15 「怪異泥口食人之図」(黙然寺・所蔵)
一晩開けて日曜日の朝。
よっしゃ今日こそはギター弾きまくるでー「ザ・ボクサー」弾いたるでーと、僕は何だか無駄にテンションが高かったのだけれど。
「今日は爺さんの法事だ。寺に行くぞ」
という父の一言で、そのテンションも一気に下がってしまった。
膨らんだ状態から、急に栓を抜いた風船みたいだった。
ひゅるるるるる~。ぺしゃ。
一気に萎んで、ゆるゆるに弛んでしまったマイハート。
…まあ、割れなかっただけいいかもしれないけど。
朝の8時には、僕は父のお古の喪服を借りて着ていた。…んー、何だか肩がきつい。それにズボンも丈が足りなくて靴下がはみ出してるし。
黒いネクタイは当然、ちゃんと結ばなくてはいけない「本物」だった。ウチの学校の、襟にホックを引っ掛けて固定するだけの簡易型とは違う。
ちなみに、別の学校に進学した中学時代の友人のひとり、小木曽くんの学校の制服はちゃんとした「本物」のネクタイだった。
高校に入ってしばらくして小木曽くんに会った時に、「ネクタイの締め方が分からなくてさ」と言ったら、「そりゃあ、後で苦労するぞ?今のうちに覚えておいた方がいいんじゃないか」とか言われたことがあったけど、うん。今まさにそれを実感している最中であります。
こういう点では、元・帝国陸軍軍人の父は典型的な軍国主義的教条主義者で「制服に合わせろ」が信条だった。
ということは、伸びてしまったこの身長はどうしようもないし、僕はこの情けない様な喪服姿でこの先ずっと通さねばならないという事なのだろうか…?
…誰が最初にゴールインするか分からないけど、少なくとも友だちの結婚式がある時までには、アルバイトしてでも自分のサイズに合ったのを作っておこう。そうしよう。
何とか身支度を終えた母と僕は、父の運転する車で、志賀家のご先祖代々のお墓がある近くのお寺に出かけた。車で5分。歩いてもゆける距離ではあるけど、車社会の群馬県民は、こんな距離でも普通に車を使ってしまう。
どうせ僕だって、あと2年もして高校を卒業すればすぐに運転免許を取って自動車に乗りはじめることだろう。群馬県民ならそれが当たり前だし、そうしないと、他に公的交通手段の乏しいわが県では、生活にも何かと支障が出る。
欠伸をする間もなく、車はお寺の駐車場に到着した。
まあ、毎日の通学にもこの前を通っているのだから新鮮味はないし、それ以前にこのお寺の境内は子供の頃の僕らにとっての遊び場でもあったから、もうすっかりお馴染みの場所でもあった。それでも昔に比べれば墓所の面積もだいぶ広くなってきていたし、釣鐘なんかもいつの間にか新調されていたりして、景色もだいぶ変わってきていた。
…あのぼーさん、けっこう儲けてんだなー。
僕は、ここの住職も昔から知っていた…というか、子供の頃、よく悪戯をしては怒られていたのだけど。
車を降りると、檀家の総代を務めている志賀の家の本家のおじさんたち親戚が雑談していたので、僕たちもその中に加わった。
やがて時間になったので、僕たちはお寺の本堂に向かった。
お線香の香りの満ちた本堂は広い。子供の頃、ここで走り回ったら、ぼーさんに追い掛け回されて襟首掴まれたっけな。
そのぼーさんが奥からやってきた。50代半ばの、でっぷり太った豪快な老人だ。
「おー、志賀の新宅のぼーずか。無駄に大きくなりやがったなあ」
ぼーさんは親戚の中でも背の高い僕の姿に気づくと、わははと豪快に笑いながら僕に話しかけてきた。
「…坊主はおっちゃんだろ?」
「わはは。そりゃ違ぇねぇ。言う様になったなクソガキが」
そう言いながら、ぼーずのおっちゃんは自分の禿頭を撫でて笑った。
このぼーさんは、気はいいのだがとにかく口が悪い。口は悪いが気はいいので、僕たち近所の悪ガキからは一様に「おっちゃん」呼ばわりされていた。何のかんの言っても親しまれているのである。
ちなみにこの坊さんの名前は越智安行と言う。「おちあんぎょう」。「おちあん」。
だから「おっちゃん」でも問題はない…と思う。
おっちゃんは、「功徳を積めよクソガキ」と笑いながら、祭壇の前に座った。
「功徳を積め」はおっちゃんの口癖だ。でも、でっぷり太ったその図体とか、これだけ立派な本堂の改築やらやたらと大きな観音像を矢継ぎ早に建立させているお寺の財源の出所とかを考えるに、己の金欲とかは禁欲してんのかよ?などとか思ってしまう。
…おっちゃん自身は功徳を積んでるのかよ?
