10 電気陰性度と不対電子
それから試練の日々が始まった。
最初の試練は期末試験。その結果については深く触れないでおく。僕の名誉のためだ。
12月最初の5日間を試験の為に費やしたのは、まあそれが学生の義務と言ってしまえばそれまでなのだけど。
ほんの1年前の今頃、必死でやってた受験勉強のことを思えば、今年くらいは羽を伸ばしてもいいのになあ…ということを、試験初日の前日、たまたま廊下で会った文ちゃん先輩に話したら、志賀君ちょっとこっちにきなさいとまたもやネクタイを引っ張られて今度は生徒会室に拉致されておよそ1時間あまり、きっちりとお説教をいただいてしまった。
…どうやら彼女は、試験という制度に対して何やら肯定的に思う所があるみたいだったのだが、これは実に長くなるので割愛させていただく。ただ、彼女の熱意ある申し出によって、試験の間、毎日図書館でみっちりと「文ちゃん先生」による個別指導のカリキュラムが追加されたことだけは特記しておきたい。
この時期、図書室の人口密度は驚異的に跳ね上がる。ここに通う生徒は、何も僕たちだけではない。好学心旺盛な優等生集団はもちろん、ノートの貸し借りとそれを写しまくる連中、書棚の蔵書に一縷の望みをかける必死な一派、それに図書館という独特の雰囲気を持つ場所にいるだけで、何だか勉強した様な気になっている思い込みの激しい方々とか。
そういった面々の中でも、やはり「鉄血宰相」の存在感は群を抜いていた。当然、その女傑に従者のごとく付き添うこの僕も無駄に目立ってしまうわけで。
僕たちがお付き合いしているのではないか?という噂は、あっという間に全校生徒の間に広まってしまったのだった。もっとも、僕と文ちゃん先輩の間には、この時点では「男女交際」という概念などまるでなかったのだけれど。
実際、二人でいる間の会話を耳にすれば、睦みゴトめいた内容など皆無だったことに気付いていただけたかと思うのだが。
アレは実に質実剛健、教条主義一歩手前の殺伐とした軍事教練にほど近い物だったとしか言えないもの。
まず第一の条件として、「試験期間中はギターに触らないこと」を約束させられてしまったことは言うまでもないと思う…くうっ。
僕は、文系としてはまあそれなりに上位の成績を保つことができたのだが、いかんせん理数系という奴が壊滅的だった。文ちゃん先輩…いや先生に元素記号の問題を出されて、うろ覚えの知識をオツムの奥から引っ張り出して、ノートに「水兵りーべ僕の船」と漢字で書いたら唖然としてたっけ。
優しい優しい文ちゃん曹長殿は何かをこらえる様にため息をついて、僕の両肩に手を置くと、「…志賀君。私はキミを見捨てたりはしない。共に最善を尽くそう」と申された。
その瞳に何か悲壮な決意を感じてしまった僕は、またもや政治家の様な玉虫色的答弁をするしかなかったのだけど。
まあそれでも、献身的…というか滅私奉公あるいはあしながおじさん的ボランティア精神に充ち溢れた文ちゃん先輩のおかげで、僕の高校生として最初の師走冒頭の五日間はとっても内容の濃い、充実しまくった日々となった。
試験の最終日、最後にして最大の難関である物理の試験を終えた僕は、そのまま文ちゃん先輩のクラスに赴き、任務を完遂したことを報告に行った。
僕の報告を、腕を組んでうんうんと頷きながら聞き終えた文ちゃん先輩は、
「よくここまで頑張りましたね。今のキミはもう昨日までのキミじゃない。私も誇りに思います」などと、キャンプ期間を終えて巣立ってゆく新兵を見送る教官の様な顔で迎えてくれた。
思わず涙ぐんでしまう僕に、何故か教室内の先輩方は温かい拍手を送ってくれた。
あれは映画みたいな、実に感動的なエンディング・シーンだったと今でも思う。
そこで終わっていればよかったのだけれど。
映画と違って、現実とは人生の終着まで延々と「続編」が続く。
後で耳にしたのだが、この時「出来の悪い後輩を徹底的に教育し直した生徒会長」という、新たなる鉄血宰相伝説が、また生まれたとか生まれなかったとか。
