部長にだけは、ああも奥歯に衣を着せた様な物言いになるんだろうか。
その原因は、どうやらあの泥口にあるらしい。それは間違いないだろう。
…倉澤副部長もあの化物を見た。でも本人はどうもそれを覚えてはいないらしい。
鮎子先生の言ってた様に、それはたぶん、あまりの恐怖の為に、それを心の奥底にしまい込んで封印してしまっていたからだろう。これは分かる。何となれば、他ならぬ同じ経験をしたこの僕だって、最初はあれが現実に起きた事だったのか、それとも夢の中の出来事に過ぎなかったのか戸惑ったものな。
文ちゃん先輩は、副部長が泥口に襲われて、その記憶を失っているという事を何らかの事情で知っていて、彼女がおぞましい記憶を呼び起こさない様に配慮していたんだ。
…うん。ここまでは分かる。文ちゃん先輩がその事実を知り得たという理由だけは除いてね。
でも、ここからが疑問。
まずはその「文ちゃん先輩が、副部長が泥口に襲われたという事実を知っていた」という点はあえて除外して考えてみる。
もって回った様な態度であるというのは、まあ気を遣っているからだとしても、文ちゃん先輩はなぜにそこまで、この件に関して責任を感じる必要があるのだろうか?
…生徒会長としての責任感?いやいや、それは違うぞ?
もし悩む理由がそれだとしたら、彼女はもっと違うアプローチを取っていた事だろう。
そう、彼女が僕に最初に近づいてきた時の様に、きっと副部長にも質問攻めして、その上で警察か自治体に通報するとかして、公的に動いていたことだろうさ。
もし文ちゃん先輩の行動原理が「生徒会長」としての責任感に依る物なのだとしたら、彼女が僕に取ってきた様な展開になったであろうことは想像に難くないんだ。
ところが、文ちゃん先輩の取ってきた態度を振り返ってみると、どうもそういった感じでもないんだよな。
彼女らしくもない消極的な態度。しかもそれが特定の個人にのみ向けられているという点が気に掛かっているんだよなあ。
文ちゃん先輩の性格からして、もし仮に副部長の記憶を呼び覚まさせないつもりならば、むしろ積極的にフォローすると思うんだ。それこそ、副部長が余計な事を考える余裕もないくらいに。
…でも、実際はどうだった?
僕が知る限り、文ちゃん先輩は副部長を避けてばかりいた。…同じクラスであるにもかかわらず。
でも、それは「ある時」を境に変化したことで、それまではごく普通に接していたという。
前に副部長が言っていたじゃないか。文ちゃん先輩とあまり話さなくなったのは…
『…そうねえ…鬼橋さんが生徒会長に当選した頃、かなあ…?』
…ここまで推理を働かせてみれば、文ちゃん先輩が生徒会長選に出馬する前に、副部長との関係を一転させる様な、何らかの出来事があったとみて間違いはなかろう。
ここの時系列に、たとえば仮に「副部長が泥口に襲われた」という場合を当てはめてみようか。
文ちゃん先輩自身も前に言っていた様に、生徒会長に立候補したのは「取り返しのつかない過ちを犯した償いの為」だったという。
…「取り返しのつかない過ち」って何だ?
さっきの「副部長が泥口に襲われた」という事実と関係する事?
しかしそれは、あくまでもその「仮定」を当てはめた場合でしかない。
でも、「文ちゃん先輩がその事実を知り得た」という時点で、この可能性は非常に大きな物になるのも確かだ。
つまり、「副部長が泥口に襲われたのは、文ちゃん先輩が犯した『取り返しのつかない過ち』が原因だった。だから負い目を感じた文ちゃん先輩の態度が消極的な物になった」という事ではないのだろうか?
…まあ、これはあくまでも仮説にすぎないけど…
それと、もうひとつの疑問もある。こっちはもっと単純だ。
副部長が泥口に襲われたとして、彼女はどうやって助かったんだ?
僕の時と同じ様に、あの正体不明の「蝙蝠女」に助けられたのだろうか?
いや、そもそも、あの蝙蝠女って一体何なんだ?
泥口だって得体がしれないけれど、それ以上に訳が分からないのはこっちの方だ。
宇宙人?悪魔?謎の未確認生物?
泥口の様な妖怪じみた奴だって闊歩してるのだから、妖精がいても不思議じゃない。
少なくとも、神様とか天使の類じゃあないだろう。
…腕を大鎌にして振り回していたのだから、神様は神様でも、死神の方かもしれない。
あああ、何もかもわけが分からない。
泥口と出くわしてから、わけが分からない事態に巻き込まれてしまっている。
…僕ぁまだ16歳。高校1年だぞ?