おっちゃんは座布団に座ると、一度僕たちの方に向いて一礼して、地の底から響いてくる様な低い声で読経をはじめた。
「‥‥‥‥」
意味なんてよく分からないけれど、僕は宗派に関わらず坊さんの読経は好きだったりする。
独特の抑揚を持つイントネーション、安定したリズム。聴いているとこう…何だか気持ちよくなってきて…何だか…ぐぅ。
ふと、わき腹に軽い衝撃を覚えて我に返った。
見ると、隣に座っている母が、ちょっとこめかみに皺をよせて、僕に肘鉄をくれていたりする。
…あ、いかん。また寝てしまったのか。
さっきも言った様に、僕は坊さんの読経が好きだ。あんなに気分のよくなる「音楽」もそうそうないだろう。実に心地よくて、ついつい睡魔に誘われてしまうんだ。
だからお葬式などに参列すると、僕は坊さんの読経を聴くと100パーセント寝てしまう。
これは今でも変わらない。
「睡魔」と言うと、「魔」がつくだけに、ちょっと邪な印象も出てくるけど、西洋に行くとこれが「サンドマン」という妖精になるそうだ。
西洋の子供は、寝る前にこのサンドマンに祈りを捧げるというのだから、まあ悪い存在でもないのだろう。
古い歌に「ミスター・サンドマン」なんてのがあるけど、あれだって恋に恋する女の子が「わたしを夢の中につれてって♪」なんて妖精に願う、実に甘ったるい歌詞だしなあ。
ましてや、お経を聴いて苦しむのは魑魅魍魎の類と相場が決まっている。
逆に心地よくなるのだから、むしろ経文を大肯定しているのではないだろうか?
よって僕が読経聴いて眠ってしまうのは、決して悪い事ではない…はずだ。
…きっと信心深き証なのだ。そういうことにしとく。
後で母に聞いたら、僕は鼾をかいている時も、木魚の音に合わせて指先でリズムを取っていたそうだ。…我ながらどんだけ音楽好きなんだよ?と思う。
我に返って、慌てて祭壇の方を向く。…ん?
今まで気づかなかったけど、祭壇の薄暗い奥の壁には、何枚かの掛軸が掛けてあった。
どの絵も説法の内容を図案化した物の様だった。
白く美しい蓮の花が咲き誇る極楽浄土。炎と血のどぎつい赤色が広がった地獄絵図。
いかにも徳の高そうな坊さんが、諸国行脚してる様な構図の物。
…おいおっちゃん。ちったぁあの絵の坊さんを見習ったらどうだ?
こういう物に関心がいってしまう所を見ると、やっぱ僕は、曲がりなりにも美術部員なのだなあ…と思ってしまう。
どうやらここのお寺の縁起めいた物語を描いた様な物もあった。
ふと、何枚か並んで掛けられている掛軸の、一番右端の物が目に映った。
…かなり古い物らしい。
見た所、この付近の故事を描いた物みたいだ。
人物の服装から察するに…江戸時代っぽいかな?