まあその「結果」の方が話題にならなかったのは幸いだったとは思う。成績が発表された後、僕は文ちゃん先輩に何度も謝られてしまったけれど。
「すみません志賀君。私の努力が足らなかったせいで、キミをこの様な無残な結果に…」
さすがにこちらも恐縮してしまい、いやそれは僕が悪いんです、気にしないでくださいなどと謝り返したら文ちゃん先輩いわく、
「学年末試験がキミの汚名返上の場になるべく、私が責任を取ります。責任を持ってキミを男にします。一人前の男にしてみせます」
と、新たなる決意を顕わにされていた。ありがたやありがたや。言葉の受け取り方によってはけっこうきわどい意味にも受け取れてしまうけど、ご本人にその気はまるでなさそう。
それはまた後日の話として。話を試験終了の時に戻そう。
ひとつの試練の終焉は、また新たなる試練の幕開けでもあった。
鬼軍曹文ちゃん先輩も、いまだ結果が出ていなかったこの時ばかりはまだご機嫌で、「よし志賀君。頑張った褒美に、これから私がどこか美味しい店に連れて行ってあげましょう」
などと申し出てくれたのだが、そこに、
「ごめんなさい鬼橋さん。志賀君はこれから部活なの」と、満面の笑みで進み出たのは意外や意外、倉澤由美子・美術部副部長でありました。
あらま。倉澤先輩が文ちゃん先輩と同じクラスだったとは存じませなんだ。
「あ…倉澤さん…」
副部長の声を聞くと、文ちゃん先輩の表情が急に曇ってしまった。
「お二人の仲を裂く様で悪いけど、美術部の方も忙しいのよねー」
「あ…二人の仲とか…私たちは別にその様な…」
副部長相手だと、いつもの自信に満ちた張りのある声にも勢いがなくなってしまうみたいだった。…もしかして仲が悪いのかな?
そう思って文ちゃん先輩と倉澤先輩、二人の顔をそれぞれ見比べてみる。
まずは倉澤先輩。
うーん…たしかに少々キツめな物言い、だとは思うけど。
それはむしろ幽霊部員の僕の方に対する、ちょっとした苛立ちみたいなものだとも受け取れた。別に、文ちゃん先輩に対して何やら思う所はなさそう…に見えるんだよな。
一方、文ちゃん先輩は。
いつもなら真っ直ぐに相手を見つめてくる彼女らしくもなく伏し目がちで、しかも口数もめっきり少なくなってしまっていた。
ホント、いつもの彼女らしくない。
少なくとも、そこにいる小柄な少女は、「鉄血宰相」と呼ばれる女傑とは別人に思えた。
そんな僕の視線に気がつくと、文ちゃん先輩は、
「そ…そうでしたか。志賀君、それは悪いことをしてしまいました。ご褒美はまた後日にいたしましょうか。それでは、失礼します」
と、微かに微笑んで一礼すると、教室から出て行ってしまった。
彼女の姿が見えなくなってから、僕は倉澤先輩に聞いてみた。
「…あの、副部長と文ちゃ…鬼橋先輩は、何かあったんですか?」と。
ところが倉澤副部長は、
「え?何それ。別にそんなこともないけど?」と、何でそんな事を聞くのかといった不思議そうな顔で僕を見返してきたのだった。
「…うーん…そういえば、最近はあんまり話さなくなったかな?前はけっこう話すこともあったんだけどね」
え?文ちゃん先輩の女子トーク?
想像もつかない。ちょっと聞いてみたい気もするぞ。
「どんなことを話してたんですか?文…鬼橋先輩と」
「ん?ごく普通の内容だってば。映画とかテレビとか音楽とかの話題」
音楽?…そういえば文ちゃん先輩って、どんな俳優とか音楽が好きなんだろう。凄く気になる。実に気になってしまう。
「…えっとね、俳優はピーター=オトゥールとかマックス=フォン=シドー。音楽はグレン=ミラーとかチェット=アトキンスとか言う人だったけな…あとはスコット=ジョブリン…?って人って言ってた。あたしはどれも知らないけど」
『アラビアのロレンス』に『エクソシスト』か。洋画派でしたか。
音楽の方の嗜好は実に渋い。渋すぎる。…ところでスコット=ジョブリンって誰だ?
…何だか文ちゃん先輩という人が、いっそう身近に思えてきた。
…サイモン&ガーファンクルは好き、かな?