高校生活がこんなにハードな物だなんて思ってもみなかった。
…最初の年からこんな調子で、あと2年間やってゆけるのだろうか?
「…君?」
ん?
「志賀君?」
気がつくと、文ちゃん先輩が僕の顔を怪訝そうに見つめていた。
「…どこか…具合が悪いのですか?」
「……」
僕も彼女を見つめる。
…昨日の一件があったし、どうも話しづらいな。
「…。何でもないっす。じゃ、僕はこれで」
僕は深々と一礼すると、自転車を押してその場を離れた。
「あ…志賀君?」
後ろから戸惑った様な文ちゃん先輩の声がしたけれど、僕はそれを無視した。
そんな彼女に、副部長が「…ケンカでもしたの?」なんて聞いてたみたいだった。
昼休みになっても、僕は内心のもやもやを持てあましていた。
今日の廊下は何やら騒々しい。何人もの走る音や喧騒めいた声が飛び交っていた。
…人の気分が晴れないって時に限って騒々しいなあ。ちったぁ空気を読めなどと、内心勝手に憤ってみたりもする。それを口に出すことはしないけれど。
それでもお腹は減る。
恋に恋する乙女でもあるまいし、悩みで食事が喉を通らない…なんてこともない。
どんなに落ち込んでいても、育ち盛りの男子高校生に昼飯は欠かせないものだ。
ふと、先日もらった文ちゃん先輩のバターおにぎりの味を思い出して、ちょっと切ない気持ちになったけれど。
今日は母のお手製弁当を持ってきていた。母のお弁当といえば、大抵が唐揚げとハンバーグのローテーションだった。どちらも好物だったし、味付けも僕の好みを把握してくれていたので文句などなかった。…母の味付けの美味しさに気づいたのは、ずっと後になってひとり暮らしをはじめてからの事だったけれど。
今日はハンバーグの番だった。均等にカットされたハンバーグを口に運んでいると、例のぼったくりパン屋の所に買い出しに行っていた森竹が戻ってきた。
奴の手には、僕も先日渋々買う羽目になったあんドーナツ1個。
「いやー参った参った」
「ん?どうしたん?今日はやけに小食じゃないか。それとも買い損ねたのか?」
「…さっき、俺が速攻で飛び出したの見てただろうが?」
ああ、そういえばそうだったな。
「俺はダッシュであのくそ不味いパン屋の元に駆けつけた。事件が起こったのはその時だ」
何だい。ずいぶんと仰々しい物言いだな。
「現場はすでに大勢の生徒が押し寄せていた。そりゃあ大変な騒ぎだったぞ?晴海並みだ」
晴海…って、ああ、コミケの事か。ウチの部の先輩の作ったサークルが、今度そこに何かの同人誌を出すとか言ってたっけ。
「そんなの、いつもの事じゃないか」
「そりゃまあ、その通りなんだが…今日はちょっとひと悶着あってな」
「ほうほう」
「一人な、パンを10個くらい買い占めてたのがいてな、最後は他の奴と取り合いになって、ケンカになったんだ」
「…ずいぶんと殺伐としてるなあ。誰だ、その食い意地張った奴は?」
「お前んトコの副部長さんだよ」
…え?
「あの先輩、『それもあたしンだー!』なんて怒鳴っちゃってさ。もう手には山ほど抱えてるってのによ?」
「それって…倉澤副部長の事だよな?」
「あ、そうそう。その倉澤先輩。あの人、しまいにゃ3年生の柔道部の先輩をブン殴っちまってさ、先生まで駆けつける騒動になっちまったんだよ」
ああ、さっきの廊下の騒ぎはそれだったのか。
「で、倉澤先輩は?」
「生徒指導の中山と学年主任の石沢が生徒指導室に連れてった。後は知らん」
副部長…昨日の夜とか今朝の事もあったし…イヤな予感がする。
「なあ志賀?」
「ん?」
「…あの先輩ってさ、前からあんなに狂暴だったっけ?」
「い…いや、そんな事ないはずなんだけど…」
異常な食欲…そして狂暴性。
やはり、おっちゃんの話を思い出してしまうんだよな。
ましてや、副部長も泥口に襲われたらしいし…
…もう一度、あの話を思い出してみよう。
あの昔話と今回の副部長に、何か共通する事はないだろうか?