何人かの人物は、必死に逃げまとっているみたい。
その後ろには、細長くて巨大な蛇みたいな化物が迫っていた。
蛇…?いや違う。あれは蛇じゃない。
だってその化物の頭は蛇の形をしていなかったし。
頭部に当たるであろうその先端部分は、まるでソーセージの様に丸くなっていて。
口もあったけど、それは蛇の様な横に裂けてはいなかった。
丸くなった先端にの正面に、ご丁寧にも唇がくっついていた。
大きく開けたその口の中には、歪に並ぶ人間の様な歯。
化物は、そのおぞましい大口で、逃げまとう人間に食らいつこうとしているのだ。
僕はこいつを知っていた。
あいつだ。
そう、アレは。
あのコールタールもどき…だ。
「…ぅぅうわひゃぁぁぁぁぁぁあぁ!!」
思わず、僕は悲鳴を挙げて立ち上がってしまった。
周囲の親戚一同はおろか、おっちゃんも読経を止めて、何事かと僕を見ていた。
「ぁぁぁ…ああ…す…すみません、寝ぼけました」
慌てて僕は頭を下げて座り直した。
おっちゃんはあー、こほんときひとつすると、何事もなかったかの様に読経を再開した。
その場はおさまったけど、周囲の親戚たちの視線が痛い痛い。ちくちくする。
横では母が顔を真っ赤にして俯きつつ、僕の腿を抓ってくれていた。
…はあ。すまんこってす。この様な不祥事を二度と引き起こさぬ様、社員一丸となって業務にまい進させていただきますとか云々。
結局、おっちゃんの読経が終わるまでの間、僕はその視線の焦点にされたままだった。
読経が終わった後、本家のおじさんたちに呆れられ半分、怒られ半分な僕だったが、内心は反省どころではなかった。そんなことより、確かめたいことがある。
そのうちに親戚たちも一人二人と本堂を出て行ったけれど、僕は反省している素振りを見せるために、本堂に残って、敷かれた座布団を片づけることにした。
両手に抱え切れないほどの座布団を積み重ねて足元もふらふらと覚束ない僕に、わははと笑いながら、おっちゃんが近寄ってきた。
「うむ。ご苦労ご苦労。功徳を積んでおるな」
おっちゃんは合掌した。「善哉、善哉。わはは」
本堂の片隅に最後の座布団を積み終えると、僕はおっちゃんに、
「なーおっちゃん」
「何だクソガキ」
「ちょっと教えてほしいんだけど…」と、僕は祭壇奥の掛軸を指差した。
「あの掛軸がどうした?」
「あの…右端の奴。あの蛇みたいな化物って…」
おっちゃんはほぉ、と感心した様な顔になった。
「クソガキ。あの絵の縁起に興味があるのか?」
「あ…うん」
「あんな絵に関心を持つとはなあ…珍しい奴だなクソガキは。聞きたいか?」
「う…うん。聞きたい」
僕は固唾を飲んだ。
「では聞かせてやろう…『泥口』の話を」
「うき…くち…?」
おっちゃんの話はこうだった。
昔、江戸時代の中頃。天明年間の事だという。
後で調べたら、西暦で言うと1780年代後半とのことだったけど、その頃この付近では、かなり深刻な飢饉があったという。これは「天明の浅間やけ」と呼ばれた、先の天明3年に起きた浅間山の大噴火の影響も大きかったらしい。降り注いだ大量の火山灰のせいで作物もロクに育たず、おまけに数年間続いた天候不順が、それをいっそう悲惨な物にした。
悪い事は重なる物で、さらに近隣の用水路の水から悪疫が広まってかなりの死者も出たという。あの掛軸の添え書きによれば「野に伏せし骸の数を知らず」と言った様相だったらしい。
生き残った人々は、餓えをしのぐためにまず野の草を、次に木の皮を食べた。やがて食べる物もなくなって…一部の者は地面を掘って土まで食べたという。
この辺りは「関東ローム層」という、太古の火山の噴火などによって堆積した粘土質の土壌の地層が広がっている。彼らが食べたのはこの粘土質の土だった。
そのうちに、奇妙な事が起きた。
土を食べていた者たち数人の言動が、次第に狂暴な物になってきたのだという。
最初、餓えのあまりにおかしくなってきたのかと思われていたのだが、やがて彼らは獣の様に口から泡を吹きながら意味不明の事を口走るようになっていった。
やがて土を食べていた者のほとんどは、原因不明の病気に罹って死んでいったのだが。
そんな折。事件が起こった。
