18 「ウィ・オール・フォール・ダウン」
「失礼します」
保健室に入ると、鮎子先生をはじめ顧問の太田先生、それに蒼木部長たち美術部員数名が集まっていた。奥のベッドには倉澤副部長が臥せっている。
僕が護憲室に入ると、太田先生が詰め寄ってきた。
「おい志賀!お前、何をしたんだ!?」
「…え、何って…」
「さっきも言った様に、志賀君は、自作の絵を倉澤君に見せただけです」
返事に窮する僕の代わりに、蒼木部長が答えてくれた。
「どんな絵だ?」と、なおも詰め寄ってくる太田先生に、僕は破れてしまった泥口の絵を差し出した。それを手にした太田先生は、一瞬躊躇した後で、
「…お、お前、こんな悪趣味な絵を見せたのか!?」と、僕を怒鳴りつけてきた。
すると蒼木部長が、
「見たいと言ったのは倉澤君でした。それに、この絵を悪趣味だと決めつけるのは短絡だと思います。見る者を圧倒させるだけの迫力が、この絵にはあると思います」
と、またもや僕に代わって意見してくれた。
他の部員たちも異口同音に部長の言葉に同調する。
「な…何?オレは見る目がないっていうのか?」
予想外の流れだったのか、狼狽する太田先生。
「…倉澤さんは、感受性が強かったってことでしょ?…太田先生と違って」
そう言ったのは鮎子先生だった。
「…な…?」
「むしろ、そんな倉澤さんの感受性に強く訴えるだけの作品を描いた、志賀君を褒めてあげるべきじゃないかな?」
…なるほど。そういう見方もできるのか。物も言い様だなあ。
「剣城先生!あなたはオレを侮辱するつもりか!?」
「あら、そう聞こえたならごめんなさい?わたしが顧問だったら、新たな才能を開花させた可愛い教え子は褒めてあげたいもの。…大いにね?くすくす」
太田先生の表情が、見る見るうちに真っ赤になる。
対する鮎子先生はいつもの笑顔のままだ。ただ、いつもよりもその笑顔には毒があった。
「…と、とにかく志賀!そんな絵を出展させるのは、オレは許可しない。分かったな?」
「いやまあ、許可するも何も、もう破れてますし」と僕。
「何?口答えするのか!」
「別にそういうつもりじゃないんですけど」
うーん…一言多いのが僕の悪い癖だとはよく指摘されてはいる。でも、これは口答えとかじゃないと思うけどなあ。…頭に血が上った太田先生には通じないみたい。
太田先生がまた何か言おうと口を開きかけた時。
「う…うぅん…」
倉澤副部長が目を覚ましたみたいだった。思わずベッドに駆け寄る太田先生。
「倉澤!大丈夫か?」
「あ…先生?…あたし…?」
まだ寝ぼけた様な顔の倉澤副部長。
「気をしっかり持て?大丈夫か?」
大丈夫か?しか言葉が出てこない太田先生だって、けっこう動揺しているみたいだな。
「あ…あの…」
「大丈夫か?」
「あ…はい。それより…」
「それより何だ?言ってみろ?」
「あの…お腹が空きました」
副部長の言葉に、保健室にいたほとんどの者の目が点になった。
ややあって爆笑。
「倉澤君、何を言うかと思ったら」
「先輩、しっかりしてくださいよぉ」
さっきまでの緊張感もどこへやら。場の空気は、一気に白けた物になってしまった。
その中で笑わなかったのは、さっきまで怒鳴られてあまりいい気分ではなかった僕と…
それに鮎子先生だけだった。
鮎子先生は、
「…まあ、その元気があるならもう大丈夫でしょ?今日はもう帰って、おうちでゆっくり休んだ方がいいよ?」
と声を掛け、彼女の家には太田先生が車で送ってゆくことになった。
太田先生と蒼木部長に支えられて倉澤副部長が去ってゆくと、残された部員たちも、おのおの部室に戻って行った。
保健室に残ったのは、僕と鮎子先生だけになった。
…今日は色々とあって、精神的に疲れた。ため息も出る。
そんな有様の僕を見かねたのか、鮎子先生がまた紅茶を入れてくれた。
「はい。お疲れ様。大変だったね」
「あ、どうも」
僕は、差し出された白磁のカップを口にした。
今日のは、先日のアールグレイとはまた違った風味だった。
「今日のはオレンジ・ペコ。ベーシックなのにしてみたよ」
「オレンジ…?でもあんまりオレンジっぽい味しませんよ…?美味しいですけど」
すると鮎子先生はくすくすと笑った。
「ああ、オレンジ・ペコって名前はね、単に茶葉の大きさの等級の事。別にオレンジがブレンドされてる訳じゃないよ」
「へー、そうなんですか」
ひとつ勉強になった。
新しい知識と一緒に、香ばしい香りと風味を身体の中に流し込む。
「…ところで志賀君」
「はい?」
「よかったら、その問題の絵、見せてくれないかな?」
あ、どうぞと僕は自作の絵を差し出した。
引き裂かれた泥口の絵を手にした鮎子先生は、
「…ふぅん…なるほど。たしかによく描けてるね」
と、僕が今までに見た事のない様な表情をした。
その口元には、どことなく愉快そうにも見える印象があった。
「特徴をつかんでる」
……え?