それにしても。
二人の間…いや、文ちゃん先輩は、どうして副部長にあんな態度になってしまったのだろうか。
倉澤先輩はまるで覚えがないという。
何かを隠しているといった風にも見えない。もしかして倉澤先輩自身も気づかないうちに、文ちゃん先輩を傷つけてしまった…とか?
…それも違う様な気がする。
僕は文ちゃん先輩という人を、まだそんなに永い間知っているというわけでもないけれど、たとえば自分に向けられた批判は真っ直ぐに受けとめ、自分に非があるならば素直に認め、云われなき誹謗中傷ならばこれを正面きって論破するのが「鬼橋 文」という人だと思う。
良くも悪くもON/OFFのはっきりした人なんだ。最初に会った時から僕はそう感じた。
それなのに、今の彼女はまるで。
…まるで、怯えた小さな女の子みたいに見えた。
「そんなことより志賀君。美術室行くよ?」
倉澤先輩は、僕の心の中に浮かんだ疑問なんて、まるで気づいていないみたいだった。
先輩に促されて美術室には来たものの。
さて困った。ネタがない。
「絵を描け」というミッション自体は数日前に下されていたけれど、ここの所はずっと文ちゃん先輩の特別授業に掛かりっきりだったし、禁止令が出ていたギターのことを思う事は多々あっても、部展の事はロクに考えてなかったし…
「ザ・ボクサー」。弾きたいなあ…
「思い立ったが吉日」なんて言うけれど、試験勉強にせよ部展作品にせよ、どちらも思い立ったのは僕ではないというこの事実はいかがなものか。
…もしかして、僕って流されやすいのかな?
それとも、文ちゃん先輩と倉澤先輩という指導力のみなぎりまくる方々が凄いのだろうか。
まあ、わが群馬が誇る名物は「かかあ天下と空っ風」ではあるけれど…
上州群馬のオトコンシ(男性諸氏)のDNAは、地元の女性には頭が上がらない様な遺伝子配列になっているのかもしれない。
ちなみに12月に突入して、赤城山から吹き降りてくる空っ風の方にも、そろそろ身体が馴染んできてもいるしなあ。
…美術室にいても、僕の頭に浮かぶのはそんな無駄な事ばかり。
思いつきでテキトーなテーマを決めてみて、鉛筆を手にして描きはじめてもみたのだが。
温室で盆栽をいじっている父を描いた『戦前の生き物』。
…植木って意外に難しくて没。
袋物の細工師を営んでいる母の作業中の姿を描いた『夜なべ』。
針仕事のポーズって難しいよな。没。
夕食の時間をどうやってか正確に覚えていて、その時間になると吠えまくる愛犬ポール=サイモン(♂)を描いた『愛犬』。
…犬って奴ぁ、どうしてこうもデッサンしづらいんだよ?…没。
中学時代からの悪友森竹を描いた『腐れ縁』。
…本人からの「似てない!」という強硬なリコールによって却下。
文ちゃん先輩の肖像画は…発覚した時のお説教が目に浮かぶので論外。
人物とか動物は動くから難しいのだな、とひとり納得して、では静物画はどうか?
まず思いついたのは、愛機モーリスW20アコースティック・ギターのスケッチ。
…ギターってのは、左右対称に描くのがとっても厄介だった。こんな絵を公表するのはいちギター弾きとしてのプライドが許さないや。
風景画…はかの悪名高き「榛名山もどき」を再生産するつもりはない。第一、風景ってのはスケールが大きすぎて、僕には一枚の紙の中に収める技量なんてないし…
じゃあ小物はどうだろう?
