桜の気持ち
「ただいまー……」
私、樋口桜は樹君たちと別れると、家の中に入った。
「あら、お友達はもういいの?」
母がそう聞いてくるが、私はうん、と一言答え、そのまま部屋に戻ってしまった。
「おう、おかえり」
部屋の中にいたケンが私にそう声をかけてくる。
「あんたは気楽でいいわね……」
私はため息をつく。
「それ卵だよな。タツッキーから預かって来たのか?」
「そうよ。割らないようにね」
「分かってるって」
ケンはなぜ私がこんなに悩んでいる様子なのかをまるで気付く様子もない。私から卵を預かると、コロコロと転がしている。
(本当は私だって樹君の力になってあげたかったわよ)
そもそも私が樹君の申し出を断ったのはケンだけで手一杯だからというのが理由だが、説明としては不十分だ。本当の理由は彼の存在が消滅してしまう危険性をはらんでいるから、今他のことに構っている場合ではなかったので断ったというのが正しい。私は少し前にマーラさんから受け取ったグランと名乗る悪魔からの手紙のことを思い出す。
(今ケンは存在を消滅しかねないほどの危機に直面している。理由はお前も分かっていると思うが、奴が願いを叶えないからだ。だが、そのもっと根本的な理由はお前がケンに願いを願わないからだ、とも考えておる。わしもむざむざケンを消滅の危機にさらしたくはない。できればわしが人間界に出向く前にお前にある程度この問題を解決して欲しいのだ)
私が何かを願わなければ、ケンは消えてしまうかもしれない。そもそも私とケンが契約したのは麻梨乃さんや樹君たちと比べるとやや遅い方だ。本来であればもっと焦っていなければいけなかったはずなのだが、樹君が私と同じように願いを叶えなかったことで、すっかり安心しきってしまっていたところがあった。だが、消滅の危機にあることを知った樹君は沙良さんと話し合い、真の意味で契約者同士となった。一方の私はあの時から何も成長してはいない。ケンとの関係にも変化はないままだ。そんな時にこの手紙だ。どうすればいいか分からずに戸惑ってしまったのも仕方ない、と自分に言い聞かせて何とか精神状態を保っている。だが、いつまでもこのままでいる訳にはいかない。
「……ねえケン」
私は覚悟を決め、ケンに声をかける。
「何だよ改まって」
ケンは卵を転がしていた手を止め、顔を上げて私の方を見る。
「……あなたも、消滅の可能性があるのよね?」
「ああ、そのことか」
言葉を絞り出すように発した私とは対照的に、ケンはあっけらかんと返した。
「マーラさんと会ってから様子がおかしいとは思ってたけど、やっぱり知ってたんだな」
「そのことかって……あんた、自分の置かれた状況が……」
「分かってるよ。今のままじゃまずいってことくらいは」
だが、ケンはあっさりと私の言葉を肯定した。
「確かに今の俺じゃ消えちまうだろうけどな。それでも俺は桜が願いを叶えたくないっていうのなら、それを無理やりに強制するような方法は取りたくねーんだよ」
「ケン……私は」
「何も言わなくてもいい。分かってるからさ」
このままだと私はまたケンに言いたいことを言えないままに話が進んでしまう。
「そうじゃないの!」
そう思って突然叫んだ私の方を見てケンはびくっとしながら私の方を見る。
「私があなたに願いを叶えてもらわなかったのは、願いを叶え続けたらあなたが悪い悪魔になっちゃうんじゃないかって、そう思ったから。だから私はずっとあなたに頼みごとをしなかったの」
「……そんなわけねーだろ。たとえどんなに桜の願いを叶えたって、俺は俺のままだ。むしろ俺の方が願いを叶えていいのか心配になってたところだぜ」
私の言葉にケンは少しだけ笑みを浮かべて答える。
「……えっ?」
意外な言葉に私は聞き返してしまう。
「アリーの契約者、吉永麻梨乃は願いを叶え続けてたおかげで性格が一時期歪んでたらしいじゃねーか。タツッキーとサラがいろいろやったおかげで少しはマシになったみたいだが、俺は桜にそうはなってほしくなかったからな」
「ケン……」
私はこらえきれなくなり、すすり泣きを始めてしまう。ケンはそんな私の肩をポンポンと叩いた。
「お互い言いたいことが言えてなかったんだな。こんなんじゃ契約者失格だぜ」
「ホントね」
私とケンはしばらくは何も言わず、互いがいるという安心感に体を委ねていた。
「でも、いざ何か願いを叶えなきゃってなると困るんじゃねーか?」
少し経ってケンは私にそう聞いてくる。
「ううん、1つあるの。今すぐ約束してほしい願いが。今すぐには叶わないけど」
「……何だよいったい?」
もったいぶった言い方にケンはやや不機嫌そうに尋ねてくる。私はケンにそっと耳打ちする。途端にケンの顔が赤くなった。
「ね、お願い」
「……分かったよ。そんなん願いかけるまでもなく約束してやるけどな。最初に叶えてほしいっていうんなら仕方ねーや」
ケンは私から顔を逸らそうとするが、
「……しまった俺の能力は眼力型だったんだ。くそっ、何か人気がない能力だと思ったらそういうことかよ」
思い直したのかそんなことを言いながら私の方を見る。
「桜も俺の目を見てくれ。俺が願いを叶えるには相手の目を見ないといけないんだ」
「わ、分かったわ」
恥ずかしさを覚えながら、私はケンの目をまっすぐ見た。
「じゃあ、行くぜ」
そう言ったケンの目が突然に渦を巻き始める。その数秒後、彼の目が一瞬赤くなり、フラッシュのように点滅し、元に戻った。
「これで桜の願いは叶う。あとはその時になるまで待っててくれればそれでいい」
「うん。……私たち、いつかは離れないといけないんだもんね」
その言葉の意味はどうとでもとれる複雑なものだ。
「ああ。だからこの願いにしたんだろ。試験が終わってもまた会えますようにって」
「うん」
ケンはどうやら言葉通りに受け取ってくれたらしい。でも、その言葉の意味は他にもある。今はそれでもいいと思いながら、私の頭の中には2人の姿が浮かんだ。1人はケン、そしてもう1人は……。
(今はまだ友達でいい。でもどちらか選ばなきゃいけないってなったら、私はどっちを選ぶんだろう?)
いつかはいなくなってしまう大切な契約者の悪魔と、今一番信頼できる人間の男の子。私の頭の中で2人の存在が揺れては消えるのだった。




