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11 保健室はアールグレイの香り。

 絵が描けないまま3日が過ぎた。

北側校舎3階にある美術室に向かう僕の足も、日に日に重い物になっていった。

…入部した時は、まさかこんなプレッシャーを抱え込むなんて夢にも思わなかったわ。

その日、掃除当番で南側校舎1階の職員室周りのゴミを片付けた僕は、よく働いてくれない頭でとぼとぼと廊下を歩いていたのだけど。

むにゅ。

…いきなり、顔に柔らかくて温かい感触を覚えた。ん?何だろうと、その柔らかな感触の元に手を触れて、少し押してみた。

うん。柔らかい。触っていると何だか幸せな気持ちになる。

それどころか懐かしささえ覚えてしまうこの感触は何だろう。

ちょっと力を入れてみた。

「あん」

…?

聞き覚えのある様な声。

…念のために、もうちょっとだけ押してみる。

「あぁん」

…幸せな気持ちは、一瞬にして嫌な予感へと変わった。

伸ばした自分の手の先を見てみる。

その先には白いセーターがあって。

柔らかなセーターの毛糸の感触の中に、それよりもずっと柔らかな膨らみ…それはそれは柔らかな膨らみを感じた。感じてしまったのだ。

「あらあらあら。志賀くんって大胆ね」

そこには、くすくすと笑う鮎子先生の笑顔があった。

「…☆×△■!!!!」

硬直。

僕の両手は、鮎子先生の豊かな胸に添えられた形で固まっている。

一瞬にして頭の中が真っ白になってしまった。

「…あ…あのこれ、これはその…」

言葉も出ない。

「くすくすくす」

対する鮎子先生はまったく動じた素振りもない。

こ…これが大人の女性の余裕という物だろうか…?

混乱する頭の中では、同時に「…やっぱ文ちゃん先輩より大きいな」なんて、妙に冷静な分析もしていたけど。

「…やっぱ文ちゃんより大きいと思った?」

と、鮎子先生は、まるで…というよりも完全に僕の心の中を見透かしたお言葉を下されたのでした。

「ああああああああ」

「…あ?」

「ああああのののの、すっ、すみませんっ!」

土下座せんばかりの勢いで平謝りの僕。

その時になってやっと、僕はまだ鮎子先生の胸を掴んでいたままでいたことに気づいて、慌てて手を放したのだった。

「どう?気持ちよかった?」

はいそれはもちろん言うまでもなく…ではなくて。

「すみませんすみませんすみません…いてっ!!」

焦りからくる早口のあまりに、舌を噛んでしまった。

「いくら何でも、自ら舌を噛むほど罪の意識を感じることじゃないよ?」

さもおかしそうに、くすくす笑う鮎子先生。

「…ひゅみむぁしぇん…」

舌が痛くて呂律が回らない。口元を抑えてそんな情けない言葉を発するのがやっとだった。

「うふふ。まぁわざとじゃないみたいだし。…口、大丈夫?」

言われて口元を抑えてみると、ほんの少し血が出ていた。道理で痛いわけだ。

「…あーあ。それは痛いよね。保健室においでなさいな。消毒してあげるから」

何と。

以前はあれだけ縁遠いと思っていた憧れの聖域へのご招待を、今まさに、しかも女神様ご本人(ご本尊か?)自らのお誘いと言う最高の形で実現しようとは。

まあ、鮎子先生にここへ呼ばれたのはこれで2回目だけど、前の時は文ちゃん先輩から逃げようとしていた矢先の事だったし、その後すぐに文ちゃん先輩にしょっ引かれちゃったしで、感慨にふけるゆとりもなかったしなあ。