半世紀前に、実は泥口に食い殺されたらしい(?)安仁和尚さんの事は分からないけど、弥平のケースの場合は、狂暴化して奥さんと子供を食っちまった挙句死罪になった。
弥平が泥口になったのは死んでからの事だ。
…まてまてまて。もっとよく考えてみよう。
安仁和尚だって泥口になったのかもしれないけど、それは亡くなって埋葬された後の事みたいだし…
ん…?もしかして「泥口」って細菌か何かが原因で感染するのかもしれないけれど、その後で一度死ななければ発症(?)しないのかもしれない。
この辺り、医学的根拠とかはまるで分からないけれど、たとえばゾンビみたいに、死んだ人間がそうなる…って奴じゃないのか?
たとえば「泥口菌(仮称)」なんてのがあって、それに感染した人間が死亡して…
えっと、脳死状態になったりした後で、その細菌が活性化して身体を変質させちゃうとか…?
…うん。われながら素人としては大胆な分析だ。もっともらしい…気がする。
でも。もしもこの考えが正しいのならば…倉澤副部長の場合は違う気もする。
だって、副部長は死んでなんかいないのだし…
…やっぱ、僕の考え過ぎなのかなあ。
あの異常な食欲だって、きっと別に理由があるのだろう。
深く考え過ぎない様にせねば…な。
一応、僕だって反省文出した身だ。その相手様の事を悪く言うモンじゃないし。
何となく時間は過ぎてゆき、やがて放課後になったけれど、今日の僕は、美術室に足を向けたくはなかった。
事情をよく聞きもしないで難癖をつけてきた太田先生に会いたくなかったというのもあるけど、それ以上に副部長と顔を合わせるのが気まずかったんだ。
…こうなると、僕も部長を避けてた文ちゃん先輩の事を悪く言えないよなあ…
……よし。サボろう。
僕は教室のロッカーの所に置いておいたギターを持って、久しぶりに北校舎の屋上へと向かった。
北校舎の3階にある美術室の脇を通る時は、ちょっと緊張したけれど。
お向かいの音楽室からは、いつものフォークソング部の演奏も聞こえてこなかった。
今日はあちらさんも休部なのだろうか?…何にせよ、今はあまり人目には付きたくなかったので、かえって好都合ではあったけれど。
そのまま屋上に出る扉を開けて表に出た僕は、いつもの場所に腰を下ろした。
ギター・ケースから愛機を引っ張り出し、音叉でA音を出してチューニング。
6本全てを調弦し終えてから改めてギターを構え、右手の親指にサム・ピックをはめる。
左手は何のコードも抑えず開放弦のままで、右親指を6弦から1弦にむけてストローク。
…じゃらん。
ここの所忙しくて、あまり弾いてやれなかったわりには、わが愛機は以前と同じ鈴の鳴る様な音を奏でてくれた。
何のコードにもならないその響きだけでも、僕の心は躍った。
僕は本当にギターの音が好きなんだな、と思う。
親の話では、僕が3歳の頃に太田市の呑龍様にお参りに行った事があるそうだけど、その時に買ってもらったでんでん太鼓を、僕はずいぶんと永い間後生大事に叩いていたそうだ。
うん、あの太鼓の事は微かに覚えている。
太鼓の皮の部分にクレヨンで落書きして、父に怒られたっけなあ。
僕は昔から「音の出るオモチャ」が好きだったみたい。
それがいつの間にか、太鼓からギターに換わっただけの事かもしれない。
だから僕にとってのギターは、子供が夢中でトントン叩いていたでんでん太鼓とおんなじ。
「志賀はギター握らせとけば、とりあえず泣き止む」なんて言ったのはわが悪友森竹だけれども、うん。あながちハズレでもないと思う。
よし。準備ができた。
僕は一度深呼吸すると、スリー・フィンガー奏法でアルペジオを弾きはじめた。
「四月になれば彼女は」。フルで弾いても2分足らずの短い曲だけど、6弦から1弦までくまなく、かつネックを握る左手もロー・ポジションから7フレット付近まで動き回る忙しい曲だ。その上ポール=サイモンは、このせわしいフレーズをを弾きながら、その上歌まで歌ってしまうのだから恐れ入る。
以前夢中で練習したおかげで、今では僕も弾きながら歌える数少ないレパートリーに加える事ができたけれど、その出来はと言えば、いくら何でもご本家には遠く及ばない。
最近ではウォーミング・アップの代わりに弾く事も多くなった。
一曲、弾き終えてから気がついた。
…はは。何のことはない。これって、半月くらい前の自分に戻っただけじゃないか。
