17 激情と狂気
さて、放課後の美術室。
先週までは、ここにくるのが億劫でならなかったけど、今日は階段を登る足取りも軽い。
まったく、人間という物は、つくづく単純な生き物だなあ…と、浮かれたいち高校生だけでなく、それがまるで全人類の背負った大いなる業みたいに置き換えてしまうのも、若さゆえの誇大妄想なのだとご容赦願いたい。
美術室にやってくると、今日ももう何人かの部員がきていて、おのおの自分の作品の作業に取りかかっていた。
僕はロッカーから自分の画材を持ち出すと、塚村さんの隣に座った。
「隣、いい?」
「ん。いい」
彼女はもう先週のイラストは仕上げていて、次の作品を描きはじめていた。
今度のは…ふーん。ずいぶんとSFチックな作風みたいだな。
宇宙服だか戦闘服を着た銀髪の少女が、これまた未来的なレーザーガンを構えている構図だ。服のメタリックな質感の描写が凄い。本当にメッキでもしたかの様な金属感を、水彩絵の具だけでよく出せるなあ…と感心する。
白と青と黒の色合いだけで、ピカピカの光沢を表現できてしまうのだから凄い。
…きっと、観察力がハンパじゃないんだろうな。
金属の曲面なんかが、どういった具合に見えているのか?それをどうやれば描写できるのか?なんて、僕にはまるで理解できないもの。
「しがん。今日はいい顔してる」
さすがは観察力の鬼・塚村いのり様。やっぱ分かるんだなあ。
「しがんは顔見れば何考えてるか分かる」
「分かるんだ?」
「分かる」
「さっき、鮎子先生にもおんなじ事いわれた」
それに、文ちゃん先輩にも、ね。
文ちゃん先輩も、鮎子先生も、塚村さんも凄い。…いや、女性はみーんな凄いのか?
女の子ってみんな、男の心の奥底を見抜いてしまう、途轍もない能力があるのだろうか?
「しがんが分かりやすいだけ」
あ、そですか。
「ぐちゃーとかびちゃーとかでろでろでろでろー、できそう?」
…だから、何でそう言う時に目を輝かせてくるのですかあなたは。
「うむ。今日はできそう。期待していておくんなさい」
「楽しみ」
そう言うと塚村さんは、また自分の絵に取りかかった。僕も自分の用具入れから鉛筆を取り出して下絵からはじめる。
まず最初に、頭の中にある構図を思い浮かべて、紙の上に大体のアタリをつける。
この時は、まだ輪郭線ほど明確な物でなくていい。
今回の僕の場合は「泥口」という異形の化物だから、くねくね蠢くあいつの細長い身体の動きを、一本の線で引いてみる。
それができたら、その線を軸にして、あいつの胴体の太さを想定しながら、筒をつなげる様にして肉付けをしてゆく。
いい参考資料もあった。
掃除機の吸引ホースとか洗濯機の排水ホース。ああいう適度な太さのホースを連想してみると、あいつの図体をイメージしやすかった。
…ああいうホースって「蛇腹」になってるんだよな。「蛇の腹」とはよく名づけたものだ。言い得て妙とはまさにこの事だった。
そしてその「ホース」の先端。この部分に「泥口」の一番大きな特徴、人間みたいな口がある。よく思い出してみりゃ、人間そっくりなのは歯並びだけでなく、ご丁寧にも唇もついていた様な気がする。
…ううっ。前に比べれば冷静になってきたけど、やっぱ気持ち悪い姿だよなあ。
鉛筆で描かれた泥口は、こっちに向かって悪趣味なあの大口をくわっ!と大きく開けて威嚇している様だった。うん。我ながら、けっこう迫力ある下絵ができたものだな。
僕はまだ描きかけの自作の絵を、まじまじと眺めてみた。
絵の中の泥口は、その醜悪な口を僕に向かって大きく広げている。
じっと見つめていると、恐怖心よりも、むしろ怒りがわいてきた。
…え?こら。誰に向かって、そんな臭そうな口を馬鹿みたいに開けてるんだ?