…人生、どこで何があるか分からないものだ。

おまけに思いもよらぬ幸せな感触まで堪能できて…あ、いやいや。

ついさっきまでの悩みはどこへやら、僕は少々舞い上がった心境で鮎子先生について保健室に向かったのだった。

「…はい。あーん。ちょっとしみるけど、男の子はがまんがまん」

鮎子先生は消毒薬を浸した脱脂綿をピンセットでつまんで、僕の口を消毒してくれた。

ひゃー…ホントにしみるわコレ。

それにしても、鮎子先生って、こうしてみるとやっぱ養護の先生なんだなあ。何というか、

こういった仕草が実に自然なんだよな。

口内の消毒を終えると、鮎子先生は「せっかくだから、お茶でも飲んでく?」なんて言ってくれた。

「え?消毒した直後で、いいんですか?」と僕。

「え?だめなの?」と鮎子先生。

…前言撤回。そこは疑問形で返さないでください。

「ま、きっと大丈夫よ。それにお茶には殺菌効果があるし」

「それもそう…そうかもしれませんけど」

「少なくても、雑菌が体中に回って長期入院…なんてことにはならないでしょ」

…そういうのは想像したくありません。

鮎子先生はちょっと待っててね、と言うと保健室に備え付けの流し台に向いた。

電気式のポットに水を汲み、お湯を沸かして。

四角くて黄色い缶から葉を出して、洋風のポットに入れて沸かしたてのお湯を差す。

しばらくすると、とってもいい香りが漂ってきた。

あれ…?この香りは?

僕の前に差し出されたティーカップ。

ありゃ。緑茶かと思ってたのだけど、紅茶でしたか。

「いい…香りですね」

「うん。アールグレイ。美味しいよ」

へー、アールグレイっていうのか。名前くらいは聞いた事があるけど、これがそうなのか。

ひと口、含んでみる。

柑橘系の香りと風味が口内に拡がった。

消毒したばかりの傷口にはちょっとしみたけど、うん、たしかに美味しいや。

「美味しい。…不思議な味ですね」

「でしょ?体にもいいのよ」

「へえ。たしかにそんな気もしそうな味ですよね。どんな効能があるんですか?」

「…えっとね、『精神安定、ホルモンのバランス調整にストレス軽減』だって。ふーん」

缶に書いていある説明文を読み上げながら感心して頷く鮎子先生。

「…今知ったみたいですね」

「うん。ひとつ勉強になっちゃったね。くすくす」

ちっとも悪びれた風もない。さすがは鮎子先生。

事務机を挟んで向かいあったまま、僕たちは笑った。

ティーカップから立ち上る湯気越しにゆらめく鮎子先生の笑顔。

「…ところで志賀くん?」

「はい?」

「志賀くんは、どうしてさっきはあんなに深刻な顔をしてたの?」

「僕…そんな顔してました?」

「うん。してたよ。見てるこっちも、『あれ?もうこの世の終わりがきちゃうのかなー』って気がしちゃうくらい?」

「1999年はまだ先ですよ」と苦笑いする僕。

「え?…ああ、あのウルトラなんとかの予言?わたし、そんな予定ないけど?」

…予定?何の事だろう。ま、いいか。

「…ノストラダムス、です」

昔のフランスだかどこかの医者が言ったという予言。何でも西暦1999年の7月には、人類は滅亡してしまうのだそうだ。生きていればその頃、僕は30代前半になる。まだまだ先の事にも思えるけど、30歳ちょっとで死ぬのは嫌だなあ。結婚もしているだろうし、もしかしたら子供だって…と、なぜか文ちゃん先輩みたいな子供の顔が浮かんだ。

思わず赤面してしまう僕。

鮎子先生は、そんな僕の顔をじーと見ると、

「うふふ。今、文ちゃんの事を考えたでしょ?」

と、悪戯っぽく微笑んだ。

「…!?」

この人は、ノストラダムス云々の会話から、何でそこまで見抜いてしまうんだ?

「…そっ、そんなコトないですっ!」

「えー、そうかなあ?。今、志賀くんの顔には『文ちゃんの子供のパパになりたい』って書いてあった気がしたんだけどなー」

「違いますよぉ」

あああ、一瞬でもそんなコトを連想してしまった自分が恥ずかしい。

「…でも残念ね。文ちゃんは…」

え?…残念?どういうことだ?

もしかして文ちゃん先輩にはもう婚約者とかいるとか…?

…考えられなくもない。どうやら文ちゃん先輩の家もけっこう格式ある家柄みたいだし、高校を卒業したら、すぐに嫁ぎ先が決まっているのかもしれない。

「…あ、婚約者とかの話じゃないよ?」

またもや僕の心の内を見透かしたかのように鮎子先生。

「文ちゃんはね、まだフリー。初恋だってしたことないんじゃない?」

なぜかほっとしてしまう僕。

「強いてあげるなら…志賀くん?」

「はい?」

「今の文ちゃんの一番近くにいる男の子はね、たぶん君」

え…えええ…?