いつもここには僕一人で来ていた。ここは僕だけの練習場所。
そういえば鮎子先生と身近になれたのも、この屋上が最初だったんだっけ。
…それと。文ちゃん先輩とも。
あの時、文ちゃん先輩にはまず怒られたっけな。
それから、色々な事があった。
引っ張りまわされたり、勉強見てもらったり。
もうずいぶんと前の事に思える。実際はほんの半月前の出来事なのに。
今になって分かる。あの二人と深くかかわる前までは、ここで一人ギターを弾いている自分に、ただ酔いしれていただけだったのかもしれない。
…孤高を気取っていただけだったんだ。
人様に認めてもらおうとする努力から逃げだして。
それでいて、妙なプライドだけは無駄に高くて。
そんな自分を認めたくないから、「孤独な自分」を恰好いいなんて思い込んで…さ。
僕は…馬鹿だ。
嗤っちゃうよ。ああ、嗤っちゃう。笑っちゃうのではなくて。
…あの、楽しかった数日間に戻りたいと思った。
…今またあの時と同じ様にギターを弾けば、あの楽しい時間を取り戻せるかもしれない。また鮎子先生がここにやってきて、僕のギターに合わせて歌ってくれるかもしれない。
僕はそう思ったんだ。
藁にもすがる思いで、僕はもう一度、あの時の様に「スカボロー・フェア」を弾いてみることにした。
そうさ。あの時ここで、この曲を弾いた事で、僕は鮎子先生と話すきっかけができたんだ。
カポタストを7フレットに装着して、あの独特のイントロを弾いてみる。
そのまま歌も歌わずに数コーラス弾いてみる。
やがて、最後のハーモニクス音で曲を弾き終えたけれど、周囲には誰の気配もなかった。
冷たい風が、体の中にまで浸みこんでくる様な気がする。
「…はは。そうだよな。そうそうやってきてくれる事もないか…」
僕は空を見上げた。もう薄暗くなってる。これから冬至の日までは、陽は短くなる一方だ。
もう、グラウンドで練習する体育会系の部活の声も聞こえない。
時折、遠くから聞こえるのは、巣に帰ってゆくカラスの鳴き声くらいだった。
それでも、どんな声も聞き漏らすまいと僕は耳を澄ませていた。
「…わぁ~れぇ~をよぉ~んだか~」
ふと妙に畏まった、それでいて少々ふざけている様な、耳に馴染んだあの声が聞こえた。
…きてくれた!
「…鮎子先生。どうせまた僕の上にいるんでしょ?」
ちょっと強がって皮肉めいた口調をしたものの、内心では嬉しくて、情けない事にちょっと涙が出てしまった。でも、いくら何でも「我を呼んだか」はないと思う。
「…当たり。くすくす」
予想通り、彼女の声は僕の頭上、給水槽の付近から聞こえてきた。その声の中に「悪戯がばれちゃった?」みたいな照れが混じっていた…と思えたのは気のせいだろうか。
それにしても、一体どうやってこの屋上にある給水槽に登ったのだろうか。あそこに上がるには、屋上に出てから僕の目の前をよぎって、給水槽の点検用に壁に設置されている梯子を登らなければならないのだが。
「とうっ」
鮎子先生は、あの時と同じ様に、またもやそこから飛び降りた。
脳裏をよぎる既視感。
まるでスローモーションの様に、風に翻ったスカートの中から、魅惑的な太腿が見えた。
…相変わらず、紺のストッキングの破壊力は絶大だった。
すとん、と屋上のタイルの上に降り立った鮎子先生は、僕の視線に気がついたみたいだ。
「…。えと、『いやーん、まいっちんぐ』?」
…何て棒読みな台詞なんでしょ。
それから、その台詞言いながら人差し指で自分の頭を突っついて「…あれ?こういう時はこれでいいんだっけ?」とか自問自答する様な仕草はしないでください。
…いやだから、「どう?」みたいな顔で僕に感想を求めるのもナシですってば。
…ああもう、今のがウケなかったからって、次の手を考えてないでくださいな。
「…40点ですね。それ以上は差し上げられません」
「それじゃあ赤点じゃない。くすくす」
「…でも追試はしません」
「何それ。あはははは」
いつも以上に愉快そうな鮎子先生の声につられて、僕も苦笑してしまった。
「…元気、出たみたいだね」
「ええ、まあ。何とか。…でも『我を呼んだか?』はないですよ、いくら何でも」
「だめかな?」
「…ちょっと悪役っぽいです。悪のボスか邪悪な魔神みたいに聞こえます」
「うー…あながちハズレでもないんだけどなあ。それ」
「鮎子先生は悪い事したんですか?」
「うん。いっぱい、いーっぱいやってきたよ」
