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17/30

16 それに気づいた時には、もう手遅れだったんだ。

 月曜日になった。

今までの落ち込みがまるで嘘の様に、僕は部室に行くのが楽しみでならなくなった。

早く放課後になって、部室に飛んで行って絵を描きたい。いいや、

「泥口の悍ましい姿を、一枚の紙の中に封じ込めてしまいたい」のだ、今の僕は。

まあ、そのこと自体は、アレをモチーフに選んだ時から変わらない目標だったけど、この週末のおっちゃんとの会話を経たことで、「目的」の方は少し変化してきたのかもしれない。

最初は、あいつの姿を紙の中に押し込めてしまえば、僕の恐怖心も消えるだろうという意識があった。そう、絵を描くという行為を、あたかも魔物を「封印」してしまう儀式の様なつもりでいたのかもしれない。

ところが、だ。

昨日、おっちゃんの話を聞いて、あいつに「泥口」という明確な個性(キャラクター)が付加された途端、

僕は逆に、絵の中に封じ込める事で、あろうことか「泥口」の姿をもう一度じっくりと見てみたいという、奇妙な高揚感が芽生えてしまったのだった。

昨夜、この逆説的で不可解な感情に気づいてしまった時、僕は自分が発狂してしまったのではなかろうか?という不安に捕われたりもした。

でも、そもそも狂人は「自分はおかしい」なんて思わないだろうし、現実にもう一度、泥口と感動のご対面!なんてことになるのは、まっぴらゴメンである。

感動は感動でも、怖れの方にシフトする方の心の動きである。間違っても「感激」などではないので、くれぐれもご注意願いたい。

泥口のご利用は慎重に。

泥口の使い過ぎは精神を損なう場合があります。うん。

 昼休み。僕は2年生の教室に行った。文ちゃん先輩にお借りした、達磨の柄のハンカチをお返しにうかがうためだ。

文ちゃん先輩のクラスまで行くと、毎度のことながら、彼女の方から僕に気づいてくれて、

こちらにやってきた。

「先日はありがとうございました。バターのおにぎり、とっても美味しかったです」

「それは何よりです」

嬉しそうな文ちゃん先輩。やっぱ、自分の作ったお料理を褒められるのは気持ちのいい物なのろうなあ。

「キミのお口に合うかどうか、正直不安だったのですけれど…お渡しした時、どこか戸惑っていた様にも見えたものですから…」

…う。さすがは文ちゃん先輩。ちゃあんと見ていたんですね。つか、見抜いてたか。

「ま…まあ、あんな珍しいおにぎりを戴くのは初めてだったもので…というか、

女の子からお弁当を戴いたのなんて、あの時が生まれて初めてだったので…」

文ちゃん先輩の顔が真っ赤になった。

「…え、あ、ああ、そうだったんですか。私が初めてだったんですか。キミの最初になれて光栄です。嬉しいです」

普段の文ちゃん先輩からは想像もつかない狼狽っぷりである。かく言う僕も、

「…い、いえそんな、あそこまでしていただいて…何というか、その、ええと、感激です、最高でした!」

もはや、双方しどろもどろである。事情を知らない人が聞いたら誤解されかねない。

「ありがとうございました」「いえいえそんな」「何をおっしゃるこちらこそ」という、完成された一連の日本の伝統様式美的応酬もひと段落ついた後。

「…む?志賀君。今日はご機嫌ですね?」と文ちゃん先輩。

「あ、分かります?」と僕。

「くすくす。キミはすぐ顔に出ますからね。…その様子だと、作業の方も(はかど)っているみたいですね」

「あはは。結局、先週は進みませんでしたけど、今日からはもうばっちり!いけそうです」

「それはよかった」

「これも、文ちゃん先輩のおにぎりのおかげですよ」

あ。また真っ赤になった。可愛いなあ。

「…そ、それはいいとして、キミはどんな絵を描く事にしたのですか?」

泥口の話をしてしまった彼女になら話してもよかったのだろうけれど、この時僕の中で、ちょっとした悪戯心が芽生えた。

どうせなら部展の本番で見てもらって、どうです?あんなのなんかもうへっちゃらなんですよ、と、彼女の前でちょっといいカッコしたいという気持ちもあった。だから、

「あはは。それは見てのお楽しみですよ」、と僕は笑った。

「それは楽しみですね」

文ちゃん先輩は、この時、僕が見た中で彼女の最高の笑顔を返してくれた。


…今にして思えば、この時はっきりと言っていれば、あの後の展開は、もうちょっとくらいはましな物になっていたのかもしれない。

だけど僕も彼女も、それに気づいた時には、もう手遅れだったんだ。


僕は彼女にもう一度お礼を言って、その場を後にした。

絵を描きたいという高揚感と、文ちゃん先輩の笑顔。

僕にとって全て前向きに思える出来事が続いて、正直な所、僕は少々浮かれていた。

2年生の教室は南側校舎の2階にあるから、3階の自分の教室に戻ろうと保健室前の階段までやってきたら、そこにセーターの上に白衣をまとった鮎子先生が立っていた。