嬉しい様な気恥ずかしい様な、知らず知らずのうちに地雷原に踏み込んでしまった時の様な…。

いきなりな事を言われて、僕は混乱してしまった。

た…たしかにここ数日、出会ってからは文ちゃん先輩とは色々と話もしたし、お互いの心の内も晒しあった。

それに…あの華奢な身体も抱きしめた…いや、あれは抱きしめられたと言った方が正解だけど…

でも、僕が文ちゃん先輩という人を、「一人の女性」として意識しているのかどうかは自分でもまだ分からない。

尊敬。畏敬。ほんのちょっとだけ…畏怖。

性格も人格も学力も包容力も…どれをとっても僕なんかとは釣り合いそうもないし。

「志賀くん。前に君がここに来た時に、私がした質問を覚えてる?」

…覚えてます。

『志賀くんは、文ちゃんみたいな子は苦手?嫌い?』

あの時、鮎子先生はそう聞いてきたんだ。

「あの時、君は首を振ってただけだよね。イエスでもノーでもなく」

「…はい」

「でも今、私が文ちゃんの名前を口にしたら、否定しながらも慌ててる。顔も赤くなった」

「…」

「…君の中で文ちゃんは、あの時よりもずっと大きな存在になってるんじゃないかな?」

「そうでしょうか?」

「うん。人ってね、意識してるからこそ慌てたり焦ったりするものだから」

「…意識してるからこそ…」

「そ」

鮎子先生は、アールグレイをひと口飲んで頷いた。

なるほど。男子はともかく、女子も鮎子の所に色々と相談を持ちかけてくるというのも分かる気がするな。

鮎子先生の持つ雰囲気と、相手の心の内を的確に見抜いてしまう洞察力?みたいな物は、悩み多き僕たち高校生にとっては、ある意味で天の声みたいに思えてしまうこともあるだろう。少なくとも、今の僕はそう思った。

それはそれとして。

さっき鮎子先生が口走った「残念」って言葉が気になってしまう。

…これも「意識している」からなのだろうか?

気になったので、僕は鮎子先生に質問してみたのだが。

「人のプライバシーは教えてあげません」

と、やんわり拒否されてしまったのだった。

「でもね志賀くん」

「はい?」

「意識してるのは君だけじゃないよ。文ちゃんも、君の事が気になってると思う」

「…」

こういう時、僕は一体どんな事を言えばいいのだろう。

生まれて16年。今まで恋愛とかいった事とはまるで縁遠かった自分の人生が恨めしい。

いやそもそも、「意識している」と「恋愛感情」という物は、単純にイコールで結んでよい物なのだろうか?

…そんな難問の答えを見出すには、僕はまだ人生の経験値がまるで不足していた。

「文ちゃんの話になっちゃったね。話題がれちゃった。今は君の悩みを聞かせてもらうつもりだったのに。ごめんね?」

またもや深刻な顔になってしまったであろう僕を気遣ってくれたのか、鮎子先生は急に話題を変えてくれたみたいだ。

「あ、いいんです。何だか気持ちも楽になってきましたし」

「アールグレイの効果が出てきたのかな?」

鮎子先生はそう言って笑ったけど、気持ちが晴れてきたのも本当だ。

それは紅茶よりも、この先生の微笑みの効果の方がずっと大きかったと思う。

僕は改めて、ここ数日頭を悩ませている絵のモチーフの事を口にしてみた。

「…結局、全然描けないんです。描いても気に入らなかったり、薄っぺらな物を、ただ線でなぞっているだけの様な気がして」

僕の話を、鮎子先生はただ目を閉じて聞いてくれていた。

「自分でも、何を描いたらいいのか、まるで思いつかないですし…」

しばらく沈黙した後で、鮎子先生はおもむろに口を開いた。

「…志賀くん。志賀くんは心が震えた事がある?」

え…「心の震え」?