ヤァヤァ遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ、怖れ多くも賢くも、お前の前にいるのは、真っ白い紙の世界にお前を封じ込めた、偉大なる英雄、志賀義治様なるぞ。控えィ控えィ!てめぇなんざもう怖くもねーぞ、おいこら。
「…しがん。さっきから独り言うるさい」
塚村さんの声がした。あ、はい。どーもすみません。
…いかんいかん。ついつい悪ノリしてしまった。
しかし、それも仕方なかろう。これは中々の力作になる、紙の上で次第にカタチになってゆく泥口の姿を見ていて、そんな予感があった。そういう自負があった。
『これは、僕が今まで描いてきた絵の中でも傑作になる』
ヘンな所で新境地に目覚めてしまった。かといって、今後もこの路線でゆこうとは思わないけどね。
こんな方向性をずっと追い求めても、どうせきっとロクな事にはなるまいて。
だから、今。
今だからこそ僕はこの絵に心から溢れてくる感情を、何の衒いもなく叩きつける。
もう二度と、こんな絵は描かない。たった一度だけの、あふれ出る感情の照射。
鮎子先生のアドバイスを、僕は今や完全に理解していた。
周囲の事も気にせずに、僕は感情の赴くままに鉛筆を、絵筆を紙の上に叩きつけ続けた。
…葛藤すること2時間半。
そして、ついにその絵はできあがった。
それは前に描いた、あのいい加減な「榛名山もどき」などとはまるで違う物。
…僕の心の深淵からあふれ出した、抑えきれない激情を具現化した物だった。
「…ふぅ。こんな感じかな」
いつの間にか、僕は汗びっしょりになっていた。
「…しがん。できた?」
そんな僕に、塚村さんがタオルを渡してくれた。
「ん。ありがと。できたよ」
僕はタオルで額の汗を拭うと、自作の絵を塚村さんに手渡した。
彼女はそれを手に取って、しばらく見つめていた。
「……」
絵を持つ塚村さんの手が震えている。
「ふぉ…」
ふと、彼女の口から意味不明の声が漏れた。
「ふぉ?」
何だろ。それが僕の絵に対する感想なのかな?
「ふぉぉぉぉぉぉぉぉ…!?」
「つっ、塚村さん…!?」
恐る恐る彼女の顔をうかがってみると、目が合った。
あらま。塚村さんってば、お目々が異様に輝いているではありませんか。
「しがん」
「は、はい、何でございしょう?」
彼女の放つ謎のオーラに圧倒されて、思わず敬語になってしまうこの僕。
「いい!コレ、凄くいい!!」
…は…はぁ、それはどうも。
「ぐちゃーもびちゃーもでろでろでろでろーも、どれもわたしの想像以上!凄くいい!!」
そう言うあなたに、描いた本人はドン引きですが。
「特にこの口!」
口がどうかしましたか。
「とってもかわいい。すき」
はぁ?
「細くてうねうねしてるこの胴体もいい。頬ずりしたい」
…いっそ抱き枕にでもいかがでしょうか。ただし明日の朝を無事に迎えられる保証はございませんけれど。
以前から何かと不思議な感性の持ち主だとは思っていだけど、僕はまだまだ彼女の感性の片鱗しか知らなかった様だ。…つか分からない。
塚村さんがあんまりにも騒ぐものだから、他の部員たちも何事かとこちらにやってきた。
「ほぉ…、志賀君。やっとできたんだね」
と、蒼木部長も自分の作業を止めている。
「その力作、僕にも見せてくれないか」
今まで色々と気を掛けてくれていた分、部長も僕の絵の仕上がりが気になるのだろう。
「ぶちょう。これは傑作」
まだ興奮気味な塚村さんの手から僕の力作を受け取った部長も、絵を手にした途端、息を呑んだ。
「こ…これは…何というか…」
部長の肩も震えている。
「ま…まさに、こういう怪物がいて、それを目の当たりにした様な迫力だ…」
…いやまあ、その通りなのですが。
僕、本当にこういうの見ちゃったんです、なんて言えないけどね。
「抽象画でもない、それでいて写実主義ではあり得ない…」
いやいや、それほどでも。
「…技術はまるで稚拙だけど」
…仰る通りでございます。
「志賀君、新境地じゃないか。僕にはまるで理解できないけれど、こういう絵もあっていいと思う。それだけの迫力…いや、説得力がこの絵には感じられるよ」
万人が認める実力と高い人望を持つ蒼木部長のお墨付きを戴いた事で、泥口の絵は一躍、部の話題の中心となった。
美術室にいた部員たちの誰もが、僕の絵に圧倒されていた。
