19 副部長の変容
この時すでに、「異変」はもう起きていたらしい。…僕の気づかないうちに。
その翌日、倉澤副部長は学校を休んだ。
僕は顧問の太田先生に呼ばれて、もう一度昨日の騒動の説明を一から繰り返す羽目になったけれど、蒼木部長や塚村さんたちも証言してくれて、結局は事の顛末の再確認をするに留まった。
太田先生が、一応反省文を出せと言ってきたので、ちょっと腹立たしいからB5のレポート用紙に15枚、一切の主観を交えず、時系列まで事の次第を正確にびっしりと文章化して、夕方までに紙面を文字で埋め尽くして提出した。
これでも文系科目だけは、学年でもけっこう上位なんだ。こういう無駄な事だけは無駄に得意だったりする。文系ナメんな。
…その分、理系は絶望的だったりするけど、それはこの件とは関係ないから語らない。
予想以上の膨大な量となった反省文レポートを受け取った太田先生は、
「…うー…あー、これだけの物が書けるんだから、まあがんばれ」
と、よく分からないお言葉を下さった。
なぜかものすごーく渋いお顔でございましたけれど、どこか具合が悪いのかな?わはは。
放課後。僕と塚村さんは二人で倉澤副部長のお宅を訪問することになった。
今日、学校を休んだ彼女のお見舞いと、昨日は太田先生の車で送ってもらったために駐輪場に置き去りになっていた、彼女の自転車を届けるのが目的だ。
僕と塚村さんが行くことになったのは、もちろん僕が昨日の一件の中心にいたこともあったけど、主な理由は、単純に僕と塚村さんの家が、副部長の家に近かったからだ。
副部長の家まで彼女の自転車を塚村さんに運転してもらって、その後は塚村さんの家まで僕が送るという手筈。そうすると、今度は塚村さんの自転車を学校に置いてゆかなくてはならないのだけど、これは翌日の朝、塚村さんのお父さんが車で彼女を学校に送ってもらう段取りになっていた。
…ホント、こういう時、不便だよなあ、わが上州群馬は。
学校を後にした僕たちは、側道に入った辺りで自転車を降りて押してゆく事にした。
今日も向かい風となっている空っ風が強くて、男の僕と塚村さんでは、こうしてゆかないと、自転車を漕ぐペースも揃わなくなってしまうのだ。
僕たちは、自転車を押しながら並んで歩いた。時間は掛かるけど仕方ない。
「…しがん。昨日のこと、気にしてる?」
塚村さんは、僕の顔をのぞきこむ様な姿勢で話しかけてきた。
「ん…実はあんまり気にしてない」
「やっぱり」
「そう見える?」
「見える。しがんのことだから、もっとオロオロするかと思ったのに。ちょっと意外」
「…僕はどんだけヘタレなんだ?」
「すごいヘタレ。ヘタレでなちゃしがんじゃない」
「…あのねえ」
「しがんって、あんまり人と関わりたがらないくせに、いつも人の顔色ばっか気にしてる」
…うーん。そうかなあ。
「だから見てておもしろい」
まったく表情を変えずに言う塚村さん。
「面白いか?」
「おもしろいというより、気になる」
「僕のことが?…さてはホレたか?」
「それはない。しがんはわたしの理想から一番遠い所にいる」
「そうだろうか?」
「そう。『ブレーメン5』のCA38様にはほど遠い」
…またディープなキャラを。
つまり僕が彼女の理想に近づくためには、まず記憶をなくした上でサイボーグにならなくてはいけないわけか。近づく気もないけどね。
「…そりゃ無理だ」
「おもしろいくらいに無理」
「何じゃそりゃ」
そんな、マニアックなのか間抜けなのかよく分からない会話をしているうちに、あの側道沿いの小さな橋、僕が泥口に襲われたあの場所にまでやってきた。
…ここを通るのも久しぶりだ。
事件の翌週の月曜の朝以来、もう半月くらい避けてきた道。
泥口の吐いた粘液で溶け落ちた場所は、まだブルーシートで覆われていて、修復工事も終わっていないみたいだった。
僕は思わずその場で立ち止まって、高架壁を見上げた。
あの夜の異様な体験は、今でもしっかり覚えている。
でも、恐怖心も何もわき上がってくることはない。
鮎子先生の言うとおり、僕はあの絵を描いた事で、きっと泥口に対する恐れをすべて浄化してしまったのだろう。
…さすがに、いくらこの場所に戻ってきたからと言って、またあいつに会いたいわけでもないけど。
「…しがんが描いたの、ここ?」