前に、文ちゃん先輩もおんなじ事を言ってたっけ。

「人生ってね、それまで自分がやってきたこと、経験してきたことすべての積み重ねでできてるの。…いい経験も、悪い経験も、そのどれもが一人の人間の根幹になってる」

「根幹…ですか」

「そ、根幹。おおもと。言い換えればその人というカタチを作ってる『芯』みたいな物」

「芯…」

「でもね、それだけじゃ『ヒト』は『人』とは言えないの。人間は『感情』って物も持ってるから。…この感情という奴がとーっても厄介」

「どうしてですか?」

「感情は、人間の持っている物の中で、いちばんコントロールの難しい物だからね。いつも暴れださないように見張ってなければならない」

「はい」

「その感情をコントロールする役目を持っているのが…『心』」

コントロール、かあ…

…そういえば『平常心』『自制心』。『心配』『安心』…。

言われてみれば、『心』って文字のつく言葉には、どこか抑制を連想させるような物も多い様な気がする。

「『心』はね、そういった厄介な感情をしまっておくための物置でもあるし、外に飛び出さないように防ぐための壁でもある」

…なるほど…そういった意味でも、「文ちゃん先輩」という人は凄いんだ。「鉄血宰相」とはよく言ったものだと感心する。彼女の「心」にはかなり分厚い鋼鉄の壁に、自由に調節できる蛇口でも付いているのだろうか。

…でも、最近の文ちゃん先輩の壁って、何だかちょっと脆くなってきてるのかな?所々に綻びができて、いつもは見えることのない彼女の内面がにじみ出てきてしまっている様な気もしてしまう。

鮎子先生は続けた。

「…でもね志賀くん。その『心』が不安定になると、本来はしまっておかなくてはいけない『感情』が、些細なきっかけで外に出てしまうことがあるの」

「不安定って…心が震えた時のこと、ですか」

「そう。心が震えた時、心の一番奥底にしまっておいた感情がにじみ出ちゃうの。喜び。怒り。悲しみ。感動。…それに楽しさ、とか」

あ、そうか。だから「顔に『出る』」とか「感情を『顕わにする』なんて言葉があるんだ。

「…強い感情ほど、外に出やすいですしね?」

「そうそう。そこで関わってくるのが、さっき言った『根幹』の部分」

「どういう…ことです?」

「一度外に出てしまった感情…特に強い感情ほど、よくも悪くも他の人に何がしかの影響を与えちゃうよね?」

「はい…よく分かります…」

僕はそれで、先日文ちゃん先輩に醜態を晒してしまった。

「でも、時にはそれが『武器』にもなるって気づいてた?」

…どういうことだろう?

「コントロールの難しい『感情』をうまく抑制する手段は、何も『心』だけじゃないってこと…実は、ね。人がそれまでの経験から得た積み重ね…人の『根幹』の部分を『感情』にくっつけちゃってもいいのよ」

「…難しそうですね」

「そうでもないよ?たとえば、芸術家とか作家なんて人たちがやってるのは、そういう事だもの」

「芸術家…?」

「芸術家とか作家って、自分の中にある『感情』を、『作品』というカタチに昇華できる人の事を言うのよ。感情を「作品」と言うカタチで表現させちゃうの」

鮎子先生は、いつもの笑顔でそう言った。だけど僕にはやはり難しそうだ。

僕にはそんな、自分の感情をカタチに変えるなんて芸当はできない。今まさにそれで困っているのだし…

「そうかな?」

「そうですよ…」             

「私、そうは思わないなー」

「どうして、ですか?」

「だって私、君の弾くギター好きだもの」

鮎子先生は、僕の予想もしていない様な事を言った。

「君がいつも屋上で弾いてたギター、すごく気に入ってるもの」

「…そ…そうですか?」

「毎日屋上から聞こえてくるギターの音で、あ、志賀くん今日は何かいいことあったかな?とか今日は落ち込んでるなーとか分かったもの」

「…そんなに分かるものですか?」

「うん。すっごく出てたよ、君の気持ち。毎日の放課後、君が何を弾いてくれるのか楽しみだったよ」

…そこまで言われると、さすがに嬉しい。

「君だって、心の震えをカタチにして表現させる方法はちゃあんと持ってると思うよ?

ただ、ギターでやってることが、絵ではできなかっただけ」

「…分かる様な気がします。でも、じゃあ絵で表現させるにはどうしたらいいでしょうか?」

そうだ。そこが一番の問題なんだ。

鮎子先生はうーん…そうねぇ…としばし考えてから、

「…『逆転の発想』、なんてどうかな?」と申されたのだった。

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