と、そこに、こちらに駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。
保健室の扉を勢いよく開けたのは、文ちゃん先輩だった。
「おねえちゃん!今、倉澤さんが倒れたって聞いて」
文ちゃん先輩は、はぁはぁと息をを切らせている。よほど慌てて走ってきたのだろう。
「あー、倉澤さんなら、ついさっき太田先生が家に送ってったよ。入れ違いだったね」
「それで、倉澤さんの具合は?」
「んー、大丈夫じゃない?別に怪我とかしてなかったし」
あっけらかんとした口調の鮎子先生。その手にしていた僕の絵に気づいたのか、文ちゃん先輩は、
「…鮎子…おねえちゃん…その絵は…?」
と聞いてきた。
「ん?ああこれ?倉澤さんはね、志賀くんが描いたこの絵を見て、気を失っちゃったの」
「え…志賀君。キミ…が?」
不安そうな顔の文ちゃん先輩。何だろう、さっきから頭の中に引っかかったままの、ばらばらのピースが重なりはじめている気がした。
「え…ええまあ。前に言った、部展用の僕の絵…です」
「わ…私にも…その絵を見せてくれませんか…」
「はーい」
僕たちの動揺に気づいていないのか、鮎子先生は、さも気軽に僕の絵を文ちゃん先輩に手渡した。
手にした絵を見る文ちゃん先輩。
「…こ…これは…!?」
紙の上に描かれている泥口の姿を目にした彼女の瞳は、眼鏡の奥で大きく見開かれた。
その小さな肩も小刻みに震えている。
彼女も副部長と同じく恐怖を感じたのだろうか。
…いや違う。あれは…怒り?
…そう、あれは怒りだ。
彼女の心の中からあふれ出した、行き場所のない怒りが、その小さな肩をあんなにも震わせているんだ。
「志賀君…この絵が…キミの言っていた絵の事だったんですね…」
「あ…はい…」
「どうして…どうしてこの絵を彼女に見せたのですか!?」
「…え?」
「どうして、どうして!キミが描いたのが、よりによってこいつの絵だったんです!?」
いつも冷静な彼女とは思えないほど、文ちゃん先輩は感情を顕わにしていた。
「…迂闊でした…キミからあいつの話を聞いた時から、もっと気をつけるべきでした…倉澤さんが部展の話をしてきた時だって…もっと私が…」
文ちゃん先輩の瞳の奥から、大粒の涙があふれていた。
「私が…どうしてキミが…」
文ちゃん先輩の涙が、僕の絵の上に落ちる。その涙で絵具が滲んでしまっていた。
「あ…文ちゃん先輩…僕は別に、副部長をを脅かそうとか…」
僕は、震えている文ちゃん先輩を小さな肩に手を置こうとした。でも、
「さわらないで…!」
文ちゃん先輩の拒絶。はじめての拒絶。
今まで、どんな事でもまっすぐに受け止めてくれていた文ちゃん先輩からの、はじめての、そして絶望的なまでに明らかな拒絶だった。
僕はどうしていいのか分からなかった。
それでいて、混乱している頭の片隅は奇妙なくらい冷静なままで、いままでばらばらだったピースが、明確なひとつの形として構築されてゆくのも感じていた。
「…志賀君」
「あ…はい」
「…志賀君が悪いんじゃないんです。すべては…こうなることを予測できなかっ
た私が招いた事…」
…やっぱり。
僕は気づいてしまった。以前、泥口の事を話した時、彼女に感じた違和感、そしてどうして彼女が倉澤副部長を避けていたのかも。
「文ちゃん先輩」
僕の、押し殺したような低い声が保健室に響く。
「は…い?」
「文ちゃん先輩は、最初から泥口…コールタールもどきの事を知っていたんですね?…僕が話した時よりも前から」
「え…そ…それは…泥口って…?」
僕の指摘に動揺する文ちゃん先輩。それが答えだった。
僕は週末に寺のおっちゃんから聞いた昔話を、かいつまんで話した。
「そのコールタールもどき…泥口の事は、前から知っていたんでしょう?だからあんなにも安易に、僕の荒唐無稽な話を信じてくれたんだ」
「…それは…違う…」
「…何が『心の震え』だ。文ちゃん先輩…あんたはすべて知っていて、僕に接近してきたんだ。ただ単に、何か情報を得るくらいのつもりで」
「それはちが…違います…」
涙を浮かべながら首を横に振る文ちゃん先輩。
でも僕は許せない。何が?