一緒になって高架壁を見上げていた塚村さんは、鋭い事を言った。
「どうして分かる?」
「ここ、絵の中であの子が出てきた川っぽい。新幹線の線路もある。あの背景とおんなじ」
さすが、観察力の鬼、塚村いのり…ってこれは前にも言ったっけか。
「あの子、呼べば出てくるかな?」
…それはゴメン蒙りたい。
「いやあ…出てくる訳ないよ。第一、アレは僕の想像の産物だ」
「うそ」
「うそなものか」
「しがんのお安い想像力じゃ、ああいうのは描けない」
「描けるさ。つか、描いた」
「じゃ、モデルは?」
「洗濯機の排水ホース」
これは別に嘘ではない。実際に、家の洗濯機のホースをよく観察して参考にしたし。
「う…説得力がある」
さすがの塚村さんも、これには論破されたとみえる。
「でも一応呼んでみる。おーい。おーい。出ておいでー。安次郎、出てこーい」
塚村さんは諦めが悪かった。橋の脇のガードレールから身を乗り出して、川に向かって呼びかけている。それはそれとして、何だその「安次郎」というのは?
「われながらいい名前だと思う」
勝手に名前つけんな。せめて弥平か安仁和尚にしなさい。
「弥平はいいとして、何で和尚?…ぼーさん?」
あ、しまった。ついうっかり話してしまった。
とはいえ、あの泥口の話をするわけにもゆかないので、僕は父から聞いていた、ムジナに化かされて死んだ坊さんという、この界隈で伝えられている方の話の方をした。
「その話なら、わたしも聞いたことがある。でも、わたしが聞いたのはムジナじゃなくて河童だった」
…そんなバージョンもあったのか。
「昔、この辺りで駐在さんやってたウチのじいちゃんから聞いた」
…噂の出所の管区さんって、塚村さんの身内かい。
塚村さんは、なおも川に向かって呼びかけた。
「おーい、おーい、やすじろー?ヤス~?」
「…やめとけよ」
まさか出ないとは思うけど…だってあいつ、蝙蝠女にばっさりやられてたし…
「おいしいごはんあるよ~」
「お、おい!本当にやめろってば」
…あいつらはホントに人間をごはん扱いするんだってば。
「ヤス~?ヤスこ~?ヤスのすけ~?」
幸いというか、塚村さんがいくら呼びかけようとも、あの川からもう一度泥口が出てきそうな気配はなかった。
…でも、弥平とか安仁って名前で呼んだら、あるいは…?
いやいやいや。そういう事は考えない様にしよ。
塚村さんを急かす様にその場を離れた僕たちは、やがて副部長の家に到着した。
彼女の家は、泥口の出現橋現場から北におよそ3キロほど進んだ住宅地の一角にあった。
それなりに大きな農家で、今時珍しい茅葺の屋根の古風な佇まいだ。
けっこう広い庭の片隅には池があって、その隣には納屋もある。
その反対側には農機具置き場や、耕耘機とか軽トラックを置いてある車庫もある。
どこからか、鶏の鳴き声も聞こえている。
副部長のご両親は外出中だったけど、お婆さんが留守番をしていたので、僕たちは土間にお邪魔させていただいて、自転車を届けにきた旨を伝えた。
「それはそれはありがとない。由美子は今着替えてるでな、ちょっと上がって、お茶でも飲んでき」
気のよさそうなお婆さんは、僕たちに何度も感謝してくれた後でそう言った。
僕としても副部長の具合は気になっていたので、お言葉に甘えさせていただく事にした。
土間で靴を脱ぎ、一段高くなっている家の中に上がらせていただくと、そこはもう、けっこう広い茶の間になっている。
僕と塚村さんは腰を下ろして、ちゃぶ台に置かれたお茶とお茶菓子(主にお煎餅)、それに白菜とか沢庵のお漬物…という、この地方では典型的なティータイムのラインナップを御馳走になった。
どこの田舎でもそうなのかもしれないけど、こういう場では、油断していると湯呑みに際限なくお茶が繰り返し繰り返し注がれてしまう。
新任の先生が、家庭訪問先で一度は経験するというアレだ。
ホスト側としてはおもてなしに気を遣ってくださるのだろうけれど、さすがに三杯・四杯目くらいになると、茶腹になってきて苦しいものだ。
お婆さんとのお話に気を取られていると、気づかないうちにいつの間にか自分の手にしている湯呑にお茶が注がれていたりするから恐ろしい。
お茶を継いでくれるのは、今こうして面と向かって僕と話しているお婆さんのはずなのに、いったいいつの間にお茶を注いでいるのだろうか?