ある夜。「弥平」という農夫の家で女の悲鳴が聞こえたというので、付近の者たちが駆けつけてみると、妻と生まれたばかりの赤子が血まみれで倒れており、その亡骸の脇では弥平がもぎ取った妻の片腕を齧っていたのだという。
駆けつけた者たちを見ると、弥平はにやりと嗤って言ったそうだ。
「…お前らも喰え。うめぇぞ」と。
弥平は、土を喰らっていた常習者の一人だった。
弥平は番所の役人に捕えられ、禁を犯した罪で前橋の刑場で打ち首になった。
その亡骸はお上の情けで首を縫い合わされた後、このお寺の片隅に埋葬されたのだが。
…埋葬されて三月も経った頃。当時の住職が墓所を見回っている時に、弥平を埋葬した辺りの土が荒らされている事に気づいて、寺男にその付近を掘らせてみると。
…弥平の亡骸は、跡形もなく消え失せていたという。
そしてそこには、どこまで続いているか分からない、大きな横穴が開いていた。
その頃から、近隣の家畜が襲われる事件が多発しはじめた。
鶏や犬など小型の動物は、地面に拡がる血だまりの中に体の一部を残すだけで、見るも無残に食い殺されていた。
やがて牛や馬にまで害が及ぶに至り、付近の住民は、「弥平が生き返ったのだ、これは弥平の仕業に違いない。あいつは、また誰かを食らいにやってくるかもしれない」と恐れおののいた。
そしてある冬の昼日中。みなの噂通り、「弥平」は帰ってきた。…異形の姿になって。
付近の小川の橋を渡っていた権八という鍛冶職人が、地鳴りを耳にして足を止めると、川底を割って「それ」は姿を現した。
「身の丈およそ三間也」と言うから、大体5m半くらいか。
「その姿、蛇若しくは、注連縄に似て鎌首上げ蠢く。手足の類は見当たらず、
痩躯泥に塗れて悪臭を放つ」
話しているおっちゃんの方が気分が悪くなってきたみたいで、ここで一端、話を途切って僕を見た。禿げ頭にはうっすらと汗をかいている。
「クソガキ…まだ話を続けていいか?」
「あ…ああ、お願いします…」
正直な所、僕もいささか気分が悪くなってきてはいた。
でも、それはこの話そのものに嫌悪感があったわけじゃない。
だって、僕はその姿なんて、もうよく知っていたから。
そう…まんま、あの「コールタールもどき」の事じゃないかよ…
「頭に目玉無けれども大口有り。人の如き歯を打ち鳴らして犬、馬、牛、人を喰らへり。
故に是を泥口と呼べり」
「おっちゃん…?」
「何だ」
「泥口…その泥口が、何で『弥平』だと分かったのさ?」
「…泥口はな、人の言葉を話したそうなんだ」
「人の言葉を…?」
「近隣の者もよく覚えていた弥平の声で、泥口ははっきりと云ったそうだ…『人の肉はうめぇぞ』」ってな…」
「……」
僕はもう一度、くだんの掛軸を見つめた。
泥に塗れた、くねくね蠢く大口の化物。
…そう。僕が見た「コールタールもどき」は、間違いなく「泥口」って奴だ。
でも、まさか200年も昔の化物が、この昭和の時代まで生きていたとは思えない。
「で…その泥口は…どうなったんだよ…?」
「分からん」
「分からん…って?」
「掛軸に書いてあるのはここまでだ。死んだか地の底に潜ったか…まったく分からん」
「ンな、無責任な…」
「分からんのだから、そう言うしかなかろうて」
「まあ…そりゃそうだけどさ…」
「…全ては昔話。本当にあったかどうかも分からん、よくある妖怪噺じゃて」
そう言ってわははと笑うおっちゃんの顔は、どことなくぎこちない物に見えた。
僕はおっちゃんの話を、もう一度最初から思い返してみた。
飢饉で餓えた者たちが、粘土を食っているうちにおかしくなった。その中で一人、身内まで喰ってしまった奴がいて、そいつは死罪になったけど、墓の遺体が消えてしまった。やがて川の底から化物が…と、僕はそこまで話の筋をたどっていった所で気づいた事があった。
「…なあおっちゃん?」
「何じゃい」
「その…泥口が現れた小川ってさ、どこの川?」
「おお、その事か。ほれ、お前さんも、いつも通っておるじゃろ?このすぐ先の、新幹線の側道の所の橋のある…」
「…やっぱり…」
「やっぱりって何じゃい」
…あの掛軸の顛末の時に泥口が出現したのも、僕が見たあの場所と同じだったのか。そうすると…?