今まで感じていた文ちゃん先輩…鬼橋会長の好意が…いや、好意だと思っていた事、あれらが全部、計算づくに思えたからだ。
鬼橋会長は、僕を利用していただけ。
…それに乗せられて、安易に信じていた自分も許せない。
「…それともうひとつ。あんたが副部長を避けていたのも気になってた。たぶん、副部長も、僕より前に泥口を見たんだと思う。その事とあんたが何か関わってるんじゃないだろうか?」
「……!」
鬼橋会長は蒼白になった。
…ああ、やっぱりそうかよ。こっちも当たりじゃないか。ははは。
「……」
鬼橋会長は俯いたままで、声を殺して泣いているみたいだった。
泣いている女の子。それも泣いているのは、僕がついさっきまで信じていた女の子。その女の子を泣かせたのは僕自身だという事実。
これまで、女の子とはあまり接点のなかった僕だ。女の子を泣かせてしまった事には少し罪悪感もあるけれど。
「はーい。はいはい、そこまでー」
鮎子先生が二人の間に入ってきた。
「志賀君?あんまり女の子をいじめちゃだめよ?」
僕と鬼橋会長は鮎子先生を見た。
その両手には、いつの間に用意したのか、温かそうな湯気を立てている紅茶の入ったカップがあった。
僕たちは椅子に座って、鮎子先生の淹れてくれた紅茶を、ただ黙々といただいた。
誰も、何も言葉にしなかった。
間が持たなくて、僕はまだ熱いカップを何度も口に運んでばかりいた。
文ちゃん先輩…鬼橋会長は俯いたまま。最初に一度口にしただけで、後はカップに手もつけていない。
気まずい沈黙の時間。
ややあって、最初に口を開いたのは鮎子先生だった。
「…落ち着いた?」
「あ…はい」と僕。
鬼橋会長もこくん、と無言で頷いた。
「ええっと…何から話そうかな?うーんと…じゃあまず志賀くんに」
「…何ですか」
僕は気のない返事をした。
「志賀くんにまず言っておくね。文ちゃんは、人を騙して利用する様な子じゃないよ」
「でも…」
「志賀くんは、文ちゃんに騙されてたって思うんだ?」
「だって、あ…鬼橋会長は、すべて最初から知ってて…」
僕が「鬼橋会長」という呼び名を口にする度に、彼女の小さな肩がぴくん、と震えていた。
「知ってたから…?知ってたから何なのかな?文ちゃんがそれで君を利用したんだ?ふぅん…よく分からないなあ」
ユーモラスな仕草で、大仰に首をかしげる鮎子先生。
「…じゃあ、わたしから逆に君に質問。文ちゃんは、一度でも、この件で君にああしなさいこうしなさいって、何か指示でもしたのかな?」
…あれ?そういえばそうだ。
「その…コールタール?うき…くち?…そいつについて、何か具体的な事とかは聞かれた?」
「一度、話しました」
「ふぅん。それから後、もう一回でもお話しした?」
「別に、これといっては…」
「うん。よっく分かった。じゃあ次、文ちゃん?」
あや…鬼橋会長は、顔を上げて鮎子先生を見た。
「文ちゃんは、倉澤さんが倒れたのは、自分が黙ってたからだと思う?志賀くんに、ああいう絵を倉澤さんに見せちゃダメって言わなかったから、こんな事になっちゃったんだと思うの?」
「…そういう事態も起こり得る、という事を想定できなかったのは私のミスです…」
会長は呟く様に言った。
「ちょっと想像力を働かせていれば、あんな経験をした志賀君が、悩んだ挙句にそれを絵にしようとする、そして志賀君は倉澤さんとの接点もあった…そんな事さえ思い至らなかった私の責任なんです…」
「あらそう。じゃあ責任取れば?」
鮎子先生は、ずいぶんと突っ放した事を言った。
「…でもどうやって…?彼女の心の傷を…」
「分からない?」