ほら、よくあるじゃないか。お皿に盛った果物なんかの構図の定番。これならば…。
あ、だめだ。どうしても美味しそうに描けないわ。こんなの食べたら絶対にお腹を壊してしまうことは必定。描いた本人が保証するのだから間違いない。
蒼木部長には「マンガチックでもいいですか?」なんて言っちゃったけど、僕が描くマンガ系の絵って結局は「似顔絵」レベルだったりする。プロのマンガ家さんの人まねになっちゃうんだよなあ…
ヒソカな愛読書である少女マンガ(川原由美子さんとか成田美奈子さんとか)みたいな可憐な絵柄には憧れもしているけど、憧れは憧れであって憧れ以上の物ではなくしょせんは憧れに過ぎない。
もっと一般的なシンプルなイラストもあるけど…小説なんかの挿絵に使われる様な、ペン一本で描かれた様な簡略した構図の奴。
…実はああいうのが一番難しい、ということを、今回見よう見まねでやってみて僕は痛感させられた。ああいうのって、まず描く対象の特徴をよっく捉えてないと描けないんだよな…センスがないと描けませんよ、あんなのは。
…あああ、作業がまったく進んでいない様な気がする。
ホント、僕ぁ絵画の才という奴を持ち合わせずに生まれてきたんだなぁ…と天を仰いで嘆いてみた。
今にも雪が降ってきそうな曇天は、そんな僕に師走の冷たい空っ風を浴びせてくれるだけだった。
描いては没、描いては没。せっかく脳裏に浮かんだイメェジを、白い紙の上に再現しようとしては、己の未熟な技量で雲散霧消させてしまうこの虚しさよ。
あ、そういえば好きな随筆家の寺田寅彦先生も、そんな文章を書いてたっけな。
文豪夏目漱石の一番弟子にして東京帝国大学の理学教授、そして一流の随筆家でもあった文学者とおんなじ様な心境を感じた気にもなって、何となく嬉しかったりもしたけれど。
まあそんなこんなで、放課後は美術室でいたずらに無為な時間を過ごすこと数日間。
最初のうちは色々とアドバイスをくれた蒼木部長や倉澤副部長だったけど、絶望的にセンスという物を持ち合わせていない僕には、内心ではお手上げみたいだった。
よく、芸術は技術じゃない、センスだハートだパッションだなんて言う声も耳にするけど、残念ながら僕にはそのどれもが欠けているみたいなんだよなあ。もちろんそれ以前に技術もないときた。
…何で僕ぁ美術部なんて所に入っちゃったんだ?今年の春に戻って入部届を出している自分に向かってちょっと待て早まるなお前の安易な選択は不幸を招くだけだぞ、なんてお説教してやりたいよ、まったく。
趣味でやる分には構わないけど、義務になるとそこに責任と言う物ももれなく付いてくる。
いたって無責任な僕には、少々荷が重い。
とはいえ、自らが選んでしまったベクトルである以上、やるべきことはやらなければならない。
こういう時こそ、弛んだ僕を叱咤激励してくれる文ちゃん先輩の存在が懐かしかった。
でも、試験最終日の一件以来、彼女とも何となく距離ができてしまった。
というよりも、美術部にいる時間が多くなったという事は倉澤副部長と一緒にいる時間も多くなったということで、そうなると文ちゃん先輩の方が彼女を避けているのか、以前の様に二人で話せる機会もめっきり少なくなってしまっていたのだった。
…文ちゃん先輩が倉澤副部長を嫌っている、というわけでもなさそうだ。
あの人嫌い、なんていう態度を見せる文ちゃん先輩…?
…それは彼女からもっとも遠い所にある様なイメージだよなあ。
どんな相手にも真っ直ぐに向き合うのが文ちゃん先輩という人だ。
試験勉強の時に文ちゃん先輩が教えてくれた「電気陰性度」という言葉を思い出した。
ちゃんと授業を受けているはずなのに、化学なんてまるで未知の領域に感じている僕ではあるけれど、この言葉はすんなり理解できた。
電気陰性度。それは原子同士の間で起こる力を表す値のことだ。
それぞれの原子の中で対になっていない電子(不対電子)は原子から外に出されて、これを原子間で共有することによって結合する(共有電子対)。この時、この共有電子対は結合した原子の間で、それぞれの方向に引き寄せられている状態にあるのだが、この強さを示すのが電気陰性度。
これを教えてもらった時、「自らの方向に引っ張るなんて、まるで僕のネクタイを引っ張ってく文ちゃん先輩みたいですね」と彼女に言ったら妙にウケたっけな。
…そうさ。
「美術部」というひとつの原子の枠の中では「対」になれなかった僕は、たとえて言うなら宙ぶらりんな「不対電子」みたいな物だ。
その「不対電子」を、強烈な個性で引っ張ってくれたのが文ちゃん先輩だった。
彼女のおかげで、僕は自分の居場所、立ち位置を見出すことができたのかもしれない。
でも。
今の僕は倉澤副部長…というか美術部の方に陰性度が偏っていて、その分、文ちゃん先輩との距離が大きくなってしまった。
…結局、「志賀義治」という名を持つ不対電子は、またもや宙ぶらりんのまま。
僕がいまだに絵のひとつも描けないのは、それが理由なのかもしれないな。