「…おっちゃん、もうひとつ」
「…んあ?お前さんも好奇心旺盛じゃのお」
「この寺のぼーさんも、あの橋の所で亡くなったそうだよね?」
「ん…ああ。拙僧の爺さんの事か?」
「うん。何でもムジナに化かされて首の骨折ったって聞いた」
「あー…ま、まぁ、そういう事になっとる」
おっちゃんは、どことなく気まずそうに見えた。
「そういう事?」
「世間的にはそういう事になっておるのだ」
「…気になるなあ。どういう事か教えてよ」
僕の問い掛けに、おっちゃんはしばらくあー、うーと言葉を濁らせてから、
「…まあ、ここまで話したんじゃ。あの掛軸に、ここまで関心を持ったのもお前さんくらいじゃし…話してもよいかの」
と、汗ばんだ禿げ頭を撫でた。
「拙僧の爺さん…安仁和尚はの、本当は首の骨を折って死んだわけではない」
「本当?」
「本当じゃ。まだガキじゃったが、拙僧もこの目で爺さんのご遺体を見たのだから間違いないわ。爺さんはの、獣か何かにわき腹を食いちぎられておったのだ」
「うぇ…聞いてた話とまるで違うじゃん」
「それはそれは惨たらしい最期でな、あまりに惨たらしい様だったので、世間様には首を折ったと言う事にしたのだ」
「…坊さんが嘘を言っちゃだめだろ」
するとおっちゃんは、ややむっとして、
「…そういう風に言っておけと抜かしたのは、ウチじゃないわい」
「じゃあ、誰?」
「当時のこの辺りの管区さんじゃ」
「管区さんって誰のこと?」
「今でいう駐在さんよ」
「ああ、警察官かあ。ケ-サツも無責任だなー。獣は野放しだったの?」
「いやいや。管区さんたちも、それからしばらくこの辺りをくまなく捜査してくれておったぞ?」
「ふーん。でも、結局、その獣は見つかったの?」
「いいや…見つからんかった。それとな」
「…それと?」
「死んだ爺さんのご遺体は、ウチの墓所に埋葬したんじゃが…」
「…まさか…その遺体も、いつの間にか消えていたとか?」
僕の予想は当たった…当たってしまった。
亡くなった安仁和尚の遺体も、掛軸の弥平の時と同様、埋葬した場所から消えていたのだそうだ…そこに大きな横穴を残して。
「…まあ、もう半世紀も前の話じゃい。その後は何事も起こっておらん」
…それが起こったんだよ、つい最近、と僕は心の中で呟いた。
その時、いつまでも本堂から出てこない僕に業を煮やしたのか、母が迎えにやってきた。
母はおっちゃんに挨拶すると、僕を促して出ていった。後に続こうとした僕に、おっちゃんは「なあぼーず」と声を掛けてきた。
「…何?」
「…さっきの話は、おおっぴらにするでないぞ?」
「ん。分かった」
お寺としても、あまりイメージダウンになる様な話は広めたくないのだろう。
「でもおっちゃん。あの掛軸の事をマスコミに教えれば、ワイドショーのオカルト特集かなんかで紹介されて、ちったぁこのお寺も有名になるんじゃない?」
僕のナイスな提案を、おっちゃんは、
「よせやい。そんな事せんでも、この寺はやってゆけるわな」と笑い飛ばした。
「じゃあ、今日は色々とありがと」
「うむ。功徳を積むがよいぞ」
おっちゃんは合掌して僕を見送ってくれた。
本堂の戸口まできた時、僕はある事を思い出したので、振り返って聞いてみた。
「…おっちゃん?」
「まだ何かあるのか」
「…あの掛軸には、『蝙蝠女』が出てこないんだけど?」
「『蝙蝠女』ぁ…?何じゃそれは」
「あー…知らなきゃいいんだ」
僕はかぶりを振って、おっゃんにもう一度挨拶すると、両親の待つ駐車場に向かった。
…別に、何か答えを期待していたわけじゃないんだ。聞いてみただけ。
…「泥口」、か。
あの日、僕を襲った化物の名前が分かった。
もっとも、その名前は人間が勝手につけた名前に過ぎない。
泥口は人語を解するという。
人の言葉を話すのなら、自由意思くらいは持っているのだろう。
意志を持つのならば、泥口自身は、自分の事をどう思っているのだろうか。
おっちゃんの話から察するに、江戸時代に最初に出現した泥口は、粘土を食っていた弥平が変身した物に間違いないないだろう。
それと、半世紀前の事件。
おっちゃんの爺さんに当たる坊さんの死因と、その後の遺体消失。
こっちだって、泥口と関わっているに違いない。
消えた坊さんの遺体。現場から続いていた横穴。
それは弥平の場合とよく似ている。
…とっても嫌な想像になるけど、泥口に噛まれたりすると、「感染する」のだろうか。映画のゾンビみたいに…?