会話の間に、ごく自然な手つきで急須を手にする、そのステルスワークたるや恐るべし。
僕たちがいい加減茶腹になって、内心うんざりしてきた頃に、奥の部屋から副部長が出てきてくれた。
「…いやぁー、昨日はなんかゴメンね」
照れ臭そうに頭を掻きながら、倉澤副部長は謝ってきた。
彼女も腰を下ろすと、ちゃぶ台の上のお茶菓子を手にして、ぱくっと口に放り込んだ。
「せっかくの志賀君の力作をひっちゃぶいちゃって、ほんと申し訳ない」
「あ、いえ、それはもういいんです。ってすっきりしました」と僕。
「しがんの隠れた才能が見れただけでもグッド」と、これは塚村さん。
いや、それももういいから。
「おまけに、あたしの自転車持ってきてくれたんだって?ありがとー」
そう言いながらも、副部長はちゃぶ台のお茶菓子や漬物を、次々と平らげてゆく。
「いえ…どういたしまして…」
僕も塚村さんも、副部長の異様な食欲には目を見張った。
「これ由美子!お客さんの前ではしたない!」
見かねたお婆さんの叱責にも、副部長は平然として、
「…だってお婆ちゃん。さっきからお腹が減ってさあ…晩ごはん、まだ?」
とっくにお茶菓子入れの中を平らげて、今はお皿の上の白菜を楊枝でつまみながら、副部長はそう言ったのだった。
気まずくなった僕たちは、お大事にと声を掛けてその場を退散させていただいた。
「じゃ、また明日ねー」と手を振りながら見送ってくれた副部長は、今度はお煎餅を袋ごと手にしていたのだった。
僕はそのまま塚村さんを家に送ることにした。
辺りもだいぶ薄暗くなっていて物騒なので、僕は自転車を降りて押しながら、徒歩の塚村さんと並んで歩いた。彼女の家はここから新幹線の側道沿いに、さらに北へ1キロくらいは歩く。この付近になると、新幹線は完全に地下のトンネルを通る様になるので、側道とは言っても線路は見えず、フェンスに遮られた小山が連なっているだけなのだけど。
「…ふくぶちょう、すごい食欲だった。おそれいる」
半ば呆れた様な、あるいは感心した様な顔の塚村さんだったけど。
「うーん…そうだなあ…」
僕は、副部長の異様な食欲の原因が気になっていた。
…だって、これってどこかで聞いた様な展開じゃないか。
…まさかとは思うけどね。副部長、別に土とか食った訳じゃないだろうし。
ため息をついて空を見上げると、冬の夜空には星が輝いている。もうそんな時間か。
そのまま視線を、これまで歩いてきた方角に向ければ…ん?
気のせいかもしれないけれど、視線の片隅、新幹線トンネルの小山の上を、人影らしき物が物凄いスピードで南側に走ってゆくのが見えた。
…かなり小柄な人物の様だ。どうやら体格にそぐわない様な大きなマントを羽織っているらしく、そのマントが風にはためいて、翼を広げている様にも見える。
その人影は時々、驚異的な跳躍力で小山の上を飛び跳ねた。あれはおそらく、一度の跳躍で数mはジャンプしているだろう。
「塚村さん…アレ、何だろ?」
「なに?」
僕が指差す方向を彼女が見た時には、人影(?)は側道の反対側に下りて走り去ったのか、もう見えなくなっていた。