言葉もなく、ただ固唾を呑んで、遠巻きに絵を見ているだけだった。
僕は自らの感情…泥口に対する恐怖心のありったけを、この絵に叩きつけた。
いわば、この絵は僕が抱いていた「恐怖心そのもの」が封じ込められた作品なのだ。
こいつがどんな化物なのか分からなくても、そこに込められた恐怖は感じ取れるだろう。
この絵を見た時、人は否応なく、あの時僕が感じた恐怖を追体験させられるのだ。
それが、この絵をして人を惹きつける原因になっているのだろうか。
魅力がある、とは言うまい。
これは魅力などではない。そこまで増長できるほど、僕は自分の力量を錯覚していない。
ただ、とんでもない作品を描いてしまったという自覚はあった。
部室にいた誰もが、言葉もなく僕の絵に見入っていた時。
「何?志賀君やっと絵ができたの?見せて見せて」
と、明るい声がした。倉澤副部長だった。
彼女はどうやら自分の画材を洗いに、美術準備室に備え付けの洗い場に行っていたらしい。
「榛名山もどきに続く傑作、できたかなー?」
気さくに言う副部長。ちょっとイヤミにも聞こえるけど、これはこれで、あまり絵の得意でない後輩に対する、彼女なりの気配りなのだろう。
「いやいや、倉澤君。これは馬鹿にできた物じゃないぞ?」
僕の絵を渡しながら、蒼木部長は言ってくれた。
「またまたぁ……ひっ!」
笑いながら絵を受け取った副部長は、その絵を見るなり短い悲鳴を挙げて。
びりびりびりびり…!!
…その絵を、無残にも縦に引き裂いてしまった。
その場にいた誰もが言葉を失った。
いくら何でも、人の絵を破り捨てるという暴挙は、誰よりも熱心に絵を描く彼女の、ましてや絵を描くという作業の困難さを、誰よりも真摯に理解しているはずの彼女の取った行動とは思えなかった。
みな、ただ沈黙するしかなかった。
破り捨てた倉澤副部長自身さえ、目を見開いたままで硬直している。
まるで、自分が何をしたのか理解していない様にも見えた。
でも、僕には彼女の取った暴挙の理由も理解できた。
そう。彼女は泥口に恐怖したのだ。あの時の僕と同じ様に。
部室に沈黙が漂う。
その沈黙を破ったのは蒼木部長の一声だった。
「倉澤君、何をするんだ…!?」
部長に一喝された倉澤副部長は、我に返った。
「え…?あ…?あたし…何を…?」
そのままガタガタと震えだした彼女は、
「あたし…あたしが…口が…口…」
と、何かうわ言を口にすると、意識を失って倒れてしまった。
それから先は大騒ぎだった。
部長の指示で部員たちが保健室に駆けて行って、鮎子先生を呼んできた。
駆けつけた鮎子先生は脈を見たり瞳孔を確認したりした後、意識を失ったままの倉澤副部長を数人がかりで保健室に運ばせていった。
それまでの喧騒が嘘の様に静まった部室。
床には、破り捨てられたままの僕の絵が散らばっていた。
「もったいない。いい絵だった」
そう言いながら、塚村さんが絵を拾い集めてくれていた。
僕は、その様子をただ見ていただけだった。
「気を落とさないで?副部長も悪気があったわけじゃなさそうだし…」
何人かの女子部員は、そんな僕を、自分の力作を破り捨てられたショックで言葉もないのだろうと思ってくれたみたいだったけど。
…実はその時の僕自身は、何の感情もわいていなかったんだ。
ショックでもなく。怒りでもなく。悲しさでもない。
あの絵の中には、泥口に対する、僕の心の中からあふれ出していた感情の全てが込められていた。
だから、もう僕の心の中にはなーんにも残っていない。空虚。空っぽ。エンプティ。
それでいい。むしろ破り捨てられることで、あの絵はその役目の全てを終えたとさえ言ってもいい。
倉澤副部長は、ただその幕引きをしてくれただけ。
冷静になって考えれば、これでまた部展の作品を新たに描かねばならないという、とても大きな問題に直面した事になるのだけれど、不思議と焦りもなかった。
…そんなことよりも、僕にはもっとずっと気になった事があった。
何だろう。頭の中でばらばらだったパズルのピースが、あと少しで重なりそうな気がする。
その時、
「…志賀君。剣城先生が呼んでるって」と声がした。
振り向くと、さっき倉澤副部長を保健室に連れて行った室崎くんが戻ってきていて、僕を呼んでいたのだった。
「あ…うん。いま行く」
僕は塚村さんから絵を受け取ると、保健室に向かった。