…何で、そんなに嬉しそうに言うのかな、この人。
「…いっぱい、いっぱいやってきた」
急に真面目な顔になる鮎子先生。…こんな顔は初めて見た。
その視線は僕ではなく、どこか遠くの何かを見つめていた。
僕の知る限り、鮎子先生という人は美人で優しくて、いつもくすくす笑っていて。
ちょっとトボケた様な素振りも見せるけれど、いつだって周りに気を遣ってくれていて。
悩んでいる人にも的確なアドバイスをくれる、全校生徒の憧れの養護の先生だ。
…その鮎子先生の言う「悪い事」?ちょっと気になる。
「ところで、今日は絵、描かないんだ?」
「色々とあって、ちょっとモチベーション下がっちゃって…」
「文ちゃんのこと…かな?」
「え、ええ…まあ。この前のことがあってから、ちょっと気まずくて」
「まあ、そうでしょうね。…あの絵はもう一度描かないの?」
「うーん…アレ、僕の中にあった気持ちを全部ぶつけてましたから、もうおんなじのは描けないと思います」
「残念だったね。いい絵だったと思うよ、あれは」
「あはは。一端絵にしてしまったら、もうどうでもよくなってしまって…実はあんまり惜しいとも思わないんです」
「うーん…『私の頭の中には、数限りもない美しい絵が秘蔵されていた。私は試みに絵筆を取って、その中の一つを画布の上に写してみた。……気のついた時はもう間に合わなかった。……同時に頭の中のすべての美しい絵もみんな無残に塗り汚されてしまった』って奴かな?」
「あ、それ、寺田寅彦ですよね?」
「そう。よく知ってるね」
「大好きなんですよ、寺田寅彦。でも、そういうのとも、ちょっと違うんですよね。むしろ逆です。絵にしてイメージが崩れてしまったんじゃなくて、絵にした事で自分の中の踏ん切りがついたというか」
「くすくす。キミのそういう自分の気持ちに素直な所、どことなく寺田先生に似てるから、ちょっと思い出しちゃったんだ」
鮎子先生は遠い目をして笑った。…遠い思い出を振り返る様に。
「…鮎子先生?」
「何?」
「まるで本人と会った事があるみたいですね」
「うん。昔ちょっとお世話になった事があって…あ」
鮎子先生は、そこで言葉を途切れさせた。さもありなん。それは失言である。なぜならば。
「…寺田寅彦は昭和10年の大晦日に亡くなってますよ?もう何十年も前の人です」
僕としては、ジョークに対する軽いツッコミ程度のつもりだったのだけど。
「あ…あーそうそう。そうだったよね。あははははー」
鮎子先生は、普段の彼女からは想像もつかないくらい狼狽していた。何でだ?
あ、そういえば気になってた事もあったんだ。
「そういえば、先生は前にもサイモン&ガーファンクルを生で観た事があるなんて言ってましたけど…その時、先生は何歳だったんですか?」
鮎子先生は、気まずそうに視線を宙に泳がせたまま。
「15・6年も昔の事ですし、先生もまだ10歳前後のはずですよ?」
「あー、うん。そういう事になるかなあ…あはは」
まるで、こっそりとやった悪戯がばれてしまった子供の言い訳みたいな事を口にする鮎子先生。
「…先生って、ホントは何歳なんですか?」
「れでぃーにとしをきくものじゃないよ」
動揺しているのか、返事も棒読みになってる。
「先生、まるで見た目よりも、ずっと年上みたいじゃないですか」
「あ…あははははー。それ、わたしの嘘って事にしておいてくれると嬉しいなあ」
照れ臭そうに、手をばたばたと振りながら鮎子先生。
「嘘だったんですか?」
「あーそうそう。嘘よ嘘。わたしは嘘をつく癖があるんだ。困っちゃうよねー」
「鮎子先生は大嘘つきなんですか」
「そうよぉ?わたしの言う事はみーんな嘘。純情な男の子を騙しちゃう、とーっても悪い女なの、わたしは」
「とてもそんな人には見えません」
「そう思わせないのが嘘つきのテクニックだもの」
…僕はずっと鮎子先生に騙されていたのだろうか?本人が言う様に。
先生には色々と助けてもらった。それは嘘じゃない。
先生のくれたアドバイス。それを実行したら悩みも消えた。これも嘘じゃない。
先生は何かと文ちゃん先輩を庇っていた。まるで実の姉の様に。
そんな先生だからこそ、文ちゃん先輩は「おねえちゃん」と呼んでいたのだろう。
…あの文ちゃん先輩が、だ。
「あの」文ちゃん先輩が、あんなにも慕っている鮎子先生なんだ。
…本当に、ただの嘘つきなのか?