「はい…おねえちゃんは分かるんですか…?」
「わたしが分かるわけないよ。くすくす」
僕も鬼橋会長も、そのあまりにも無責任な答えに唖然としてしまった。
「…でもね文ちゃん。ひとつ言える事はあるよ」
「何でしょうか…」
「倉澤さんも、そして志賀くんも、そのナントカって化物を見た。これはおんなじね?」
「はい…」
「で、志賀くんは、そいつの絵を描くことで、自らの恐怖心を克服した。自分の心の中で恐怖心に決着をつけた。『浄化』しちゃったんだと思うよ」
…なるほど…言われてみれば、そんな気がする。僕も悩みに悩みぬいて、それであいつの姿を絵にしてみたら、何だこんなものか、なんて余裕が出てきたものな。
「でも、倉澤さんは克服できなかった。心の内側にしまいこんでおいただけ。しまい込んで、忘れてしまおうとしたのね。人は、恐怖心を心の奥底にしまいこんで、それを忘れる事でも、感情を抑えることもできるわ。でも、それは一時凌ぎ。何の解決にもなってない。こういう場合は、何かのきっかけがあれば、またその恐怖心が噴き出しちゃうの…こういう時って厄介よね。だって、それまで何の対処もしていない、無防備で脆弱な心の壁を突き破ってしまうのだから…たとえ、それを引き起こしたきっかけが志賀くんの絵だったとしても、それは克服できなかった彼女自身の心の問題。…さて。志賀くんも文ちゃんも、彼女自身が抱えた問題に、どうやったら責任を取れるのかな?」
「…自分の抱えた心の問題は、自分で解決させるしかない…って事ですか?」
そう答えた僕に、鮎子先生は微笑んだ。
「そう。問題を克服した君が言うと説得力があるね」
「…倉澤さんにできるでしょうか…彼女はもう…」
あや…鬼橋会長は、まだどこか不安げだった。
もう…って、どういう事だろう?
その後。鮎子先生のとりなしで、僕と彼女はお互いの非礼を詫びた。
「えっと…誤解していてしまってすみません…その、混乱しちゃって…」
「いえ、こちらこそ。私もキミを無下に糾弾してしまいました。恥ずべき醜態です」
まだ涙の跡が消えない鬼橋会長だったけど、その笑顔は以前の物に戻りつつあった。
「…それと志賀君?」
「あ…何ですか?会…長?」
「…できれば、前の様に…以前の様に名前の方で呼んでいただけないでしょうか」
「…あ」
それだけ言うと、文ちゃん先輩は僕の前から走り去ってしまった。
保健室の前で、一人取り残されてしまった僕。
文ちゃん先輩とは和解できた。それは幸いな事だ。
僕の思い込みで、彼女を誤解してしまったのは悔やむべきことだ。
…だけど、まだ疑問は残る。
倉澤副部長が、僕と同じ様に泥口を目撃したのは間違いないと思う。それに何とか助かった…というのも僕と同じだ。でなければこうして生きていられる訳がないし。
…でも。
それと文ちゃん先輩が、どう関係しているというのか?
文ちゃん先輩のことだから、副部長が泥口のおぞましい姿を思い出させない様に、色々と気を遣っていたのだろうとは思う。
…でも、そもそも何で文ちゃん先輩が、副部長が泥口を見た事を知っていたのか?
それに文ちゃん先輩が、なぜああまで副部長が取り乱した事に責任を感じているのか。
あとちょっと。あとちょっとですべてのピースが収まると思うんだけどなあ…
…ふと、微かな歌声が聞こえた。
「リンガ・リンガ・ローゼス、ア・ポケット・フル・オブ・ポーシス、アティッシュ・アティッシュ、ウィ・オール・フォール・ダウン」
保健室の中をのぞいてみると、もう陽の沈みきった冬の宵の空に向かって、窓辺で鮎子先生が、何やら不吉な歌を口ずさんでいたのだった。