…あ。でもロメロ監督の「ゾンビ」って、アレは別に「ゾンビに噛まれたらゾンビになる」っていうのは、実はデマなんだって聞いた事もあるな。
あの映画の中の世界では、「死んだ人間はみなゾンビになる」っていうだけで、別にゾンビに噛まれて死のうが銃で撃ち殺されようが、どっちにしろ死ねばゾンビになるっていう話じゃなかったかな?
僕はオカルトなんて信じてはいない。…立て続けに起きた最近の出来事で、その信念も多少は揺らぎつつもあるけど、基本的にはその考えは変わってはいない。
だから弥平の変身も、祟りだとか呪いだとか言ったオカルトめいた原因だとは思わない。
きっと、何かの風土病とか未知の体質変化とかいった原因があるのだろうと思う。
そういえば昔、未知の惑星に不時着したロケットの宇宙飛行士が、その惑星の環境に適合した異形の姿になって地球に返ってきた…なんて特撮ドラマがあったっけ。
逆に、地下深くに沈めたシェルターで生活する実験をしていた科学者が、再び地上に引き上げられた時に、やっぱり異形の怪物になってた…なんて物語もあったっけ。ん?あの場合は宇宙人に改造されていたんだっけか?
…まあ、僕は医者でも地質学者でも生物学者でもないしなあ。
文系科目がほんの少し得意なだけの、一介の高校1年生に何が分かるというものか。
こんな奇病だか進化だか退化だかまるで分からない現象(?)の原因をつきとめようなん
て、そんな大それた事は考えるつもりもない。
だた、ひとつ気になるのが、あの日、「蝙蝠女」にぶった切られた泥口、あれは結局、元は誰だったのか?という点だ。
泥口も生物ならば、寿命とかもあるだろう。
奴らが何年生きるのか知らないけど、さすがに200年間はどうかと思うけど。
…僕が出くわしたのは「弥平」なのか、それとも半世紀前に死んだ「安仁和尚」の方なのか。
それとも、僕たち人間が知らないだけで、「泥口」…いや、泥口に為り果ててしまった「人間」は、もっとずっと数多く生息しているのだろうか。…いや、その想像はあまりにもおぞましいものだけど…
泥口にも雄と雌…もはやあいつらに「性別」とか「男女」とかの表現は当てはまらないと思う…があって、人知れず、地下の奥深くで繁殖しているのかもしれない。
この考えも怖い。自分で考えたくせに怖すぎる。考えたくもない。
…何にせよ、だ。
そんなことはどうでもいいんだ。どうせあの泥口は真っぷたつになって死んでしまったんだし…僕にはもう関係のない事だ。
僕にとって重要なのは、「得体のしれない恐ろしい怪物」だった物が、「泥口」という「明確なキャラクター」となった事だった。
正直、アレに対する恐怖心だってまだ残っているけど、同時に己の心に巣食っていた恐怖心に、具体的な「カタチ」が見えてきたことが、僕の乏しい創作意欲にさえも火をつけてしまった。皮肉な話だけど、これならしっかりした絵も描けるだろうという、奇妙な自信もわいてきてしまったのだった。
…この奇妙な感情も、心が震えて溢れ出した物と言っていいのだろうか…?