鮎子先生が嘘つきだなんて、本人がそう言ったところで、鵜呑みにする事はできなかった。
…たとえそれが荒唐無稽な話だったとしても。
知り合ってまだ日の浅い僕はともかく、あの文ちゃん先輩が慕う人が、嘘をつく様な人のはずがない。
僕はすぅ、と深く息を吸い込んで言った。
「…僕は信じません。文ちゃん先輩を見てれば分かりますよ」
鮎子先生は一瞬、目を大きく開いたかと思うと苦笑した。
「あはは…そこで文ちゃんの名前を出すかあ。…参ったなぁ」
案の定、鮎子先生にとっても、文ちゃん先輩という存在は、決して軽い物ではなかったという事なのだろう。
それは、二人がこれまで培ってきた「絆」。
お互いを姉妹の様に思いやってきた「歴史」は、鮎子先生でも裏切れないと思った。だから、あえて彼女の名前を口にしてみたんだ。
「文ちゃん先輩が『おねえちゃん』って呼ぶ人が嘘つきだったら、それは文ちゃん先輩の人を見る目がないって事、ですよね?」
「うーん…まあ、そういう事になるかなあ」
鮎子先生は照れ臭そうに、あるいはくすぐったい様な表情になった。
「鮎子先生は、文ちゃん先輩も騙していたって事ですか?」
「…志賀くんは、文ちゃんが人に騙される様な子だと思う?」
「思いません。だから鮎子先生が嘘つきだって事も信じられないです」
「そうだよねー。文ちゃんだものね…参ったなあ…本当に参った。志賀くんって鈍いくせに、妙な所で鋭かったりするから、騙そうにも騙せないな」
…それはどうも。
「それに」
「それに?」
「キミのギターを聴いてると、嘘をつこうとすると心が痛んじゃうから、嘘がつけない」
「それは嘘ですよね?」
「あはは。分かる?」
「そこまで人の心を打つ様なギターじゃないことくらい、自分でも分かりますよ」
「くすくす。でもね、キミのギター…というより、キミ自身に興味があったのは本当」
「どうしてですか?」
「毎日、放課後に屋上から聴こえてくるキミのギターは、いつも寂しそうだった。誰にも聴いてもらえなくて、せつなそうだった、それでも、ギターが好きなんだなあって気持ちは伝わってきたよ?…どんな子が弾いてるのかなって興味がわいてきて、話しかけてみたらこんな子だった」
…僕ぁ、一体どんな風に見られてたのだろうか。
「ヘソマガリで意地っ張りで、そのくせ寂しがりで人と話す事が好き」
…否定できない。
「関心のない事にはまるで無頓着なのに、興味がわくと、とことんのめり込む」
その通り…だよなあ。
「そういう所は、文ちゃんとそっくり」
「…は?」
それはどうだろう?少なくとも、僕は文ちゃん先輩ほどまっすぐじゃないけど…
「文ちゃんってね、ああ見えてけっこう頑固だしヘソマガリなんだ。だから自分の決めた事は何が何でも守ろうとするし、人の言う事にも耳を傾けなかったりするしね」
うーん…言われてみれば…そういう所もあるかも…
「うーん…たしかに意地っ張りな所はありますよね…時々、真面目過ぎるし」
「そう思うでしょう?」
「はい」
「だからキミと文ちゃんは、気が合ったんだと思うよ」
「そうでしょうか」
「だって、キミと会うまで、文ちゃんがここまで心を許した男の子はいなかったもの。見ていて、微笑ましいなって思ってたの」
そう言われると嬉しい様な恥ずかしい様な。だけど…今の僕にはちょっと切ない気持ちにもなるけれど。
「文ちゃんがここまで心を許した男の子を騙そう…なんて、やっぱよくないよね」
鮎子先生は何か決心した様に、うん、と頷いた。
その時だった。
「きゃああああぁぁぁ…!」という悲鳴が聞こえたのは。