鮎子先生は、腕組みをしてこっちを見ている。

そういえば、絵が描けなかった僕に最初のアドバイスをくれたのは鮎子先生だったっけな、という事を思い出して、僕はお礼を言うために駆け寄った。

かつては高嶺の花でしかなかった鮎子先生だったけど、今ではもう親しみすら感じはじめていた。

…さすがに文ちゃん先輩みたく「鮎子おねえちゃん」とまでは親しく呼べないけれど。

「ああ、鮎子先生!この間はありがとうございます」

僕は感謝の念をたっぷり込めてお辞儀した。

「……」

…あれ?どうしたことだろう。返事がない。

「…お陰様で、いい絵も描けそうで…す…よ?」

「……」

鮎子先生は腕を組んで黙ったまま、ただこっちを見ているだけだった。

「…あ、あの、鮎子先生?」

「……。つまんない」

「…へ?」

「つまんないな」

ちょっとむくれた様な顔の鮎子先生。ある意味ではレアな表情だ。

「へ…あの、つまんないと申されますと…?」

「むー。つまんないつまんない」

何でだろう。こんな不機嫌そうな鮎子先生を見るのは初めてだ。

「むー」

いえ、むーってむくれるのは、それはそれで新鮮な魅力もあってよろしゅうございますけれども、できればその…ご立腹の理由なぞを、おひとつ…って、あ!

もしかして、この間、まさにこの場所でのラッキーな…じゃなくて不幸な接触事故の事でお怒りモードになられておられるのではなかろうか…?

「おっぱいのことじゃないよ」と鮎子先生。

これまたストレートな。さすがは大人の女性。

…あ、しまった。また知らず知らずのうちに口にしていたのだろうか?

「ちがうちがう。志賀くんって、顔見れば何考えてるか分かるもの」

「あ、そうですか」

…これも僕の短所…なんだろうなあ。

「おっぱいなんて、言ってくれればいつでも触らせてあげるよ?」

それはまた…って、それはまた全男子生徒が聞いたら狂喜しそうな発言を、まるで、じゃあちょっとジュース買いに行ってきてあげるねくらいのノリでおっしゃられますか。

鮎子先生は、僕を強引に保健室に引っ張り込んだ。これで3回目だな、こういうの。

「…ほんと、最近の志賀くんってば、つまんない」

「あ…あの、先生は、いったい何がつまらないんですか?」

「志賀くんがつまんない」

「いえ、それは分かりましたけど…僕のどこがつまらないんですか?」

すると鮎子先生ははぁ、とため息をついた。

「…だぁってえ。最近の志賀くん、全然屋上に来てくれないんだもの。むー」

「…は?」

「あたし、楽しみにしてるのになー。ほんと、つまんない」

は…?あ、ああ、そうか。理解した。

「…もしかして、ギターの事、ですか?」

「うん。最近、放課後はずっと美術室に籠りっぱなしで、時々頭をくしゃくしゃ掻きながらうんうん唸ってるばっかなんだもん」

「あー、すみませんね。部展の課題の製作の方が忙しくって」

鮎子先生、そんなに僕のギターに興味を持っていてくれるのか。これは嬉しいぞ。

「あーあ。こんなことなら、あの時助けなきゃよかったかなー」

鮎子先生はまたむくれてしまった。

たしかに、あの時鮎子先生のアドバイスがなかったら、僕は今でもあーでもないこーでもないと、モチーフ探しの段階で右往左往していたことだろう。

そのことについては、感謝の言葉もないけれど…何となく申し訳ない様な心境と、今まで誰にも聴いてもらえなかった僕のギターに対する、思いもよらない高評価への戸惑いと純粋な感激とが入り混じって、謝ったらいいのか、はたまた感謝したらいいのか混乱してしまうではないですか。

…志賀義治16歳。我ながら、まだまだ人間関係の機微という物が分かってないよな。

「あ、あの…鮎子先生?」

「何?」

「えっと、実は今、『ザ・ボクサー』を練習してるんです。絵の方が仕上がったら、ぜひ先生にも聴いていただいて、いや、いっその事、一緒に歌ってもらえたら…なんて」

鮎子先生の表情が一転した。にぱぁっと笑顔になる。

「…そなの?」

「はい!まだ、あのイントロがすごく難しいんですけど…」

「うん。いいよ。歌ってあげる。あたしもあの曲好きだしね」

…お。おおお?おおおおお?

何だ、この瓢箪から駒状態は?

僕のギターで鮎子先生が歌う…?

前の「スカボロー・フェア」の時は不意打ちみたいな感じだったけれど、今度は先生の口から、こうしてはっきりとお言葉をいただいてしまった。

これは感激どころの騒ぎではない。

今週に入ったばかりだというのに、立て続けにいいことづくめだ。

浮かれるどころか、もはや翼が生えて一気に天にも昇る心境ですよ?これは。

…浮かれすぎて、イカロスみたく真っ逆さまに落っこちたりしなければいいけどな。

「じゃあ、早く絵の方も仕上げてね?」

「はい!それはもう!今日は作業もかなり進むと思いますし」

「ふーん」

僕はさらなる高揚感と共に、保健室を後にしたのだった。

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